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プロローグ

 米国の国立遺伝研究所で長年に渡り研究が進められてきたtrm遺伝子のプロモーター及びSD配列の改変。これにより、人間の寿命が十年単位で決定可能である事が明らかになりつつある。マウスから猿に至るまで、様々な生物のtrm遺伝子に改変を加える事により、誤差範囲は生誕日プラスマイナス半年という高確率で、寿命の操作が可能になった。これは、増え続ける世界人口を遺伝子改変により操作するという取り組みの第一歩とされている。

 一方日本では、専門家や有識者による生命倫理委員会が設立され、未だ人間での検証が十分でないこの研究成果に、更なる結果を上乗せするためにも、日本国を挙げて積極的に実験へ協力する運びとなった。
 一般向けに開示された概要は以下の通りである。
1:寿命は二十歳から百二十歳までの十年刻みで設定可能。
2:寿命が二十歳から五十歳の場合、被験者、母親それぞれに支援金が支給される。五十歳以降、歳を重ねる毎に支給金額は低くなる。金額は公表されないが、最低でも母子合わせて1千万円は保証されている。
3:被験者が受精卵となってから三ヶ月以内に、母体羊水内にtrm溶液を注入されるが、母体には全く無害であると考えて良い。また、被験者から生まれた子供に、変異は遺伝しないとされている。
4:被験者は寿命を迎えるまで、どんな重病にかかっても死亡する事はないと言われている。しかし、疾病に起因する痛みなどは通常の医療で緩和できる範囲を大幅に超えてしまう事が分かってきている。止血能力の向上、自然治癒力の向上なども確認されており、被験者と疾病に関する項目は現在データ収集段階にある。
5:事故など突発事象で命が絶たれる局面でも、生きながらえる確率が高く、その場合は後遺症などで苦しむ可能性が高い。
6:母親は被験者に、設定寿命を知らせる義務があるが、それに関しては監査などは行わない。
7:尊厳死はこれを認めない。もしこれを侵した場合、それを行った医師の医師免許は剥奪される。

 日本において、trm遺伝子が変異型となった人間は「トルムチルドレン」「トルチル」などと呼ばれている。日常生活は非変異型の人間と同様に送る事ができるが、寿命設定日となる誕生日から起算して前後半年に、多臓器不全等で突如死亡することになる。トルムチルドレンが搬送されてきた病院では、延命治療等は特に行わない方針だ。

1

「もう、ダメかも知れないな。どこの銀行まわっても、無理です、貸せません、の一点張りだ」
 峰山民生は食卓で頭を抱える。先に夕飯と風呂を済ませた子供達四人が、取っ組み合いを始めた。彼にしては堪えた方だが、それでも苛ついた民生は「うるせぇよ!」と食卓を叩き付け怒鳴りつけると、蜘蛛の子を散らすように子供が散乱して行く。妻の涼は子供達に目をやり、短く溜め息を吐く。できれば夫が機嫌を損ねていない時に言いたかった。そんな風に涼は思いながら、口を開いた。
「あのね、こんな時にアレなんだけど、五人目、できたみたいなの。どうしよう、堕した方がいいかな、家計のことを考えても」
 薄汚れた作業着の袖に視線を落とし、民生は暫く考える。取引先の社員から聞いた、あの、話を。
「なあ、トルチル、知ってるか?」
 温まった味噌汁を食卓に置きながら涼は「産科で聞いたけど」と言い、夫の顔を疑念の眼差しで見た。「まさか......」
「二十歳ならかなりの額だぜ? うちみたいな小さな工場を立て直すには釣り銭がくるぐらいだ。もううちには子供が四人もいる。少子化にも貢献してる。国のために役に立って、自分の生活も潤うのなら、こういう選択も、ありじゃないかなって思うんだ。子供には保険もかけてさ。どうかな」
 明らかに浮かない顔の涼が、民生の目の前に腰をかけた。テレビではちょうど、トルムチルドレンの推進に関するCMが流れていた。
「二十歳。私達が結婚した歳だよ。これから社会に出て働いて、って時だよ。そこで人生が終わるなんて知ったら、この子、絶望するよ」
 言いながら、まだ膨れてもいないお腹をさする。
「じゃあこのまま飯もろくに食えずに、子ども四人、高校まで行かせられるかもわからない、今の生活を続けんのか? それこそ絶望的だ。このままじゃ工場、潰れるのは間違いないぞ」
 拳を硬く握って声を殺すように呻く民生に対し、涼は涙を浮かべた顔を見られないように気をつけながら、頭を縦に振る他無かった。

******

21年後

「ヒロ代返、頼む」
「またぁ?」
 男の声で代返するのはなかなか難しいのだ。何をしてるんだか知らないが、講義のサボりグセがひどい。いつも光輝は、缶コーヒー一本で私を買収するのだ。
 同じ学科で、ちょっと仲良くなったぐらいで代返係とは。しかし腹が立つが断れない。私は自由奔放な光輝の振る舞いに、一方的に惚れているのだ。
「そうだ、今回はスタバでコーヒー奢るからさぁ。講義終わった頃を見計らって俺、ここに戻ってくるから、帰らないで待っててよ」
 それだけ言い残して講義室から堂々と去って行った。水色のシャツの背中に「ばーか」と投げてみるも、相手は何も反応せずに講義室のドアから消えた。

「まーた頼まれたの?」
 光輝の名が呼ばれた際に私が低い声で返答をしたのを見て、隣に座った静香が呆れた顔で言う。私は苦笑しならが頷く。
「光輝君、何か商学部の、誰っつったかな、朝長さん? とかいう子としょっちゅう一緒にいるって、誰かが言ってたよ」
 誰かが言ってた。静香の口からはよく出てくるフレーズだ。誰かが、というその肝心な「誰か」の名前は出さないのか、出て来ないのか。私には分からない。
 光輝と朝長さんという女性、よく一緒にいるという事は、交際をしているんだろうか。講義が始まり、私は教授がホワイトボードに黒いペンでなにやら書きはじめたのを、顎をシャーペンのお尻で支えながらぼんやり見ていた。
 丁度この時間、その「朝長さん」は講義を取ってないのかも知れない。それに合わせて光輝は講義を抜けているという事か。
 高校時代まで、バスケットボール一辺倒で、恋愛という物を全く経験した事がない私は、部活の先輩に憧れを抱く事はあっても「好きだ」という感情を持った事がなかった。それが、大学に入り、同じ工学部の生命工学科で、同じ研究室に入った光輝に、特別な感情を持つようになった。
 光輝はいつも自由に振る舞っていて、自分を着飾るような事はなくて、誰に対しても気軽に話し掛けるし、いつも光っている。「光輝」という名前をつけたご両親は、凄いと思う。

