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―一―矢部君枝

 高校と比較すると、大学の良い点は、無理に友達付き合いをする必要性が無い点。何物にも属さずに済む点。自分が自分でいられる点。そんな風に感じながら、足取りも軽くこの大学の門をくぐった。
 街中では満開期を過ぎた桜が、青葉に侵食されようとしている。大学の正門には、緑がかった青銅に大学名が彫り込められている。そこを抜けると、秋には黄色の葉を散らすのであろう銀杏並木が続いている。先にある、大きな建物が講堂だ。入学式の会場となる講堂に、スーツを着用した人間が、次々に飲み込まれて行く。
 今頃、女子大の入学式に臨んでいる筈だった。何をとち狂ったか、マークシート問題の答えが一つずつずれている事に気づいたのは、試験終了三分前だったのだから、救いようがない。仕方なく、第二志望だった男女共学の大学に進学した。

 この大きな世界で、たった一人ぼっちになった気分になる。数多の人間が同じ空間に着席しているのに、一人として見知る顔は無く、それが嬉しいようで、少し寂しくも感じる。
 やや暖房がきつく、身体が火照り始めると、羽織っていたグレーのカーディガンから袖を抜き、膝に掛けた。隣の誰かに肘がぶつかり「すみません」と謝罪をする。それでもその「誰かさん」と繋がりを持つ事は恐らく、無いだろう。ぶつかった肘をさする。誰かさんは男性だった。
 校長や理事長の話が長いのは、何処へ行っても同じ事。暫く黙って考え事でもしていれば、時間は嫌でも過ぎ去る。
 高校時代は、誰にも嫌われないように、目立たないように、クラスの中堅レベルのグループに属していた。その中のリーダー格的存在の言いなりになっていれば、それで事が済む。
 正直な所、彼女が言う事全てに賛同していた訳ではない。しかし、終始自分の話ばかりをする彼女の存在があったからこそ、私は自分をさらけ出さずに済んだ。「いかに目立たず、外されず」が目標だったのだから、私はそれを見事達成した事になる。
 部活動に所属する訳でもない。バイトに勤しむ訳でもない。ただただ淡々と、自宅と高校の行き来を続ける毎日。趣味は、読書と映画鑑賞ぐらいであろう。
 今は映画鑑賞といっても、劇場公開が終了すれば、すぐDVD化されて店舗に出回る。そして即座にレンタル化されるため、もっぱらレンタルで映画を観る事が増える。そうなると、映画館から足が遠のくため、自宅にいる休日が格段に増える。
 脳内で過去を振り返っている間に、禿げ散らかった学長や、時代錯誤も甚だしい教育ママ風の、眼鏡をかけた理事長による冗長な話は終了した。糊付けされたが如く、平らになっていた尻を椅子からグイと持ち上げ、立ち上がり、タイトスカートについた皺を手の平でさっと伸ばす。視線を上げ、広く開けられた出口へと人が流れて行くのを暫く見つめていた。

 講堂を出ると、そこはお祭り騒ぎの様相を呈している。
「テニスサークル、どうですか?」
「ベリーズサークル、楽しいですよ!」
「飲み会好きな人、見てって」
 目的がはっきりしているサークルもあれば、これといって目的がなさそうなサークルもある。少し肌寒い春空の下でも、皆頬を上気させ、瞳を輝かせている。とにかく祭りの出店のように、銀杏並木に沿ってずらりとテーブルが並んでいた。
 それぞれのサークルが、趣向を凝らした立て看板を立てたり、変装をしたり、ユニフォームを着たりして、新入生を勧誘している。一つ一つ見ていくと、日が暮れそうだと苦笑する。
 取り立てて見た目が派手な訳ではない私は、派手なサークルからは全くと言っていい程、声が掛からない。目にも止まらなかったのかも知れない。少し下がってきたメガネの弦を指で持ち上げる。人混みの中でも確かに、弦が軽く音を立てた。
 飲み会主体のサークルは無難で人気が高いのであろう、人だかりができていた。自分には無縁だという自覚の援護により、その場を足早に通り過ぎる。

