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1.
 義父が亡くなったと知らされたのは、丁度私の妊娠が発覚し、悪阻の真っ最中だった。
 義母から掛かってきた電話の向こうから、東京の空の下よりもアブラ蝉の鳴声がうるさく聞こえた。向こうは田舎なのだな、と実感する。
 電話を受けた私は自分の体調を心配する義母に「大丈夫です」と嘘を吐いたが、すぐにばれた。
「今、丁度、エリカの悪阻が酷いんだよ。ちょっと、葬式には連れて行けないなあ」
 夫が話している最中にも吐気が込み上げてくる。胎児が順調に育っている証だとしても、酷い試練だと感じる。
「うん、そうだな。俺一人で行くよ。うん、それはエリカにも話して、そっちで返事するから。うん。そういう事で。母ちゃん、大丈夫か?それならいいんだ。うん、じゃあ明日そっちで。ん」
 義父は片田舎で、小さな建設会社を経営している。夫の総司は大手ゼネコンで働いているが、ゆくゆくは義父の会社を継ぐ事になるとは聞いていた。総司の兄は、建築とは無縁の職業に就いているので、会社を継ぐ事は無理らしい。
 が、こんなに早く、そんな日が来るとは思わなかった。

「父ちゃん、現場で足場から落ちて、即死らしい。明日通夜で明後日葬式なんだけど、エリカの事は母ちゃんも分かってるから、お前はお留守番な」
 そう言って端正な顔立ちを少しだけ緩めた。実の父が死んだのだ。笑顔になんて見せられないだろう。それでも私を心配させまいとする彼の気持ちが嬉しかった。
「私の事は心配しないで。お義母さんのケアをしてあげてよ」
 私は横になっていた体を起こし、脚を崩して座った。座っても分かるぐらい背の高い彼の顔を見上げると、彼は私の頭を、何かの形を確認するように、丁寧に撫でた。そして決意をしたように、一度下を向き、そして顔を上げた。
「葬式が終わったら、母ちゃんと実家で同居してくれないか?」
 いつかこの日が来る事は分かっていた。親思いの優しい総司の事だから、いつか。

「父ちゃんがいなくなって、従業員も困ってるらしいんだ。建築途中の現場もいくつかあるみたいだし。俺が、継がないと」
 その顔に見える決意は固く、端正な顔を更に凛々しく輝かせた。
「うん、いいよ。総司に着いて行くから」
  私の夫は素敵だ。聡明で、顔立ちも凛々しく、スタイルが良く、背が高い。頭の回転が早く、親思いで、仕事もできる。何より、私想い。
 こんな完璧な夫を持った私は、何処に行くにも誇らしかった。隣を歩く時に浴びる女達の羨望の眼差しに、私は優越感すら感じた。彼が私の様な、何の変哲もない女を選んだ事が、奇跡的だった。

 総司がいない二日間は、吐気に耐えながらずっと横になっていた。
 店を継ぐという事は、あの田舎に引越しをするという事。新しい環境で、果たして順応していけるだろうか。義母とはうまくやっていけるだろうか。心配は尽きないが、今はお腹の子供の事に専念しなければ。お産をする病院も、変更しなければならない。

 二日後、総司が帰宅した。喪服のままで、かすかに線香の香りがした。帰って来たのは二十三時近かった。

「お疲れ様。お義母さんは、大丈夫だった?」
 私は立ち上がって彼の上着を受け取ろうとすると、彼は片手を上げてそれを制した。
「横になってて。母ちゃんは、何だかあっけらかんとしてたよ。心配なさそうだ。会社を継ぐ事を伝えて来たよ。嬉しがってた」
 ワイシャツのポケットから煙草の箱とライターを取り出した。台所の換気扇を回し、真下で煙草を吸い始める。お腹の胎児への気遣いだそうだ。
「従業員は顧客と連絡をとって、工期を少し伸ばして貰ったらしい。数日のうちに俺らは向こうに移ろう」
 まだこのアパートに越して来て日が浅かった事が幸いして、段ボールは豊富にあったし、まだ荷解きをしていない荷物すらあった。
「申し訳ないけど、エリカの自分の荷物だけは、何とか、まとめておいてくれるか?」
 タバコを一本吸い終えた総司は私の傍へ来て、横たわる私の両の手を、暖かく大きな手で包み込む。夏場であれ、彼の暖かさは不快ではない。
「うん、分かった。他の物も、できる所までやるから」
 彼は私のお腹に片手を当てた。温もりが、臍の辺りにジワリと伝わる。
「無理はしないでくれよ」
葬儀が終わって始めて見せた総司の笑顔だった。私は吐気と戦いながらも、出来うる限りの笑顔で応えた。
 彼がシャワーを浴びる音がし、無性に抱かれたくなった。が、今はそんな余裕はない。


 総司は退職届を出し、理由が理由だけに、早期に退職の手続きが済んだ。多少なりとも退職金が出るそうだ。
 私は悪阻の合間を縫って、段ボールに洋服や書籍、細々した物を詰める作業を行った。近日中に使わないであろう食器類も、少しずつ纏めた。
「ああ、そんなに無理するな。あとは引っ越し屋に任せよう。触られたく無い物だけ、エリカは纏めてくれればいいから」
 食器を新聞紙でくるんでいた手を、身体の後ろから腕を回して掴まれた。
 耳元で「こんな事になっちゃって、済まないね」と囁かれ、私はあろう事か、下半身の襞から生温かい液体が漏れ出すのを感じ、顔を赤らめた。


 引っ越し社のトラックを先導する形で、総司の実家へ向かった。当然、トラックよりも彼が運転するクラウンの方が早いので、途中途中、サービスエリアで休憩をした。悪阻と車酔いはあまり相関性が無いんだな、と感じる。
 今日は悪阻が軽い。エアコンを入れずに窓を開け、湿った風に顔を受ける。
 実家まで六時間。八月だというのに到着した夕方の実家は、風が少し冷たかった。ひぐらしが鳴いている。見た事も無い花が、道の端にぽつり、ぽつりと咲いている。田舎だな、と改めて感じる。