 退屈な講義を終えると、私は光輝との約束通り講義室に留まり、静香は「彼氏と待ち合わせだから」と言ってスキップでもするように出て行った。
 大きく伸びをしながら大あくびをし、反らせた背を後段の机に沿わせると、眼前に光輝の顔があった。焦って姿勢を戻す。
「すんげぇあくびだな」
「まずは礼をしろ、代返の」
 光輝は首の後ろに手をやり「あんがと」と言うので私は「よろしい」と腕を組んでみせる。
「礼はスタバのコーヒーつったろ。ヒロは静香ちゃんと違って彼氏もいないからどーせ暇なんだろ」
 そう言うと私の手首を掴んでぐっと引っ張るので、私は顔を赤くしながら慌てて鞄を掴んで光輝の後ろをついて行く。
「さっき静香が、光輝は商学部の、あぁ、名前忘れちゃった、なんとかっていう女の子に会ってるんじゃない? って言ってたけど、その人に会うために講義抜けてるの?」
 私の顔をまじまじと見た光輝は「お前、情報通?」とふざけて言う。
「だから静香の情報だって。で、質問に答えていないと思うんですが」
 一度目を伏せた後、顔を上げた時に光輝は、何かを画策しているような、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「まぁ、さっきの講義は確かに、商学部の子に会ってたよ。静香ちゃんに正解って伝えて」
 道端に落ちていた蝉の死骸をひょいと避けながら、私の方を見た。
「こんな答えていいですか?」
 私は無言で少し首を傾げ、それから訊くか訊くまいか迷った挙げ句、何も言わずに頷いた。
「付き合ってるのか」なんて、訊けない。傷つくのは嫌だ。自分の消極的な性格に、ほとほと呆れる。

「さっきの講義のノート、見せてよ、写したいから」
 だったらサボるなよ、と視線を投げ呟きつつも、自分を頼ってくれる事が嬉しくて、鞄の中からノートを取り出すと、テーブルの上に広げた。
「ここから、ここまで」
 人差し指ですーっと指すと、光輝も鞄からノートを取り出し、ペンケースから猫のキャラクターが描かれているシャーペンを取り出し、写しはじめる。
 私は、光輝におごってもらったアイスコーヒーをストローでかき混ぜながらその作業を見ていた。男の人にしては神経質そうな文字を書く。ノートに書いてある文字は何度も見た事があるけれど、キャラ物のシャーペンと合わせると、まるで女の子がノートを書いているように見える。男性の指とは思えない奇麗な指も、それを助長しているんだろう。
 少し苦いブラックコーヒーに口をつけ、「その猫のやつ、好きなの?」と訊ねる。ふとノートから顔を上げた光輝は間の抜けた顔で私を見て、何かスイッチでも切り替えるように「あぁ、好きだよ」と言って目を細める。そしてまた、ノートに目を落とす。
 シャーペンの芯がノートに擦れる音がきちんと聞き取れる。筆圧が高いのだろう。
「なぁ、ヒロ」
 彼はノートに目を落としたまま口を開くので、私はストローから口を離し「何?」と訊ねる。
 私の声にも全く顔を上げず、すらすらとノートを写し続けながら少し訝し気な声で言う。
「俺とその、商学部のなんとかさんが、付き合ってるとか、静香ちゃん、言ってた?」
 私はかぶりを振り、それが顔を上げない光輝にも伝わったのか、彼はふっと笑った。
「お前、この猫のキャラクター好きか?」
 相変わらずノートから目を上げない光輝に、今度は声に出して「うん、好きだよ」と言う。光輝はまた溜め息みたいに笑い、そしてひと言。
「俺の事は好きか?」
 銃弾を食らったみたいに、一度身体が跳ねた。これは全くの不随意運動で、自分でも驚いた。返事をしなければいけないと思うのに、開いたり閉じたりする口は、空気ばかりを出し入れして、のどが声を出そうとしない。
 そのうちに光輝がすっと顔をあげ、私に真っすぐな視線を送り込んできた。
「俺はヒロの事が好きなんだ。付き合って欲しいんだ」
 耳から入った情報は、脳の中に伝達され、次は口を開いて、声を出せと指令を送る。
「わ、わたしも、好き」
 硬直したように私を見据えていた顔は、瞬時にふんわりと緩み、「何だよ、もっと早く言えば良かった」と穏やかに笑った。
 私は顔が火照ってきて、きっと見た目にもそれは現れているのだろうと思い、コーヒーを飲む手で誤摩化す。顔色一つ変えない光輝が羨ましかった。
「よし、終わった。これから暇でしょ? どっか行こうよ、初めてのデート」
 ノートをパタンと閉じて私に手渡す。私はそれを鞄に仕舞いながら、これは夢なのか現実なのかと思い、右足で左足を思い切り踏んづけてみたら、思った以上に痛みが走り、これが現実なのだと分かる。
 どこ行くかなーと言いながら、ぐいっと伸びをした光輝が、二回、三回と咳をした。飲んでいたカフェオレが気管にでも入ったのかと思い、笑ってやろうと彼の顔を見た。
 途端、顔色が瞬時に真っ白になり、苦しそうに顔が歪んだ。口を押さえた手の指の隙間から、体液が漏れだす。何なんだ、何の冗談。
「誰か、きゅ、救急車!」
 私は叫んだ。殆ど悲鳴に近かった。自分が携帯電話を持っているのは分かっているのだが、起こっている事を目の前にして、冷静に救急車など呼べない事も分かっていた。他の客は遠巻きに私と光輝を見ている。
 光輝は口元を押さえたままテーブルに突っ伏し、苦しそうにノートの縁を握っている。その手は大袈裟な程に震えている。

 そのまま、動かなくなった。
 ノートにマジックで書かれた「峰山光輝」の名前は、体液で滲んで輪郭だけを残した。

 光が、失われて行く。



「おめでとうございます、きちんと着床してるみたいですね」
 理香の頬が紅潮し、目には涙が浮かんだ。金も体力もつぎ込んだ、俺達の大事な子供が、理香のお腹の中に。
「先生、ありがとうございます」
 俺は深々と頭を下げたが「いやぁ、お二人のがんばりの結果ですよ」と笑顔で肩を叩かれる。
「一応これね、全ての妊婦さんに渡す事になってるから。トルムに関するお知らせ」
 そう言って白い紙の束を渡された。一瞬、顔が強ばる。
 トルムについては大体知っている。CMでも流れているし、時々ニュースでも特集される。既にもう何例かが期日通りに死を迎え、実験を成功させていると言う。