 正門が見えてくる。並木の一番端、立て看板のない簡素なテーブルが目に飛び込んできた。三角形に折った段ボールに「読書同好会」と書かれた白い紙が貼り付けてあり、強い風の度にたなびいている。
 スーツを着た三人の男性が、椅子に腰かけてこちらを見ている。何気なく移動させた視線が、中央の一人のそれと絡まり、パンプスの足を止める。少し童顔で、地毛なのか少し髪の色素が薄い彼が、手招きをした。別の人間を招いているのではないかと、咄嗟に振り返ってみるが、そこには誰もいない。彼は一切視線を外す事無く、手招きをしている。履きなれないヒールをアスファルトにぶつけ、恐る恐る近付いた。
「読書、好きだよね」
 抑揚と言う言葉を宇宙の彼方に置き忘れてしまったような口調で、そう断定する。
「は?」
 彼の言葉は耳に入って来ているのだが、断定された事に戸惑う。何を以って彼は断定したのだろう。
「だから、読書好きだよね。顔に書いてある」
 明るい茶色を帯びた瞳は、強く真直ぐにこちらへ向けられ、あまりに強過ぎるので私は顔を俯けた。押しの強い男は苦手だ。
 右端の、座っていても体格が良いと分かる男性が、場違いな程大きな声で補足する。
「俺達、高等部上がりの一年だから、君と同級生。だもんで部の歴史なんて無い。部員はまだ三人なんだよ」
 はぁ、と溜息にも似た声を漏らす。サークル集団から離れたここは、息が白く見える程度には寒い。俄に白くなった空気の向こう、茶髪童顔が、クリアファイルから白い紙と、空き缶に立っているボールペンを私に突き出した。
「ここに名前と、学籍番号、メールアドレス、書いて」
 机に置かれ、男が手を離した途端、その紙が春風に飛ばされそうになった。咄嗟に手を伸ばすと、腕時計が音を立てて手首へ落ち、留まる。茶髪童顔が私の顔を見て、片方の口角をぐいと上げた事に気づいた。しまった。
「あの、私まだ入部するって言ってませんけど」
 手を離すとこの紙はどこかへ飛んで行ってしまう。私は中途半端に腰をかがめた姿勢で用紙を押さえ、物申すと、これまで黙っていた左端の男性が、俯いたまま少し掠れた声でこう言うのだった。
「思い出作りに、どうですか? サークル」
 一度も顔を上げず、視線も上げずにそう言われ、戸惑う。一見して整った顔立ちと分かるその男性は、何か恥ずかしい事を口走ったかのように、手元に手の平をあてがって、肩が上下する程の呼吸をしている。私は無言のまま、順繰りに三人を視た。
 右端の男は、季節外れの向日葵のような顔でこちらを見ている。真ん中の男は、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ腕組みしている。左の男は相変わらず俯いたまま肩を上下させている。
 三人三様の彼らを見て、少しでも興味が湧いてしまったのは、悪い兆候ではないのだと自分に言い聞かせる。誰ともつるまない、そう心に誓っていたのに、人間の心とは、いとも簡単に折れてしまう物だ。
 私に付き纏う、男性に対する苦手意識は、図らずもここで解消されるかもしれない。矯正だと思えばいい。嫌になったら、適当な理由をつけて辞めれば良い。サークルの部員が増えれば、きっと私という存在は忘れ去られていくであろう。気負う必要は、無いのかもしれない。
「読書は好きです」
 そう言って、名前と学籍番号とメールアドレス、携帯電話番号を記入し、空き缶にボールペンを立てた。空っぽな金属音と共にボールペンが弧を描いて回った。
 用紙を童顔茶髪の目の前に差し出すと「で、どうすればいいんですか」とぶっきら棒に訊ねる。
「四人集まれば部室が貰える事になってるんだ。という訳で、居場所が無くなる前に、部室の確保に行こう」
 笑顔の見本のような男の声を皮切りに、大仰な音を立てながらパイプ椅子は平らにされ、テーブルも折り畳まれる。あっという間だった。
「椅子、一個持って」
 童顔茶髪に言われ、突き出された椅子に手を掛ける。「あ、はい」まるでアシスタントの様に、彼らの後について行った。

