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『今日の事は悪かった。忘れてくれ』
 家に帰ると真吾からメールが届いていた。
 忘れろと言われて水に流せる程度の軽妙な言葉なら、私はあんな風に店を飛び出して帰らなかった。そもそも私には、仲の良し悪しは別として、婚姻している夫がいるのだ。
 忘れようにも忘れられない。「恵の事もやっぱり諦められないんだ」なんて既婚の私に言う言葉にしては、アンフェア過ぎる。
 あの雪の日、理由も言わず、私から勝手に離れていったくせに。一度も振り返らなかったくせに。
 私だって諦められない。そう言いたい。そう言ってあの頃に舞い戻れたら、どんなに幸福か。
 大学に進学し、昭二と付き合い始めてからも絶えず、頭の片隅には真吾がいた。昭二の中に真吾を探しもとめていた。優しく、屈託なく笑う昭二の中に、真吾を見ていた。彼らの唯一の違いは、私の嘘を見抜けるか見抜けないか、そのぐらいだった。
 学生の頃、周囲の友達は、夏休みや正月に実家へ帰っていたが、私は一度も実家に戻らなかった。隣の家に真吾がいる事を過剰に意識してしまう事は容易に想像できたから。
 婚約を知ったあの日、彼女を見た時に感じた胸苦しさはきっと、嫉妬心だったのだろう。どこまでもしつこい女だと、自分を詰ってやりたい。
 真吾が横浜に来る事を聞いて、横浜のどこに移住するのかがとても気になったが、訊けなかった。聞いたら負けだと思ったから。血眼になって探してしまいそうだったから。
 私の中に常に真吾がいた。今だっている。諦められないのは真吾も私も同じなのだ。
『忘れられないよ。私も同じだから』
 震える指先は、ゆっくりと液晶をタッチしながら、そう返信した。涙で曇る視界の中に、場違いな程に明るい液晶画面が、二重にも三重にもなって映り込む。
 たまには正直になってもいいと思った。真吾に嘘は通用しないんだから。
 いつも昭二の動的・静的な圧力に自分を隠して生きているんだから。


「結局婦人科の先生は何て言ってたんだよ」
 土曜の午前に出勤して行った昭二は、夕方頃帰宅し、ビールを呑んでいる。
「また来月同じようにやってみようって。排卵日が土日に近いと計画が立てやすいんだけどね」
 私は夕飯の支度をしつつ、カウンターに置いた小さなカレンダーにちらりと視線を送った。
 今月は疲労と緊張でうまく行かなかった。何も予定のない日曜に行為をして月曜に病院を受診する。これが理想的だと思った。しかし昭二は、予想を大きく上回る加減で私を闇に突き放す。
「俺は土日ぐらい、ゆっくりしたいけどな」
 丁度テレビでナイター放送が始まり、耳障りな声援がスピーカーから聞こえてきた。歓声、メガホンを叩く音。怪訝な顔で彼を見遣る。
「平日は疲れてて、土日はゆっくりしたくて、そしたらいつセックスするの?」
 私は苛ついていた。声の震えを悟られまいと、腹に力を込める。婦人科の事は私任せ、男性側の検査は「俺は大丈夫」と断った。平日は午前様で土日はゆっくりしたい? 子供が欲しい人間の言う事なのか。
「そんなんじゃ、不妊治療なんて進まないよ」
 私は苛立ちを何とか隠して、やんわりと不満を漏らした。
 昭二は缶ビールを呑みながら、テレビに視線を釘づけて「気が向いた時にやってりゃ出来るだろ」と言い放った。
 婦人科に行くように勧めたのは、昭二じゃなかったのか。彼に勧められたからこそ、不快な検査にも耐えてきたのではないか.....。私は頭の中のピアノ線のような強くしなやかな糸が、一気に伸びて、弾け切れる音を聞いた気がした。その瞬間には声を張り上げていた。
「誰が不妊治療しろって言ったの!」
 昭二に向かって怒鳴るなんて、初めての経験で、昭二はさすがに驚き、テーブルに缶ビールを置いた。
「だって俺たちの為だろう」
「じゃぁどうして協力しようとしないの?」
「俺はそんなに急いじゃいないんだよ」
 そう言って首を傾げながら視線をナイター中継に戻したので、私はキッチンの作業台にフライパンをドンと叩きつけた。フライパンは堅い金属音を鳴らし、すぐに音を止めた。
「自分の血が流れる子供を早く抱きたいって言ったのは、昭二でしょう!」
 キッチンから足早に寝室へ入り、コートを羽織ると、財布と携帯だけを持って玄関を飛び出した。
 十一月の夜空は寒々しく澄んでいて、鼻腔を通り抜ける冷たい空気に頭が痛くなった。
 どこに行くあてもなかった。ただ、歩いていた。
 子供が欲しいのに、何故協力をしないのか。私任せなのか。自分は参加しようとしないのか。そもそも子供とは、愛し合う二人の間に舞い降りてくる贈り物ではないか。
 私と昭二が愛し合っているのかさえ、今の私はよく分からなかった。子供をつくるためのセックス。最近はそういうスタンスだ。
 気が付くと、電車に乗りターミナル駅に到着していた。そのまま夕飯は外で食べようと思い、ショッピングセンターに向かう事にした。