 自宅に帰るまでの道のりをこんなに長く感じた事はない。理香が万が一つまずいたりしたらと思うと、慎重にならざるを得ない。これから十月十日、気が抜けない。それと同時に頭を占拠する、トルムチルドレンという言葉。
「ねぇ武史、トルムの書類見たでしょ、どう思う?」
 理香は四十歳を超えて身ごもった。実に二十年に近い月日を不妊治療に捧げた。やっとできた子供なのだ、できるだけ長生きさせたいと思うのが、親の気持ちではないだろうか。
「トルチルの最大寿命が百二十だろ。それぐらい生きて欲しいなぁと俺は思うけどな。理香はどうだ?」
 俺の言葉に理香はトルムの資料をざっとめくって「この額なら、大学まで行く学費ぐらいにはなる、かなぁ」
 理香もトルムに積極的である事が伺えた。
 妊娠が確定して二週間後の検診で、理香はトルムの接種を受けた。勿論、最高寿命の百二十歳の物だ。
 そして産まれた赤ん坊は、赤ん坊と呼ぶのに相応しい、真っ赤な顔をして大きな声で泣く、元気な女の子だった。

******

 五十年後

 先立った夫は、誰よりも美香の事を心配していた。
 トルム接種によりトルチルとなった娘の美香は、染色体検査の結果、ダウン症候群である事が判明した。トルムの接種は、染色体数には何ら変化をもたらさないと言う。トルチルにならなくても彼女は、ダウン症候群から逃げる事はできなかった訳だ。
 美香は小学校で普通校の養護学級に入ったが、手に負えないと学校から連絡が入り、結局は養護学校に通う事になった。
 トルムのお陰で細胞死が起こる確率が低いのだが、それでもダウン症候群によって引き起こされる先天的な奇形で、心疾患と甲状腺に病を抱えている。
 病院側はトルチルにはあまり手を出したがらず、心奇形はそのまま放置されている。すぐに命に関わるような奇形ではないのだ。それに彼女は簡単な事では死なない。何故ならトルチルだからだ。
 ダウン症の平均寿命が五十歳だと聞く。現在美香は丁度五十歳になるところだ。私は九十歳になった。
 八十を超えた辺りから、毎日が苦痛で仕方がなかった。美香の性格は幼い頃から全くと言っていい程変わらず、頑固で困った。それでも私がこの世からいなくなった後、彼女は百二十歳まで一人で生きて行かなければならない。だから生きる術を身につけさせようと躍起だった。毎日同じ事を何度も何度も教えていった。
 日々の生活は何とか一人でできるようになったと思う。こうして私が病院に入院していても、毎日決まった時間に病院に顔を出し、言いたい事をばーっと話して帰って行く。全身を癌に冒されていると言っても過言ではない私の身体は、声を発する事ができなくなっている。だから、美香の話を聞く事しかできない。それでも自分の娘が元気に話しているのを聞いて、嬉しく思う。
 私の命が消えた後、彼女はどんな風に思うんだろう。私はきっと、そう遠くない将来、命の灯火を消す。悲しむだろうか。泣きわめくだろうか。周りに迷惑をかけないだろうか。
 幸い、病院関係者は彼女がトルチルである事を理解してくれている。私がいなくなった後は何とかケアしてくれると思っている。それでも百二十歳まで、彼女は孤独に生きて行く。彼女が結婚して、子供でも生んでくれていれば、彼女をケアしてくれる肉親がいたのだろうが、残念ながら美香は子宝に恵まれなかったし、結婚もしていない。

 私は眠っている時間が多くなってきた。気付くと時間が経過していて、美香を見ない日があるぐらいだ。
 今日は、バスで隣に座ったおばあさんの話をしていた。おばあさんと言ったって、私より若いのだろう。他愛もない話に耳を傾けているうちに、また目蓋が重くなっている事に気付く。

 百二十歳。九十歳の私だって、十分に長生きをした。百二十歳。想像がつかない。どれほどしわしわになるのだろう。皮膚の細胞も死ににくいのだろうか。そこまで私は知らない。どんな姿になっても、彼女は百二十歳まで生きる「義務」を背負っている。それは、彼女が国からお金を支払ってもらったからだ。そのお金は、彼女の療育費で全て消えた。今は国からの補助と、彼女が支援施設で働いて得ているわずかな給金から、私の治療費と彼女の生活費がまかなわれている。
 彼女は百二十歳まで、義務的に息をする。周りが見放しても、その心臓は動き続ける。自分が見放しても、臓器は働き血を巡らせ、体温を保ち続ける。いっその事、首でも切り落として死なせてあげたい。しかし彼女は楽しそうに毎日病室に顔を出す。私が彼女の命の灯火を消して良い訳がない。
 何しろ、苦労してできた子供なのだ。だからこそ、トルチルにする決心ができたのだ。
 今更後悔をしてどうする。自分の愛娘をトルチルとして百二十歳まで生かしてあげられて、私はとても幸せ、そう思わなければやってられない。
 遠のく意識の中、目に映るのは、娘の少しつり上がった小さな瞳。生まれてからずっと変わらない、何事も疑わない素直な瞳。その光はあと七十年、失われる事はないのだ。



「トルチルコミュニティ」を知ったのはつい最近だ。
 インターネットでトルチルについて調べていて辿り着いたそのSNSへの登録は、トルチルの人間限定で、トルチルとしての寿命を公開して、匿名で語り合う場だった。
 国から支払われる金額が高いうちの最高寿命は五十歳だった。私はその五十歳に設定されたトルチルだ。両親は存命していて、父母ともに四十代に突入している。私は、彼らが私をトルチルにした事を恨んではいない。
 父がアルコール依存症でギャンブルにはまり荒れ狂った生活をしている中で、私が母のお腹に着床した。借金も沢山あったらしい。それを清算し、アルコール依存から抜け出す治療をするのに全てのお金がつぎ込まれた。その甲斐あって、私の両親は現在、仲睦まじく生活している。
 まぁ、本来なら私に入る筈だったお金がほとんど残っていない事に、納得はいかないのだが。

 トルチルである事で、私は恋に臆病になっている。それはそうだ、二十五歳の今、恋愛をして、いざ結婚する時に「私、五十歳で死ぬんです」なんて言ったら、相手は逃げて行くに決まっているのだ。お互いがトルチルだって分かっていて恋愛ができれば良いのに、と思って辿り着いたのが、トルチルコミュニティだったのだ。
 全国のコミュニティ会員から、都道府県、年齢、性別などで人物を絞り込んで行く。その中で気が合いそうな人を見つけ、メッセージを送ったり、WEB上のサークルで会話をしたりする訳だ。一般的なSNSと何ら違いはない。ただ、登録している人に年齢だけではなく「寿命」がある事が違いだ。
 神奈川県 横浜市 男性 二十代 寿命五十歳。
 検索中の丸い矢印がモニタ上でぐるぐる周り、結果が表示される。あまりに少ない検索結果に愕然とする。それでも、その中から気が合いそうな人を探してみる。
 ヤマコーさん。趣味が野球かぁ。サッカーよりはいいか。ルールも知ってるし。甘い物が好き、へぇ、男の人にしては珍しい。同じ寿命の人、仲良くなりましょう、か。何の変哲もないその文章の下にある「メッセージを送る」をクリックし、自己紹介と「お友達になりましょう」のひと言を添えた。