 部室棟、と呼ばれるそこには、ありとあらゆるサークル、同好会、部活の部室が存在する。在席人数が多いサークルは、部室を使用しないため、空き部屋もあるようだ。
 一階の角部屋、青色のドアに刺さっている表札用の白い紙を抜き取ると、童顔茶髪は、持っていた黒マジックで「読書同好会」と、丸っこくも整った文字で書き、刺し戻した。
 ドアを開けると、コンクリート製の壁から発せられる冷たい空気が頬を刺す。会議用のテーブルやパイプ椅子、ホワイトボードが置かれている、小部屋だ。
「とりあえず座ろうか」
 パイプ椅子を円形に配置し、声の大きな男がエアコンのスイッチを入れると、電子音と共に少し温かい空気が流れ出てきた。どうやらこの場を取りまとめるのは、声が大きな笑顔の男らしいと理解する。
「で、本当に読書が好きなの?」
 童顔茶髪は一人だけ後ろを向いて座り、机に足を乗せている。相変わらず抑揚のない声で訊ねられ、私はムッとした。
「好きですよ、だってここ、読書同好会でしょ?」
 可笑しな事は何一つ言っていない筈なのに、何故か三人が吹き出したため、戸惑いを隠しきれない。空気から置き去りにされている感覚に陥る。笑顔の男がよく響く声で説明をし始めた。
「俺らは読書好きな訳じゃなくて、新規で小さいサークルを立ち上げたかっただけなんだよ。上下関係とか、面倒な事を抜きのラフなサークルを。さっきコイツが言った通り、思い出作りにね」
 と、未だ俯いている男性を指差して言う。
「じゃぁ読書は」と笑顔の男にぶつけると「その辺で勝手に読んでりゃいいじゃん」と抑揚ない声が飛んでくる。あえてそちらには視線を遣らずにおいた。


―ニ―久野智樹

「じゃぁあれだ、自己紹介だな」
 既に仕切り役になっている至(いたる)が手の平を鳴らす。さっき塁(るい)が持っていた白い名簿をクリアファイルごと奪うと、そこに書かれた名前を確認し「じゃぁ君枝ちゃんからどうぞ」と促す。彼女はさっと頬を赤らめ、おかっぱの髪を両手で撫でつけた。
「えっと、あの、矢部君枝です。君達のきみに枝のえ」
「じゃぁ、あだ名は、やべくん、だな」
 平坦な声で塁が横槍を入れると、「やめてください」咄嗟に彼女は拒絶した。
 初対面の女の子に向かってあだ名が「矢部君」はないだろう。俺はそう思う。だが塁の事だ、咎めても無駄。女の子と俺をからかう事は奴の得意技。心は中二の夏休みのような奴だ。
「文学部。趣味は読書と映画鑑賞、出身はこの辺りです」
 彼女はそれだけ言うと、俯いて黙り込んでしまった。一時的な沈黙にエアコンの稼働音だけが時間を進行させる。
「ねぇ、これって俺達も自己紹介すんの?」
 塁は至から奪い返した名簿用紙の裏に、いたずら描きをしながら誰ともなしに質問をした。クリアファイルを下敷き代わりに、何か描いている。ちら、その紙を覗いてみると、フレームが細い眼鏡の絵だった。
「俺は寿至。理学部で、高等部では野球やってましたー」
 腹の底から出る声が、この男の特徴だ。笑うと迷惑なほどの大きさに膨れ上がる。親分肌で、厚かましさの欠片もなくその場を取り仕切る事ができる人間。俺は至の事を尊敬している。欠点といえば、優し過ぎる事と、鈍過ぎる事だろうか。要は、名前の通り、おめでたい奴なのだ。
「じゃぁ次は俺ね。太田塁。芸術学部。高等部の時は野球やりながら絵を描いてました。はい次ー」
 彼女は上半身ごと何度も頷いて、おかっぱの髪を揺らしている。こんな形ばかりの自己紹介でも、真剣に聞いてくれる態度に好感を持つ。
 いたずら描きに使っている鉛筆で「次」を任された俺は、居住まいを正し、一度空咳をする。
「久野智樹、理学部。趣味は君枝ちゃんと同じ、映画鑑賞。高等部では二人と同じく野球を」
 知っている奴が二人もいる中でする自己紹介とは、恐ろしく恥ずかしい事だと実感する。そもそも、これでは彼女に名前も何も覚えてもらえないのではないかと心配になる。三人とも高等部を出ていて、三人とも野球をやっていて、二人は同じ理学部。共通点が多過ぎる。
 それでも物覚えの良いと見えた君枝ちゃんは「下の名前でいいの?」と確認しながら「至君、塁君、智樹君だね」と完璧に呑みこんでいた。これには恐れいった。