「茄子とトマトのペンネと、アールグレイのホットください」
 会計を済ませ、番号札とトレイを持って空席を探す。
 無意識に、真吾の姿を探すが、そこには知らない顔ばかりが並んでいた。あれから暫く時間が経った。今度こそ、もう会う事はないかも知れない。私の姿を見つけても、彼は近づいてこないかもしれない。
 スマートフォンを取り出してディスプレイを見ると、誰からのメールも着信も無かった。
 私の初めての反逆に対し、昭二は何も感じていないのだろう。
「どうせいつか戻ってくるだろう」そんな風に軽く考えているのかも知れない。
 今日だけでも、ビジネスホテルに泊まって帰るか......そんな事を思わないでもなかった。駅前にはいくつものビジネスホテルが並んでいる。明日は日曜だ。ゆっくりできる。昭二にとっても己を振り返る切っ掛けになるかもしれない。
 番号札と引き換えに店員がペンネを運んできた。湯気に乗ってガーリックとトマトの香りが漂う。
 スマートフォンで小説を読みながら、然程空腹を感じていない胃の中に、ペンネを落として行く。ふと視線を周囲にやると、元々空席が少なかったカフェ内が殆ど満席になっている事に気づいた。丁度、夕飯時になったのだ。早めにお店に入って良かった。そう思いながら再び小説を読み始めた。

「ここ座るぞ」
 二人掛けのテーブルの対面にある椅子を引いた声の主が誰かは、声を聞いた瞬間に分かった。瞬時に顔を上げると、真吾が子供みたいに笑っていた。
 私はペンネを喉に詰まらせそうになり、盛大にむせて顔が真っ赤になってしまった。
 以前のメールのやり取りが頭を掠め、冷静でいられなくなったのは私だけで、真吾はいつも通りの真吾だった。
「そこから顔が見えたから、寄っちゃった」
 そう言って店内にある窓を指差した。私は咳き込んで赤くなった顔を鎮めるために、水をがぶがぶ飲んだ。
「土曜なのに、どうしたの? 旦那さんは?」
「ん、ちょっとね」
「喧嘩?」
「うん」
 何でも見透かされている様で怖くもあり、嬉しい気持ちもあり、モヤモヤする。
「この前居酒屋でさ、ちょっとお金を多く貰いすぎちゃったから、どうかしら? この後お茶でも付き合ってくださいません?」
 その誘い方が可笑しくって、私はペンネを噛みながら笑みをこぼし、幾度か頷いた。