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19

 三月の終わり、離婚が成立した旨が記された文書が送られてきた。
 と同時に、昭二から連絡があり、家で話したいと言ってきた。
 私は約一か月ぶりに、昭二の家を訪れた。
 インターフォンを鳴らすと出てきたのは彼女で、部屋の中からはあの香水の香りがほのかに香った。
「どうぞ」
 遠慮気味な笑みを浮かべながら彼女に促されるまま靴を脱いだ。もう一緒に暮らし始めたのだろう。彼女の靴が数足、玄関に置かれていた。
 リビングに入ると、ソファに昭二が座っていた。
「久しぶり」
 お互いそう言うと、私は昭二の正面に座った。
「単刀直入に言うと、お金の話なんだ」
 彼女はコーヒーを運んできた。「どうも」と言いそれを手にした。
「それで?」
「俺は株で結構もうけた。もうやらないから、高値で売ったから結構な財産になった」
「はい」
 話の結末が見えなくてイライラした。株でもうけた話なんてどうでもいい。
「財産分与と慰謝料と合わせて五百万円出そうと思う」
 私はコーヒーを持つ手が滑りそうになった。五百万?!
「そんなに?」
「示談で済ませてもらったってのもある。それに、彼女の妊娠で恵にはショックを与えただろうとも思ったし、俺なりの誠意の額で、五百万。手を打ってくれるか?」
 いくらなんでも高すぎるとは思った。それでも彼が「誠意」と言って支払うと言っているのであれば、受け取ろうと思い、一つだけ確認した。
「コレを払って、お腹の赤ちゃんが貧困するって事はないよね?」
 そう言うと、アハハと昭二は笑った。
「だから言ったろ、結構儲けたんだよ。大丈夫。お前の口座番号は知ってるから、振り込む。今、紙に書くから待ってて」
 ソファから席を外し、ダイニングでメモ用紙に何かを書いている。そのメモ用紙はすでに見慣れない物に変わっていた。そういえばコーヒーカップも、見た事がない物だ。
「これで証書になるか分からないけど、きちんと支払うから」
 支払期限と名前、金額が書かれていた。ご丁寧に印鑑まで。
「分かった。これで交渉成立。多分会う事もないだろうから、元気でやってね」
 立ち上がると私は残っていたコーヒーをぐいっと飲み干した。
「あぁ、恵も」
「お身体大切になさってくださいね」
 キッチンに立ちっぱなしだった彼女にそう言うと、無言でお辞儀をされた。
 玄関を出て、静かに扉を閉めた。もう二度と、このドアをくぐる事はないだろうと思い、何となくドアに触れた。私の思い出。さようなら。

 四月の空気はミントを思わせる。少し冷たく、少し青く。
 今月私は二十六回目の誕生日を迎える。
 私は牧田恵から、下田恵に戻った。久しぶりの自分に会った気分だった。
 二十六歳になったら、どんな私になりたいか、考えた。
 昭二に対して何も言えないでいた私。自分を押し殺してきた私。そんな私を脱ぎ捨てたいと思った。


 引っ越し蕎麦を食べた日以降、私は真吾に連絡をしていないし、真吾からも連絡はない。
 このまま関係が解消されるのであれば、それでも良いと思った。幼馴染は幼馴染。死ぬまで幼馴染なのだ。
 ふと、彼の口癖だった「死にゃしない」という言葉が頭をよぎった。
 真吾に会わなくたって、死にゃしない。幼馴染のままだって、死にゃしない。
 それでも思うのだった。真吾の奥さんだった人のように、人間はいつ死ぬかもわからない。
 その時に「やっておけばよかった」「言っておけばよかった」と思っても遅いのだ。
 「死にゃしない」とは言いきれないのだ。
 そのためにも私は、言いたい事を、言いたい時に言える自分に成長したい。
 ついさっきまで、このまま会わなくてもいいと思っていた真吾に、突発的に「会いたい」、そんな気分になった。