******

22年後

「トルチルコミュニティも、随分会員数が増えたんだな」
 康平はパソコンのモニタを見ながら言う。私と山口康平はトルチルコミュニティで知り合い、結婚したけれど、その後はコミュニティを見る必要性もなく、ほとんどアクセスしていなかった。
「へぇ、じゃぁトルチルが増えてるって事だね。良いんだか悪いんだか」
 私は食器を拭きながら康平の背に声を掛けると彼は「良いんだか悪いんだか」と私の言葉を繰り返した。
「ただいま」
 リビングにちらりと顔をだした高校生の娘は、短いスカートを揺らしながらそのまま自室に向かって行ってしまった。反抗期真っ盛りで、特に康平とは口もきかない。もう康平は、トルチルとしての寿命をいつ終えても良い、プラマイ期間と呼ばれる誕生日から前後半年に入っているのに、娘は頑な態度を崩さない。
「こちとら明日をも知れない命なのにな、何なんだあいつは」
 康平は一人ごちた。思わず吹き出してしまう。私もそうだった、父親に対する意味のない反抗心。あれは何だったんだろうか。
 壁に貼ってあるメモに目をやる。
 棺に入れて欲しい物:結婚指輪、野球のボール、懐中電灯
 燃えない物は無理なんじゃないかと言ったら「トルチルの特例で認められてるんだとさ」と康平は笑みを浮かべたのだった。
 懐中電灯は、三年後に追いかけて行く私を、暗闇の中でも探し出せるように、だそうだ。
 徐々に身辺整理を始めている。いつ逝っても良いように、いらない物は捨てている。パソコンの中身もそうだ、いらないファイルを捨てている。病気で予後を告知されている患者に、よく似ている。もうそろそろ死ぬから、と言って少しずつ準備をする。家族は、いつ逝ってもおかしくない、と心の準備ができる。トルチルも悪い事ばかりではないのだ。
「五十の誕生日まで、もつといいけど」
 私がそう言うと、康平も「そうだな、あと二日か」としんみりしながら壁に貼られたカレンダーを見遣った。
 あと二日。その二日間でも彼が突然逝ってしまう可能性は大いにあり得るのだ。
 ばたん、とドアがしまる音がして、リビングに娘のれいなが入ってきた。
「お母さん、洗濯物はあの人と別にしてって言ってるじゃん。何で同じカゴに入ってんの」
 私は苦笑しながら「ごめんごめん、あとで分けとくから」と諌めると、肩を怒らせて部屋に戻って行った。あの人、とは随分な言い草だ。康平の方を見ると、康平も私を見て、苦笑している。
「しょうがないよ、この頃の娘はみんなこんな感じなんだろ。ママもそうだったんだろ」
 私はおぼろげな視線をどことなくほっつかせて「さーてどうだったかな」と誤摩化した。
 弟の良平は宿題を終えたからか、リビングに入ってきてゲーム機を出し始めた。
「宿題は?」
「終わった」
 こちらはもともと無口なタイプで、反抗期と呼べる物なのか分からない。娘と比べると、喋らない分、何を考えているのかが分かりにくい。学校の成績は飛び抜けて良いのだが、友達という友達もいないようだし、色々と心配は尽きない。父親がいつ逝くかも分からない事については、どう思っているのだろうか。勿論、母親も三年後、そういう時が来るのだが。
 私と康平は三歳違いだ。トルチルコミュニティで出会い結婚し、子供を二人もうけた。子供をトルチルにはしなかった。何故二人産んだのかと言うと、私も康平もいなくなってしまった時に、一人にならないようにするためだった。姉弟二人なら、何とかやって行けるだろう、と考えての事。れいなと良平ではうまくかみ合うのかどうか不安だが、三年後には否が応でも二人になってしまう訳で。一応、康平の両親に、二人の事をみてやってくれとは頼んである。子供だけの二人暮らしは、トルムの制度ができてからそんなに珍しい光景ではなくなったにしろ、やはり親としては不安なのだ。

「明日で五十歳だな、俺」
 ベッドに横になり、康平は私の手を握った。暖かく大きな手は、出会った頃と何ら遜色がない。
「無事に迎えられそうだね。明日はケーキ買って来なくっちゃ」
「でもあいつら、食うかな」
 私は首を傾げ、それから彼の方に視線をうつし「どうかな」といい、少し笑った。
「食べなくても、誕生日は大切な区切りだから。ちゃんとやろうよ。今までもやってきたんだし」
 康平は握る手に力を込めて「そうだな」と言う。
 隣の部屋からにぎやかな音楽が漏れ聞こえてくる。れいなの部屋だ。最近気に入っているパンクバンドがあるらしく、夜でも気にせず音量をあげている。下げろ、と注意する声さえ耳に届かない状況だ。
「今日もまた随分とにぎやかだね、れいな」
 私が言うと康平は「あいつなりの何らかの主張だな」と分かったような口をきく。
「ただ好きなだけで聴いてるんだよ、あれは」
「にしても、うるさいな」
 苦笑し、「でも、いつも通りの平穏な日々が過ぎて行くっていうのは、何か幸せだよな」と漏らした。
「何、いきなり」
 彼の方に顔を向けると、彼はまっすぐ天井を向いていた。
「二人の子供が自分の血を引き継いでてさ、健康に毎日を送っていて、すくすく育っててさ、俺達に反抗する力も備わってさ。俺はいつ死んでも良い。本当に幸せだよ」
 思わず目尻にたまってしまった涙を彼に悟られないように、空いている方の手でさっと拭った。
「何言ってんの、明日誕生日やるんでしょ」
「あいつら、俺の誕生日なんて覚えてる筈ないだろ。『あの人』扱いだからな」
 カラカラと笑い、それから目を閉じた。すぐに規則的な寝息が聞こえ、それがいびきに変わるまでにそう時間はかからなかった。れいなの音漏れもうるさいけれど、康平のいびきの方が強力だ。
 それも「平穏な日々」の象徴であり、私は口元に笑みを浮かべながら眠りに入った。

