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 駅から十分程歩いたところにある、綺麗な白いマンションに到着した。
 道すがら「ここの酒屋さんは日本酒の種類が豊富で」とか「このコンビニは寄り道スポット」と言って常に会話を切らさないように、私をリラックスさせてくれようとしている真吾の気持ちが酷く嬉しくて、また少し涙が零れそうになったのを、下睫毛が耐えた。
「どうぞ」
 中に入ると廊下を抜けた先にリビングがあり、そこに通された。
 省スペース型の白い仏壇に、涙ぼくろの彼女の写真が飾られていた。百合の花の様な可憐さがある、素敵な女性だ。
「お線香、手向けてもいい?」
「あぁ、ありがとう」
 私はそばにあったライターで線香に火をつけ、合掌した。
「立ったままで線香やる仏壇なんて、洒落てるよな、最近の仏具は」
 キッチンから声がした。「発泡酒しかないんだけど」と言ってカウンターに二本の発泡酒が置かれた。
 私はリビングのソファに身を沈め、彼女の写真をじっと見つめていた。ニュースで見たあの顔よりも、ずっと素敵で、どこか芯の強さのような物を感じさせる女性だった。自分とは正反対だな、と思うと劣等感に支配される。
「はいどうぞ」目の前にコースターと共に発泡酒が置かれた。真吾は対面のラグに直接座ったので、私もソファから降りて、ラグに座った。
 缶と缶を合わせて、私は彼女にも缶を向けて、そして一口発泡酒を呑んだ。
「高校の時、よく缶チューハイ買って、部屋でこうして呑んだよな」
「やってたやってた。粋がってたね、今思うと」
 それがまたこうして、今度はお酒が飲める歳になって、二人で一緒にお酒を呑むなんて、想像もつかなかった。エアコンから発せられる生ぬるい空気と、冷えた発泡酒が丁度良かった。
「恵のお母さんは調子どうなの? 最近は」
「うん、電話で聞く限りは安定してるみたいだけどね。いつ再発するか分かんない病気だから、万が一の事はいつも考えてるつもり。真吾のおうちは?」
 真吾は胡坐をかいていた脚を真直ぐに伸ばし、後ろに手を突いた。
「うちは親父もかーちゃんも、殺しても死なないと思う」
 私は声を上げて笑った。真吾のご両親は明るくて、元気な人達だから、何か妙にその言葉がマッチしていて可笑しかった。
「富山にはあんまり帰ってないの?」
「葬式とか法要があったから、親がこっちに来る事が多くて、別に俺が富山に行かなくてもいっかって感じ」
 ふんふん、と頷きながら発泡酒に口を付ける。
「恵は、婦人科でそっち系の病気とかは見つからなかったんだろ?」
「うん。そっち系は大丈夫だったけど、子作り一年目でストレス性の不眠症になっちゃってさ、毎日睡眠薬飲まないと眠れなくて」
 と言って思い出した。今日は眠剤を持っていない。背中にジワリと冷たい物が走った。
「今日、大丈夫か?」
「分かんない。今までこんな事、なかったから。あぁ財布にでも入れておくんだったー」
 真吾は笑って「高校生のコンドームみたいだなぁ」と笑った。その余裕の笑顔をみて、もう、どうでもいいか、と自分の中に無理矢理立てていた軸のような物を、折り曲げた。
 眠れなかったら寝なければいい。明日は日曜だ。何の用事もない。眠れなければ家に帰ってから眠ればいい。それに......この夜が永遠に続けばいいとさえ思った。真吾と語らう夜が、永遠に。

「役所に勤めてるんだっけ?」
 急に現実に引き戻されてあたふたする。
「え?役所?そうそう。区役所の保健福祉。真吾は結局何やってるの?」
「武器商人」
「バカ」
「初めは零細企業で営業やってたんだけど、今は不動産屋で働いてんだ。宅建とったから」
 私は発泡酒を口にしながら無言で何度か頷いた。「すごいね」
