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 久野家からの帰り道、駅に向かう道で、俺の頭は軽く破壊された。
「塁の家、泊まっちゃだめ?」
 断る理由も見つからないし、断りたくないし、寧ろ言い出してくれて嬉しいぐらいだし、「どうぞ、その代わり布団は一組しかないけど」と顔を見遣った。
「いいよ、その方が」
 俯いたまま、街灯の明かりでも分かる曽根ちゃんのその耳の赤さに、俺は卒倒しそうになる。
 二駅電車に乗り、長居の駅に着くと、俺のマンションに向かった。二度目になるから、簡単な道順はもう覚えてしまっているようで、マフラーにうずめた顔は殆ど外に出さないまま、俯き加減で歩く曽根ちゃんの姿は、亀のようで何だか滑稽だった。
部屋に入ると出し抜けに言った。
「テーブルとラグがある」
 目についたその二つに反応している曽根ちゃんに「こっちもあるんです」と小さな硝子の扉がついた棚を見せた。
「洒落てるねえ。塁っぽいよ」
 ラグが気に入ったらしく、座って手のひらをワサワサと滑らせてニヤついている。俺は二人の上着をハンガーに吊るすと、エアコンのスイッチをいれ、風呂の支度をした。
「俺、いつもシャワーしか浴びないんだけど、大丈夫? 寒いかもしんないけど」
 風呂場から叫ぶと、部屋の方から「大丈夫ー」と少し間延びした声が聞こえてきた。タオルと部屋着を用意して、「お先にどうぞ」と洗面所に案内した。
 彼女がシャワーを浴びている間に、布団を敷き、お湯を沸かす。マグカップにティーバッグを入れて、片方には砂糖を少し入れて、彼女がシャワーからあがるのを待った。そのうちドライヤーの音が聞こえてきて、折りたたみ式のドアが大仰な音を立てて開いた。
「水色のマグにお湯いれて、紅茶飲んでて。俺はあとで飲むから」
 そう言い残して俺はシャワーを浴びた。この状況なら、「そう言う事」になるだろうと誰だって予測はつくわけで、念入りに倅を洗ってやる。年末の大掃除だと思えばいい。
 ドライヤーをかけてドアを開けると、ミニキッチンに曽根ちゃんが立っていた。
「紅茶、一緒に飲もうよ。砂糖入りが塁のでしょ?」
 俺がシャワーから出るのを待っていてくれたらしい。俺はペタペタと裸足で彼女の元まで歩いて行き、頭を撫でた。
「何、子供じゃないんだから」
 そっけない言葉をはきながらも、口端から笑みが零れているのを俺は見逃していない。
 それから曽根ちゃんがティーバッグをゆっくりゆっくり上下させるのをじっと見届けて、テーブルについた。
 新しいテーブルに向き合って、紅茶を飲む。新しいテーブルに初めて迎えたのは曽根ちゃんだ。幸せすぎて、笑みが零れて仕方がないのは俺の方だ。来客の事なんぞこれっぽっちも考えていなかった俺が、ラグとテーブルを買ったのだ。それは誰のためでもない、曽根ちゃんの為だ。
「何か、硝子天板だと、傷つけそうで怖いな」
 硝子に向いていた顔をすっとあげると、そこにはいつもの怠気な顔が乗っていたのに、きゅっと口角があがり、笑顔に変わる。今日は幾度となく彼女の笑顔に相見えている。
「曽根ちゃん、今日はよく笑うね」
 ここから先の言葉は俺の想定内だ。「そんな事ない」と言って下を向く。まったく分かりやすいツンデレ娘。
「何か楽しかったなぁ。鍋」
「どの辺が?」
 曽根ちゃんは暫くうーんとあやふやな視線で天井を見上げる。首元にほくろがあるのを発見した。
「あーいうの、初めてだから。サークルもやってなかったし。両親は共働きであんまり家族でもやった記憶ないし、何か、一つの鍋をみんなで突いて、喋って、笑って、凄い楽しかったよ」