 翌朝、目覚まし時計のけたたましい音に目を覚ます。いつも通り、目覚まし時計を叩くように止めて、それから隣に眠る康平に声を掛けた。彼は目覚ましでは起きないのに、私の声には反応して起きるのだ。
「康平、時間だよ」
 声を掛けるが、彼は起きない。顔色が、悪い。
「康平?」
 身体を揺すってみると、揺すられた分だけ身体を揺らす。手の甲で触れてみた首元は、氷の様にひんやりしていた。
「康平!」
 意識せずともとんでもない声が出た。何度も何度も叫んだ。彼の首元が冷えている、それが「死」を意味している事は受け入れられるのだが、叫ばずにいられなかった。叫べばこっちに戻ってくるのではないかと思った。
「康平!」
 何度も叫ぶうちに、子供達が気付いて寝室に入ってきた。
「お、とう、さん?」
 良平が言葉を零し、私は涙で濡れた顔で振り向くと、良平はすぐに康平の元にしゃがんだ。後から来たれいなは「おとうさん?!」と素っ頓狂な声を上げて走り寄ってきた。
「お父さん、何で今日なの? 今日誕生日でしょ? 何で今日死んじゃうの?」
 私は娘の顔を見た。涙は次から次へと溢れ出てきて、康平が眠るベッドのシーツに吸い込まれて行く。良平は何も言わず、涙を堪えて震えている。
 いつか死ぬと分かっていた。いつ死んでもおかしくなかった。それでも人の死は、悲しいのだ。れいなと良平は、身をもって体験した。
「お母さん、今日お父さんの誕生日でしょ、どうして今日なの? 明日でもいいじゃん。何で今日なの?」
 だだをこねる幼子のように私の袖を引っ張る娘を、どう慰めたらいいのか、私には分からなかった。
 私もあと三年したら、いつ死ぬか分からない身になるのだ。その時、彼らを再び襲うのは、悲しみと孤独だ。
 私は自分の涙をパジャマの袖で拭うと、今度は娘の涙を拭い、良平の頭を撫でた。
「これからお父さんは救急車で病院に行って、お母さんも付き添うけど、夜にはお父さんの誕生日、やろう。ケーキ買ってくるから」
 二人は示しを合わせたようにこくりと頷き、れいなは走って電話の子機を持って来てくれた。私は救急車を呼び、トルチルである事を伝えた。サイレンは鳴らさないできてくれ、と。
 電話をしている間、娘も息子も、ずっと父親の腕を握って離さなかった。そこだけはきっと、生きている人間の体温が宿っただろう。私も電話を切ると、反対側の腕を握った。生きていた時の体温を少しでも長く、彼の身体に留まらせるために、ずっと握っていた。

 ふたりとも覚えてたよ、康平の誕生日を。50歳のお誕生日、おめでとう。



 もう十分だ、これ以上の苦痛は十分だ。
 細胞が死ににくい体質なのは分かっている。がん細胞はトルムの影響を受けないから常人と同じスピードで増殖し、抗がん剤で死滅して行く訳だが、その抗がん剤が、なかなか効かなかった。
 骨に転移していると聞いてしばらくしてからだ。堪え難い痛みが全身を襲うようになった。それは一瞬波が引いたように消えたかと思うとまた大波となってやってくる。その繰り返しで、医者に何度も「どうにかしてくれ」と頼むのだが、その場しのぎの痛み止めしか出してくれない。
 要するに、トルチルへの医療は手薄なのだ。どうせ寿命まで死なないんだから、そんな感じだ。
 俺は痛む身体にむち打って、「転院希望」を出した。

 タクシーに乗ってやってきたその病院は、「ホスピス」という終末期医療の病棟が設けられた病院だった。俺の担当医となったのは、まだ三十代と見える若い医師だった。
「斉藤さん、トルチルなんですね」
 紹介状のような物を見ながらそう言う。俺は痛みの波に耐えながら「そうだよ。百二十歳だよ」と答える。
「痛いですか?」
「見りゃわかんだろ、こんなに脂汗かいてんのに」
 平和ボケしているような鈍い喋り方をするこの医者に俺はイライラする。
「あと六十年、耐えられそうですか?」
 この医者はバカなのか。俺は足元の布団を乱暴に蹴飛ばした。
「耐えられないから転院してきたんだろうが、アホ!」
 そうですか、とちょっと落ち込んだような顔をしながらカルテに何か書き込んでいる。それから傍にあった椅子を引き、座った。
「お話、聞かせてください。これまで病院でどんな事をしてきましたか?」
 丁度波が引いた時だった。俺は傍にあったティッシュで汗を拭き、口を開けた。
「何もされてないよ。骨転移する前は抗がん剤を投与されたりしてたけど、医者はあんまり積極的に治療するって感じじゃなかったな。結局、骨転移して、それからは痛み止めだけ打たれてた。それがあんまり効かないんだ」
 カルテに目を落とした医者は「そうですか」と頷き、先を促した。
「骨転移してから十年も経つんだぞ、毎日毎日痛くて叫びそうで、その度にナースコールで看護師呼んでさ、痛み止めの点滴しろって言ってな。でも痛いんだよ。どうすりゃいいんだよ」
 暫くカルテに目を落としたままだった医者は「そうですね」とぽつり、話しはじめた。
「トルムチルドレンに対する安楽死、尊厳死というものは認められていません。通常、骨に癌がある場合は放射線治療や重粒子線治療が行われる場合もありますが、トルムの方にはまず実施されません。僕もこの点はおかしいと思っています。苦痛を強いる訳ですから」
 そう言って縁の細い眼鏡をくいっとあげる。
「苦痛を和らげて、精神的に安心できる最期を提供するのがホスピスのつとめです。だから僕は斉藤さんから痛みを取って差し上げたい。でも、カルテを見る限り、痛み止めとして作用する薬は片っ端から試されているようです」
 俺はまた来た大波に堪えながら「もうないのか」と絞り出すように言う。
「ないです。量を増やしたところでトルムの方には意味がないかもしれません。まだデータは出揃っていないんですが、トルムチルドレンには麻酔が効きづらいという報告があがってきてるんです」
 俺は脂汗を浮き上がらせたまま落胆した。痛いのに麻酔が効かない。このままあと六十年も生きていなければならないのか。俺をトルチルにした両親を恨む。が、もう二人とも他界した。癌になった頃はまだ生きていたが、俺の事より自分の事でいっぱいいっぱいだったんだろう。二人とも病を抱えていた。
「このまま痛み止めを二十四時間体制で落とし続けましょう。医療で私達にできる最大限の努力はこれぐらいです。あとは斉藤さんの気を紛らわせるような事、そうですね、お話をするとか、そう言う事ですかね」
「子供じゃねえんだよ」
 俺はぽつりと零し、横を向いた。なす術なしか。このまま六十年。
 それでもこの医者は、点滴を切らす事なく打ち続けてくれると言う。前の病院ではぎりぎりまで点滴をしてくれなかった。少しは信頼していいかも知れない。

 それから毎日その医者は、ふらりとやってきては俺の枕元に座り、俺の生い立ちや、トルチルになった経緯、トルチルになって辛かった事、楽しかった事などを聞いた。医者にとって何の利益もならないその話に、医者は熱心に耳を傾けた。
 初めは鬱陶しいだけだった医者の来訪が、俺はだんだんと楽しみになってきた。そのうちに、一日のうちの唯一の楽しみになってきた。