「おい、塁、なにやってんだ?」
 至が塁の手元を覗き込むと「矢部君の眼鏡描いてる」と君枝ちゃんを早速「矢部君」呼ばわりした。君枝ちゃんは立ち上がって塁の背後に回り込むと、紙に視線を落とす。
「凄い――」
 別段特徴の無い眼鏡なのに、君枝ちゃんが今装着している眼鏡と分かる、モノクロの絵を見て、君枝ちゃんは思わず感嘆を漏らした。
 塁の芸術的センスは素人目でも優れていると判る。本当は芸大に入りたかったらしいが、親を亡くして親戚に引き取られた塁は「奨学金で通える範囲」と言われ、仕方が無く高等部からそのまま進学した。
「塁君、芸術学部だっけ?」
「塁、でいいよ。呼び捨てで。芸術学部の美術学科」
 描き終えた傍から消しゴムで消している。こうやってよく、高等部の授業中にも、教師の顔をデフォルメして描いたり、俺の顔にボールをぶつける絵を描いたりしていたのを思い出す。
「至君と智樹君は理学部だね」
 笑顔で大口を開ける至の横で、俺は至って無表情で頷く。が、俺の無表情の裏で、心臓が口から飛び出そうになっていた事に気づいた者は居ないのであろう。
 俺は眼鏡を掛けた女性が無条件に好きだ。高等部から付き合っている理恵にも、伊達眼鏡を買わせた程だ。眼鏡を掛けている、それだけで俺の評価は跳ね上がる。

 突如、脚を下ろした塁が立ち上がる。先程の椅子に腰掛けている君枝ちゃんの目の前に跪くようにしゃがみ込んだ。と、あっという間に彼女の眼鏡の弦に手を伸ばし、それを外す。
 君枝ちゃんは逃げる様に身体を後ろに反らせ、呆気にとられているが、事を起こした張本人である塁は、呆気にとられている彼女をじっと見つめている。穴が開く程。数ミリ位は穴が開いたかも知れない。
「矢部君、眼鏡外した方が可愛いよ」
 眼鏡を掛けている女性が大好きだ。そうカミングアウトが出来たらどんなに楽か、今まで何度もそう考えていた。しかし俺は、いつの間にかクールなキャラで通っていた。まさか眼鏡の女性に萌えるなど、死んでも口に出来ない。
「ちょ、返して、見えないから」
 相当目が悪いのであろう。眼鏡を掴もうとする手が、なかなか眼鏡に届かず、中空を掻く。やっと届くと塁から分捕って、再び眼鏡を掛けた。
 似合う、似合わないは別にして、やはり眼鏡を掛けた女性は素敵に見える。俺は眼鏡の女性が大好きだ。そう思いながら満足気に、眼鏡を再び掛けた君枝ちゃんを見ていた。
「私、運動してこなかったし、コンタクトにする必要性も無いからずっと眼鏡なんだ」
「地味に見えるよ、眼鏡」
 塁に一発拳を入れたい衝動に駆られる。地味でも何でもない。実際、彼女が眼鏡を外したら、それこそ地味になってしまうような気がする。それは失礼だから言わないでおいた。
「まぁまぁ、ここは眼鏡研究会じゃないんだから」
 諫めるように言う至に、塁が「だったら何すんの、具体的に」と放る。至は腕組みをすると低く唸り、特に着地点も無いといった態であっけらかんと言う。
「何をするかはこれから追々決めるとして、とりあえず講義が終わったらここに集まろう」
 その場で頷く面子のうちで、君枝ちゃんだけが困ったような顔をして頷き損ねている。
「あの、もう一人か二人、女の子、誘わない?」
 チェックのスカートの裾を握りしめながら、各人の顔を覗き込んでいる。
「それもそうだな、じゃぁ矢部君、適当に誰か誘ってきてよ。言い出しっぺだし」
 塁の無茶ぶりに君枝ちゃんは更に困った顔をしている。サークル勧誘の時にだって一人で真っ直ぐ校門に向かっていた子だ。友達なんている筈もない。何か手伝える事は無いかと考える。
 しかし、俺がもし高等部上がりの女の子を誘って、それが理恵にバレたりしたら――。
「君枝ちゃん、頑張って」
 俺は申し訳ないと思いつつ、彼女に目線を遣らずにそう言った。
「矢部君、期待してるよー」
 塁の後頭部を一発殴った。