 髪を掛けた耳の先は赤くて、でももうそんな事は気にする事ではなくて、曽根ちゃんが楽しんでくれたなら俺はそれで良かった。この一年の最高の締めくくりだ。楽しい奴らと鍋を突いて、締めくくりに大好きな人と甘い紅茶を飲む。これ以上の幸せがあるもんか。
「身体が暖まるな。曽根ちゃんが入れた紅茶だからだな。もしかして媚薬とかいれた?」
「入れてないし。誰が作ったって一緒だよ、ティーバッグの紅茶なんて」
 また素っ気ない態度に戻る。
 恋人と夜を過ごすとは、こういうものなのか。こんなに暖かいものなのか。矢部君と過ごした夜とは全く違う、家族と過ごす夜とも全く違う、首のぎりぎりまでぬるま湯につかって暖かいような、苦しいような、妙な感覚に支配されて、解放される術を探した。別に心地が悪い訳ではないのだ。だけどお湯が多過ぎる。ちょっぴりお湯を少なくしてやると、丁度良くなるのだろうと思う。もう日付が変わりそうだった。今年中に。
「曽根ちゃん、もう寝ましょう」
 そう言うと曽根ちゃんは無言で腕をついて立ち上がり、布団へ歩いてきた。
「枕は曽根ちゃんが使っていいよ。俺は座布団を折り曲げて使う」
 彼女は「ありがと」と呟くみたいに言って、布団を折り曲げて脚を入れた。矢部君みたいに細くて折れそうな脚ではなく、白くてしなやかそうな、艶かしい脚で、それだけで俺はぞくっとしてしまった。
「そいじゃ電気消すよー」
 俺は白熱灯のコードを引っぱり、それから曽根ちゃんの隣に滑り込んだ。布団は少し冷たくて、でも曽根ちゃんがいる側はほかほかしている。
「曽根ちゃん、俺、童貞なんだよ」
「知ってる。何度も言わないで」
 手に当たった曽根ちゃんの手をすかさず握り、その冷たさに驚愕する。暖めなければ。俺は両手を使ってその手を暖めに入った。手を手で挟み込みながら口を開く。
「その行為に入って行くやりかたも分かんねぇし、誘い方も分かんねぇの。相手がしたがってるのかも分かんねぇし、それから」
「塁は、私としたいの?」
 俺の言葉を遮るように彼女の言葉が通り過ぎて行く。彼女の質問を頭の中で反芻し、それから握る手に力を込めて「したいよ」と伝える。
「私だってまともな男とした事がない。ちゃんと、好きでしてくれるのは塁が最初かもしれないから。お互い様です」
 曽根ちゃんのもう片手が俺の手に添えられ、ひんやりとする。女の手ってどうしてこんなに冷たいんだろうか。ふと考える。考えても答えは出ないから、俺が暖めてあげればいいという結論に達すると、俺は彼女を抱きしめた。
「痛くない? 背中」
「うん」
 消えてしまいそうな声で、俺の身体に必死にすがりつくように身を寄せる彼女が愛おしく、俺はそのままキスをした。身体の全てにキスをしてやりたかった。俺はさっき見た、首もとにあるほくろにも忘れずにキスをする。
「ここにほくろがあるんだね」
「セックスの最中に無駄口叩くぐらい余裕があるんだったら心配ないね」
 暗闇に慣れた目で見た彼女の顔は、いつもよりも数倍美しく、笑みを湛えている。あいつと、富樫とする時にもこうして、笑みを浮かべていたのだろうか。振り払いたくても振り払えない思考が頭に留まる。このままじゃいけないと足掻き、彼女にキスをして頭の中を彼女の事で飽和させた。
 それからは無我夢中で、彼女を満足させ、勿論俺も満足をすると、そのまま座布団に突っ伏して眠ってしまったらしい。
 翌朝、薄ら寒さに目を開けると、裸のままの曽根ちゃんが隣で寝息を立てていた。肩のあたりにはまだ薄らと黄色く変色した痣が残っている。他はほくろ以外の余計な物が一切ない、真っ白な肌だ。だから余計にこの痣が、邪魔だった。