 しかし、それとは裏腹に、痛みが日に日に増大していくのだ。初めは気のせいだと思っていたが、あまりの痛さに眠る事すらままならなくなってきていた。医者と話すたびに、痛みは増して行く。
 ある日、意を決して医者に言った。
「麻酔がなぁ、効かなくなってきてんだ。痛いんだ。もう生きてる意味が分からない。先生、俺は何のためにこれから三十年、生きていないといけないんだ?」
 医者は眉間にしわを寄せ、俺の額をタオルで拭う。
「親も死んだ。嫁も子供もいない。俺が死んでも葬式をやってくれる人もいない。身体は痛い。薬は効かない。食欲も出ない。眠れない。どうしたらいい。俺は何のために生きてるんだ、先生」
 黙ったままの医者は目を瞑り、カルテにトントンとペンを叩き続けている。
 ペンの音が止み、俺に視線を寄越した。
「生きているのが辛いですか、斉藤さん」
 俺は即、頷いた。
「一時間だって辛い痛みを、これから六十年も耐え続けて行く事を考えたら、絶望なんてひと言じゃ片付かないぐらいだよ。先生、俺は死にたいんだよ。どうしたら死ねるんだ? トルチルが死ぬための研究はされてないのか?」
 医者はゆっくりと首を横に振った。それから暫く点滴の輸送器を見つめた。

「死にたい、ですか?」
 静かな、水がこぼれるような声だった。しかし痛みにもだえる俺の耳にもしっかりその声が届いた。

「死にたいよ、先生」

「僕の両親もトルチルだったんです。二人とも、眠るように息を引き取った。斉藤さんにも、その権利はある筈です」

 医者はその場を立ち去って行った。それからも俺は寄せては返す痛みの波に耐えていた。耐えるしかなかった。
 しばらくして医者は、ステンレスの架台を押しながら戻ってきた。注射器と、小さなボトルが置いてある。薬剤の名前までは見えない。見えた所で、効果なんて知らない。
「点滴に、少しお薬を混ぜますね」
 そう言うと、ボトルに注射器を差し込み、中の溶液を抜き取った。そして点滴の途中に針を刺すと、筒を押した。偶然通りかかった別の医者がその光景を見て息をのみ「山口先生!」と目を見開いて叫んだ。
 俺は悟った。

俺は死ねる、と。

 叫んだ医者は、その場から走ってどこかへ向かって行った。別の医者でも呼びに行ったんだろう。山口と言うその若い医者は、俺の枕元に座った。
「もう少ししたら、楽になりますからね」
 そう言うと、柔らかな笑みを浮かべた。
「先生、いいのか」
「いいんです、僕は人の苦痛を和らげたくて医者になりました。今ここで斉藤さんを見放したら、僕が医者になった意味がありませんから」
 眼鏡をくいっとあげながら、また微笑んだ。
 そのうち身体が少しずつ楽になり、痛みが抜けた。自由に動ける、そう思った時にはもう、力が入らなくなっていた。眠いような、身体が重いような、飲み過ぎた時のような感覚になった。
「先生、俺そろそろかもしれない」
 山口医師は優しく微笑みながら頷き、「そうですか」と言う。
「先生、ありがとう。先生には感謝してる」
「その言葉が僕にとって一番のお給料なんです」
 俺は力が入らない顔面に集中して、何とか口端に笑みを浮かべる事ができた。
「斉藤さん、ありがとうございました。良い経験です」
 山口医師はにこやかに笑ったまま、俺の視界の中からすーっと消えて、見えなくなった。そこには薄暗い闇が広がるだけだった。



 トルムの制度が始まってから初めて、医師免許を剥奪された医師が出た事がニュースで報道された。山口良平医師。トルチルコミュニティでは一気に話題になった。
 殺人者なのか? 救世主なのか? 議論は白熱し、それぞれの意見を持つサークルが、毎日ネット上でディベートを繰り広げていた。
 私はそれをぼんやりと毎日、眺めていた。私もトルチルで、寿命は八十歳。一般的な女性の平均寿命とほとんど変わらない。母に、この年齢設定にした理由を聞いた事がある。
「長生きしすぎても、短命でも、周囲が辛くなるだけなの」
 だそうだ。どういう事かと考えた。例えば幼くして死んだら、親は「自分より子供が先に逝ってしまった」と言って悲しむだろう。自責の念にかられるかも知れない。守ってやれなかった、と。一方で、例えばトルムの最高齢百二十歳まで生きるとしたら、介護する人間は大変だろう。私自身、もし結婚して、子供や孫ができた時、子供や孫よりも長生きする事に、罪悪感を覚えるかも知れない。そうならないために、親が設定してくれた年齢が、八十歳という事だ。
 先日、同じ大学に通う高校からの同級生、峰山光輝君が、二十歳という若さで亡くなった。死因はトルム変異による多臓器不全だった。本人にはトルチルである言は知らされていなかったようで、峰山君の親はマスコミに叩かれていたし、トルチルコミュニティでも話題になった。
 光輝君には好きな人がいた。同じ学科の小松まひろという女性だった。私は彼に、小松さんとどうしたら付き合えるか、と相談されていた。彼がトルチルと分かっていたら、それが二十歳の設定と分かっていたら、「当たって砕けろ」とでも言って、一日でも早く、幸せな目に会わせてあげたかった。しかし私はそれを知らなかったから、光輝君と小松さんが付き合う事になるのが一日でも遅くなればいいと思っていた。自分の器の小ささに辟易する。
 私は峰山君の事が好きだった。
 後日、大学の構内で見かけた小松さんのやつれ具合といったら、酷い物だった。どうやら死に場に居合わせてしまったらしいのだ。私は、彼の最期を看取ってあげられた小松さんを羨ましく思うのだが。まぁ、トルチルである事を知らなかった訳だから、いきなり彼が倒れたら、落ち着いてられないか。
 トルチルコミュニティは、男女の出会いを目的としている人が多く集まっている。トルチルは結婚するのに不利な条件なのだ。しかし私のように、日本人の平均寿命に近い設定の場合は別だ。今付き合っている医学部の木下君は、医者になったら私と結婚すると言っている。医者の嫁になって、平均寿命で人生を終える。結構幸せな生き方のように思う。