―三―太田塁

 大学に進学したら、何か変わるなんて、そんな事を期待していた訳ではない。
 少なくとも、真っ黒な学ランの立ち上がった襟を鬱陶しく思ったり、第二ボタンの奪い合いに巻き込まれたり、「美術」という名の不可解な授業を受けなくて済むだけでも、俺にとっては幸せな事かもしれない。
 高校の美術の授業は最悪だった。俺は進んで美術を選択したが、他の奴らはそうとは限らない。「音楽と書道が嫌だから美術」と言っている奴が殆どで、奴らが作り出す作品は駄作ばかり。
 俺が抜きに出て優秀だとは思わない。だからこそ、俺より優秀な奴がいる場で俺は、勝負したかった。こんな理由で芸術学部に進学したのだ。
 だからと言って、勉学にばかり励もうとは思わない。中等部からの腐れ縁である至や智樹と「思い出作り」の為にサークルを立ち上げる事になったからには、サークル活動を楽しもうと思っている。奴等には絶対に言ってやらないが、俺は奴等が大好きなのだ。
 それにしても、一昨日加入した矢部君枝は地味だ。俺はベッドに横たわり、脚あげ腹筋をしながら考える。何故、彼女を勧誘したのだろう。
 地味を絵に描いたような地味な女だ。眼鏡を外してやったらそれなりの顔になるから、俺は眼鏡が無い方が可愛いと言ってやったのに、聞き入れなかった。「可愛い」とまで言ってやったのに、コンタクトにする気はないらしい。俺の美的センスはあまり信頼されていないようだ。
 野球をやっていた頃に比べると、筋力が明らかに落ちた。脚の上げ下ろしをしていると、腹筋が笑う。俺の腹筋はこんなものだったか。何気なく、日課として筋トレをするようになったのは、中学の頃からだ。体格に恵まれて、尚且つ寡黙でクールな智樹に追いついて、追い越したかった。奴は見た目も中身もクールで野球のセンスも抜群。俺はそれが悔しくて、毎日筋トレを欠かさなかった。
それに、美大専門塾に通っていたような、ひ弱な美大生とは一緒にされたくないから、野球をやめてからも継続している。

 矢部君の他にも、もう少しマシな女の子が入ってくればいいと思う。まぁ、俺はサークルでの出会いなんて物は期待していないし、女には然程興味が無い。しかし、サークルで思い出を作っていくなら、男女比は一対一に近いに越した事はない。
 しかし何故だろう。女に別段興味のない俺が、あの粗末なテーブルにおずおずと近づいて来た、地味な矢部君の瞳の中を覗いた時の、何かひやりとした感覚に目も心も奪われた。俺はそれを凝視し、彼女はすぐに俯いてしまった。あの瞳が、忘れられない。だからこそ、彼女を勧誘したのだろう。もっと良く見えるように、眼鏡を外して欲しいのだ。
 天井まで伸びる本棚から、立てかけてあったスケッチブックを手に取ると、机から鉛筆を持ってきてベッドの縁に腰掛けた。削りたての鉛筆は絵を描くにはしっくりこないから、スケッチブックの左端に少し、芯に角度をつけるようにこすり付ける。
 あの瞳を思い浮かべる。彼女の顔を思い浮かべる。少しずつ線を描き足し、顔の輪郭が出来上がる。丸い輪郭。目と鼻はこの辺りだっただろうか。
 髪は肩程の黒髪だった。智樹の髪の様にさらさらしていた。名簿に名前を書く時に、甘い香りが香ったのは、シャンプーだろうか。香水をつけるような女には見えない。
 口と鼻を描き、耳は半分髪に隠した。眼鏡は描かない。
 最後に、目を、瞳を描いた。少しずつ、少しずつ瞳を描いていくが、あの冷りとした感覚がする瞳が、どうしても描けない。本人を目の前にしたら、或いは描けるのか。何度も何度も、瞳だけを消し、描き直すが、思い描いている彼女の瞳に近づく事ができず、苛立つ。
 結局、全部を消しゴムで消す事も無く、中途半端に描き上げた一枚の紙をスケッチブックから剥がし、丸めてゴミ箱に投げた。
 腕は鈍ったものだ。コントロールミスにより、紙で出来たボールはゴミ箱の縁に当たって飛び落ちた。
 あいつなら、確実にゴミ箱へインしていただろう。何でも完璧なところが気に入らない。何でも完璧なところに心惹かれる。
(続く)


頒布版と一部異なる場合がございます。

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