「俺だってね、やればできる子なんだから。野球ばっかりやってたから大学は地元になっちゃったけどね。やればできたんだから」
 確かに野球ばっかりやっていた。私は彼の部活が終わるまで、図書室で受験勉強をしながら待っていた。個人ブースで勉強をしていると、遠くから廊下を走ってくる音が近づいて来て、それから乱暴に図書室のドアが開かれるのを合図に、私は参考書を片付け始める。学校の通用門を抜けて駅まで手を繋いで歩き、電車に乗る。夏はちょっと汗の匂いがして、冬は湯たんぽみたいに暖かい真吾。昨日の事の様に思い出すと、鼻の奥がつんとする。青い春。もう戻らない。
「部活に情熱を注いで地元の大学に入学して、離れ離れになったのに、こんな風にお酒を呑む事になるとはね」
 話した事の堂々巡りの様な気がしたが、言わずにいられなかった。
「こういう運命の元に生まれたんだな、俺たちは」
「だね」ぽつりと零れるような返事をすると、どちらからともなく笑い始める。最終的には二人とも爆笑した。
「なに運命って、ダサい」
「古くさいしな、中二だな」
 こうしていると、本当にあの頃に戻ったみたいだ。私の部屋で、真吾の部屋で、他愛もない事を話し、笑い飛ばし、泣き喚き、慰めあった事を。
 過去をいくらほじくり返したって前に進めない事なんて十分に分かっている。だけど良いではないか、今夜だけ、少しだけ。

 話をしているうちに、真吾の欠伸が多くなって来た。
「眠い?」
「眠くないよ」
 彼はワザと目を見開く様にして私を凝視し、その顔がなかなか恐ろしくて「やめなよ」とテーブル越しに頭をペシッと叩いた。
「もう寝ようか。俺、布団敷いてくるからちょっと待ってて。あ、ちゃんと二組敷くから心配しないで」
 そう言い残して和室に入って行った。
 私は泣きぼくろの彼女の遺影にもう一度手を合わせた。
「今夜だけ、彼のそばにいさせてください」
 そう心の中で唱えた。彼女はどう思ったか知らないが、私はそれで満足だった。
「歯磨き、するぞー」
 声がしたのは洗面所の方だった。
「歯ブラシある?」
「母ちゃんたちが頻繁に来てた時に、来客用の歯ブラシを買っておいたから大丈夫。あ、俺の部屋着も貸すよ。彼女の服は全部向こうの実家に戻しちゃったから」
 洗面台に並んで、順番に歯磨き粉をつける。
「ねえ、実はこういうの、初めてじゃない?お泊りとか、した事なかったし」
 真吾は歯磨き粉のキャップを閉めながら「そうだな」と鏡越しに微笑んだ。
「恵が歯磨きするところなんて初めて見るぞ」
 歯と歯ブラシの擦れる音が響く中、鏡越しに笑い合う。真吾はさっさと口をゆすいで、コップを渡してくれた。
「部屋着は短パンと長袖のTシャツでいいか」
「お泊り会みたいで楽しいね」
 初めは常識はずれな行動に躊躇していたのに、いつしか満喫している自分がいた。
「おパンツは貸せないけどな。シャワーも浴びてないけどまあ、死にゃしないから」
 彼の口癖だった。「死にゃしない」という言葉。歯磨きをしなくても、シャワーを浴びなくても、郵便配達を居留守しても、遅刻をしても「死にゃしない」。
「洗面所で着替えていいよ。顔も洗っていいし。メイク落としはないけど。あ、タオルタオル」
 外出予定のない土曜だったこともあり、メイクはほとんどしていなかったので、ざっと顔を流し、借りた部屋着を着て和室に向かった。
「恵は俺の左側が好きだったよな」そう言うと彼は、右側の布団に腰掛けた。
「じゃあ遠慮なく左側で」
 布団は何となく、香水の様な香りがした。今日一日、貸してください。顔の見えない彼女にそう念を送った。
「んじゃ、電気消すぞー。夜中フラフラすんなよー。それから、眠れなかったら俺を叩き起こす事。一晩付き合ってやらぁ」
 私は彼の心遣いに相応しい言葉が見つからなくて、「ありがと」ただそれだけしか言えなかった。