******

五十九年後

 玄関先で気を失った事は覚えている。ついに人生が終わりを告げるのだと思った。
 だがどうだ、目を覚ましてみると、眼前に見えたのは白い天井。私の周囲を覆うのは娘とその婿、孫、そして「医院長」という名札を付けた夫。
「まだ息があったか」
 夫はそう言い、私の手を握りしめる。
 息苦しく、胸を締め付けられるような痛みが襲い、顔をしかめる。声を出そうにも喉が張り付いたようになってしまって声が出ない。
 ただただ白一色のベッドに横たえられるだけで、医療的な措置は一切されずにいた。
「おばあちゃん、死んじゃダメだよ、あと半年は生きていられるかも知れないのに」
 孫の言葉を聞き、彼の頭に手を伸ばそうとするのだが、力が入らない。その横で、娘がハンカチを手にして涙をぼろぼろ流している。暫く、沈黙の時間が流れた。
 私の胸苦しさはどんどん増してきて、横になっているのも辛くなり、身体をくの字に曲げた。
「お母さん!」
 叫んでしゃがんだのは娘で、私の顔の目の前で、大きな声で言うのだ。
「誰だって、自分の親には一日でも、一時間でも、一分でも長生きして欲しいの! だから、死なないで! 生きて!」
 それでも私はトルムによって寿命が操作されたトルムチルドレンなのだ。これから死に向かって流れて行く事は決められた事で、一分単位での長生きだって、自分の力ではどうにもできないのだ。
 私がトルチルでなかったなら。八十歳で今と同じように病院で死の淵に立たされていたのなら、口には酸素吸入がなされ、気管挿入もあったかも知れない。心電図がモニターされて、点滴もされているかも知れない。一分、一秒でもその命の火を長く灯させるための努力が、他人の手でなされていたかも知れない。そして一命を取り留めたとき、娘も孫も、そして夫も、胸を撫で下ろすのだろう。
 何もできないまま、そこにいる人間が死んで行くのだ。彼らにとっては辛い現実だ。ふと、大学の時に死んだ峰山君の事を思い出した。彼が死ぬとき、小松さんは何もできなかった筈だ。辛かっただろう。人間の死に直面し、何もできないまま眼前で、命の灯火が消えて行くのをただただ見ているだけなのだ。
「お母さん......」
 しゃがんだままの娘に声をかけられる。耳にフィルターでもかかったように、遠く聞こえる。
「お母さん、逝っちゃダメ。まだダメだよ」
 それでもプラマイ期間の後半で死ねる私は、長生きをしている方なのだ。
 苦しい。息ができなくなってきた。夫に握られた手に、無意識に力が込められる。握り返されるのが分かる。彼の目には、光る物が浮かんでいた。
 こうして家族に囲まれて最期を迎えられる事は幸せな事だ。しかし、一分一秒でも長く生きてくれと言う娘達の希望に添ってやれない事が唯一の悔いだ。
 声は出ない。口だけは動かした。

「ありがとう」



 親に、俺の寿命は百二十歳に決められていると聞いたのは、小学校二年にあがった頃だった。
「百二十歳まで生きられるの。誰よりも長生きできるって事だから」
 頬をバラ色に染めた母親はそう言う。隣にいる父も、まんざらではなさそうだ。
 その頃は実感がなかった。「あ、そうなんだ」とか何とか、あやふやな返事をしたんだと思う。

 テレビで、トルチル百二十歳に突入した人が映し出されていた。顔中シワだらけのその男性は、「百二十歳まで生きられて良かった。自分の妻と子供をあの世へ送り出してやれた事が何より幸せだ」と彼は言った。
 本当にそうか? テレビ局に金でも握らされているのではないか? だって考えても見ろ、自分の妻と子供が、目の前で死んで行くんだぞ? 自分はトルムのお陰でまだまだ元気で生きられる事が保証されている。医療の力でどうにもならなくなった妻と子供が、息を引き取って行く瞬間をじっと見ている事しかできない。「俺もすぐに逝くから」そんな言葉も嘘になる。そんな人生って素晴らしい物なのか?
 俺はそのテレビ番組を、自分の部屋で見ていた。俺は高校の頃から友達と付き合うのが面倒になった。なるべく人と関わりたくなくなった。トルチルで百二十歳まで生きて行くのに、なるべく人と関わりたくなかった。関わった数だけ、その「死」を見て生きて行かなければならない。もうたくさんだ。
 高校はきちんと卒業した。しかし大学には行かず、働きもせず、部屋に閉じこもっている。所謂ニートってやつだ。親は、成績がそこそこ優秀だった俺に、大学に行くよう勧めたが、俺は断った。これ以上頭に何かを詰め込んだところで何になる。俺は自分の部屋で、自分の頭の中で、考えたい事があった。
 どうしたら簡単に死ねるか。どうしたらトルチルがいる世の中を変えられるか。
 百二十歳に設定され、癌にかかったトルチルが、尊厳死と言う名で医者に殺された事が報道された。いっその事俺も、薬剤で殺して欲しい。そう考えると、医学部や薬学部にでも入学しておくんだったなと、少し後悔をしなくもない。
 自殺を図った人の中には、中途半端に首つりなどをして、脳に後遺症を残したままで生きながらえている人がいる。あれは無様だ。まず人に見つかるような、「自宅」を選択したところで間違っている。
 誰か俺の首を、鉈のようなもので一気に切り落としてくれないかなぁ。俺が新選組の隊士だったら、真っ先に逃亡を企てて、三番隊隊長の斉藤一あたりに介錯をしてもらうんだが。ま、あれは鉈ではなく日本刀だ。
 とにかく、中途半端に誰かに助けてもらう事なく、死ねる方法。薬は無理だ。手に入れるのが困難だ。トルチルがインターネットで薬剤を入手して自殺をした例が一件起きてから、国の監視が厳しくなった。メールアカウントなどは確実に監視されている。断食も考えた。何も食わずにいればそのうち死ぬだろう。しかし俺はひきこもり。親が食事を作ってドアまで持ってくる。俺が食わずに死のうとすれば、きっと国に届け出るに決まっている。トルチルの自殺は禁止されているのだ。
 では、ウマい具合に他殺されるにはどうしたらいいだろうか。「このナイフで滅多刺しにしてください」そう言って引き受けてくれる人が万が一にもいたとして、きっと脅威の止血能力でがんがん止血して、健康体に戻るのだろう。おいおい、トルチルの肉体はどうなってるんだ。
 研究成果のため、設定された寿命で死ぬ事しか許されていないのだ。俺はどうしたら良いのだ。
 暫くぼんやり、天井を見つめた。頭にわいて出てきた方法は、一か八かの大ばくちというところだろうか。
 俺のために。そして望まないトルム配列を埋め込まれた同士のために。

 俺は何日か振りに風呂に入り、身を清めた。歯も磨いた。
「ちょっと出てくる」
 親と話すのは何ヶ月振りだろう。話すと言っても、一方的に声を掛けただけだが、親にとっては嬉しい事だろう。これが最期に聞く子供の声かも知れないのだ。
 俺は歩いて駅まで行くと、電車に乗って繁華街に出た。ホームセンターに立ち寄り、なるべく刃が長い包丁を買った。「用途は?」と訝し気に聞かれ「え、家庭用ですよ」と落ち着いて答える。
 俺はそれを持ってトイレに入った。包装用のプラスチックケースと紙でできた背板を捨てると、肩から下げていたトートバッグに入れた。しっかりした素材のトートバッグだったから、刃が飛び出す事はなかった。
 あとは繁華街に出るだけだった。目についた人間に刃を向けた。俺が歩く周りから人が逃げて行くが、逃げ場を失った人は俺が持つ包丁に吸い込まれた。
 目の前にカップルがいた。
「ちょっと待って、この人、トルチルなの! あと一年しか生きられないの!」
 俺はそのトルチル男性を除け、隣の女を刺した。
 そのうち警察の車両が到着したので俺は動きを止めた。あとは警察が言う通りに車両に乗った。

