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11

 自宅に帰ると、相変わらずパソコンに齧りついている昭二がいた。
「ただいま」
「おかえり」
「お昼食べた」
「パン」
 一度も顔をこちらへ寄こさず、刻々と動くモニタ内のグラフに注視している。
 ジジジーと、ガラステーブルの上に乗せてあった昭二の携帯電話が着信を知らせた。
 ふと目を遣ったが、瞬間にパッと電話が昭二の手の中に入り、彼は「もしもし」「はいはい」と言いながら口元を手で覆い、早足で寝室へと入り、ドアを閉めた。
 何が、という訳ではないが、普段見せない行動を不審に思い、私は足音を消して寝室に近づいた。
「明日?うーん、まぁ仕事って事にして出るよ。うん。勿論夜まで大丈夫だ。嫁がいるから、もう切るよ、うん。じゃあ明日」
 会話が終わりそうなところを見計らって私はキッチンに戻った。素知らぬ顔でみそ汁の具材を切っていた。
「明日、仕事になった」
「あぁ、そう。忙しいね」
 包丁の単調な音が響く。
「遅くなるから、夕飯はいらない」
「そう」
 包丁から目を離さなかったのに、どこか動揺したのだろう、右手が震えて左の人差し指に刃が当たってしまった。
 リビングにある救急箱から絆創膏を取り出し、指に巻いた。
「どうしたの」
「指切った」
「ふーん」
 戻れないところまで、急速に走ってきている気がする。彼の態度を見て、そう思う。


「牧田さん、どうぞ」
 浮かない顔で、婦人科医の前に座った。
「その後どうですか?」
「えぇ、基礎体温は付けてるんですが、その......」
 私は俯いたまま言葉が紡げなくなってしまった。鼻の奥がつんとする。
「何でも言ってください。聞きますよ、きちんと」
 顔を上げると、医師は微笑んでいた。私の顔も少し緩んだ。
「タイミング法に夫は協力するつもりはないそうです。それと、男性側の検査にも。自分のしたい時に性交渉をもって、且つ、早く子供が欲しいって言われました」
 医師は腕組みをしたまま回転椅子を左右に振っている。
「手の打ちようがないね。妊娠とは、女性と男性がいないと成り立たない。精子バンクでも使わない限りね」
「そうですね」
 私の声は消え入りそうだった。医師に届いていたかどうかも定かではない。
「まだ一年ですから、タイミング法を試さなくても妊娠できる確率はまだまだあります。でも早く、一日でも早く子供が欲しいのなら、今の段階ではタイミング法を勧めますね。あなたの身体への負担も軽くて済みますから」
 私が浮かない顔をするのを見て、医師の顔も少し曇り始めた。
「夫がそれを望まないという事は、夫の好き勝手なタイミングで交渉を持つしか、方法はないって事ですよね」
 医師はデスクに片手を置き、ピアノを弾く様に指を動かしている。
「そうだね。それでも妊娠できない訳ではないからね。双方が納得のいく方法を取らないと、精神的なストレスも、不妊の原因にはなり得るから」
 医師はデスクを叩いていたその指先を私の肩に手を伸ばし、トンと叩いた。
「あなたがまず、納得がいく方向に話を持って行ってください。母体あっての赤ちゃんだからね。あなたにストレスが掛かってしまったら、赤ちゃんはなかなか宿らない」
 声に出さず、深く頷いた。声が出なかった。何故だったのだろうと思うけれど、どうやら涙を我慢していたらしい。
 震える声で「ありがとうございました」と礼を言い、出口へ向かうと、私の後姿へ医師が声を掛けた。
「何でも話せる医者だと思って、何でも話しに来ていいから。お母さんと赤ちゃんの味方だからね」
 今度は抑えきれなかった涙が頬を伝った。大きく頷いてドアを出る。待合室にいる人がじっとこちらを見ていたが、込み上げる物が大きすぎて気にしていられなかった。


 平日午前様の昭二は、もう私をセックスに誘う事はなくなっていた。もう子供の事なんて考えなくなったのか、そんな風に思っていた。
 休日は株価と睨めっこをするか、「休日出勤」と称して何処かへ出かけて行った。
 電話の相手は誰なのか、着信があるとあっという間に昭二が携帯を手にしてしまい、その名前を見る事は無かった。まさか、女の人......。そんな風に思わないでもなかった。

 週に一度は真吾からメールが着た。いつも私を心配するような文面で、「心配いらないよ」と答えるばかりだった。全て見透かされているのだろうけれど、彼に会わなければいい話だ。