 これだけ殺せば死刑は確実だろう。俺はそう苦労せずに、トルムから抜け出す事ができる。

 面会に訪れた男には見覚えがあった。俺が刺さずに避けた男だった。
「どうも」
 男から発せられる言葉に俺は無言で会釈すると、その男の目の前に座る。
「彼女は一命を取り留めました。その、俺の事、刺さずにいてくれてありがとう」
 何も言えないまま俺は俯いた。何故あの時、この男を刺さないという選択をしたのだろう。見たところ、二十代後半といったところだ。寿命は三十か。
「歳は」
「二十九歳、寿命は三十です」
 当たった。
「もうプラマイ期間に入ってます。いつ死んでもおかしくないけど、彼女とあとどれぐらいか分からない日数を過ごせると思うと、幸せです」
 何故俺にそれを言うのか、分からなかった。まずこの男が、何故俺に会いにきたのかが分からなかった。
「もういいですか」
 俺は椅子から腰を上げようとすると「あ、ちょっと待って」と声が上がる。
「あの、あなたもトルチルなんですよね、百二十歳の」
 無言で頷く。
「死刑になりたくて、殺したんですか?」
 頷くのも無意味に思えて、頬杖をついたまま顔を逸らした。
「多分、死ねないですよ。トルチルだから。世論がどう言ったって、国はあなたを生かすと思いますよ。寿命まで到達してこそトルチルの役目が終わるんですから。今、テレビでは連日あなたの報道がなされています」
 その男は、怒りでも悲しみでもなく哀れみでもない、何の色も持たない瞳でじっと俺を見据えていた。
「じゃぁお前はどうすれば、俺が死ねると思う」
「誰もいないところでじっくりと首が絞まって行く事を噛み締めながら苦しみながら死んで行くか、誰もいないところで何も食わずにじっとして死んで行くか、それぐらいしか思いつきませんね。ま、私はもうすぐ死ぬから関係ないですけど」
 そして腰を上げ、去って行った。
 規則ただしく一日置きに、そいつは現れた。マスコミの情報を俺に教えてくれた。
 世論は二分しているらしい。五人もの人間を無意味に殺しておいて、死刑にしないのがおかしいという一派と、死刑にするのは俺の望み通りにすると言う事だし、税金からまかなわれた金でトルチルになっているのだから、殺すのはおかしいという一派。
 裁判でも同じだった。死刑を求刑する検察側と、無期を主張する弁護側。じっさいもう、どうでも良くなってきた。
 塀のこちら側にいれば、特に誰かと仲良くする必要もなく、誰かの死に目に会い、誰かの葬式に行く必要もない。毎日決まった時間に起きて飯を食い、労働をする。無期懲役だとしても、これ百二十年続けて行けば良いのだろう。
 死刑になれば、これ幸い。べつに命を粗末にしたい訳じゃない。トルチルじゃなかったら俺はこんな風にねじ曲がらなかった。人の死を受け入れ、悲しみ、弔っただろう。ただ、俺は百二十歳まで強制的に生かされるトルチルだ。これから何十人の親戚、友人の死に目に会う。俺はきっとそれを、羨ましく思う事はあっても、悲しむ事はない。
 「死ねる幸せ」。俺にはそう思うのだ。

「よって、被告人に、死刑を言い渡す」
 俺の待っていた言葉が言い渡された時俺は、えも言われぬ幸福感に満ち満ちた。傍聴席の隅で肩を振るわせている母親に、ざまあみろと言ってやりたかった。お前が俺に強いた寿命は、俺の手で変える事ができたのだ。これを機に、同じような犯罪が増えないようにとトルチルの規定が変わるかも知れない。俺が世の中を変える事ができるかも知れないと思うと、俺の仕出かした事は犯罪だったのか? と疑問すらわいてくる。震える母の肩を抱く父に一瞥をくれて、法廷から出た。

******

100年後

 死刑は秘密裏に執行される事ぐらいは知っていた。いつ死刑になったか、それは親族には知らされるのだろうが、きっともう、私の両親はこの世にいない。
 私は百二十歳のプラマイ期間がきても、まだ自分の力で歩き、軽い労働ならこなせる。残念な事に、国にはめられたようだと感じたのは、百歳を超えたあたりだ。
 世論に押され、死刑は宣告したが、この国は国の実験のために、私を生かした。

「じいさんさぁ」
 隣に座った若い囚人が、昼食のテーブルの隣に腰掛けた。
「トルチルで死刑になった人でしょ。つーかまだ死んでないから死刑になってないか」
 そう言うと喉の奥から不愉快な音を立てて笑った。
「俺さ、刑期10年でな、もうそろそろ出れそうなんだよ、模範囚で。でもトルチルで50歳で死ぬんだ。その前に何かでかい事やりたいんだよな」
 私は彼の横顔を見ながら呆けたような顔をしていた。
「あのな、じいさんが死刑になってないんだって、マスコミに発表してやろうと思う。死刑なんて嘘で、国は国の実験のためにじいさんを生かしてるって、そう行ってやる」
 私は目の前に置かれたソバの椀を持ち上げて一口すすると「そうか」と零した。
「言えばいい。私は国に騙された。そう言ってくれ。世の中腐ってるってな」
 若者は元々良いのであろう血色をさらに良くして「おう」と意気込んでいる。
 正直言って、どうでも良かった。もういつ死んでもおかしくない私にとって、世の中がどう動こうが関係なかった。
 しかし私は一つ危惧している事があった。果たして私は、このまま死刑を執行されずに寿命で死ぬのだろうか、という事だ。いつ死んだってそれは構わない。しかし国の汚いやり口にはできれば加担したくない。それを若者に話そうとしたその時、看守が私の名前を呼んだ。
「執行だ。このまま私についてきてください」
 俺はこちらをじっと見ている若者に、ひらりと手を振った。それで理解してくれればいいのだが。
 私はトルチルのプラマイ期間に入った途端に死刑が執行される事になった。国は何も間違った事をしていない。私は死刑を執行されるのだから。そしてトルムチルドレンとして百二十歳まで生きたというデータも取れた。国はウマい事やったな、と思い、私は気付くと口元に歪な笑みを浮かべていた。ガラスに映ったシワだらけの顔が、歪んでいた。
「誰かに何か言い残す事があればこの場で」
「いや、身内もおりませんし。言う事とすれば、トルムの実験を即刻中止して欲しいってぐらいですけど、そんなのは公表されないんでしょ」
 そう看守の顔を見遣ると、彼は暫く顔を固くしたあと、頷いたのかとぎりぎり分かる程度に顔を動かした。
 私はガラス張りの白い部屋に通されると、顔より一回り広い輪に首を通した。これで全て終わる。
 私が五人を殺した事は、何ら意味を持たなかった。今更だが、死んだ五人に詫びたい気持ちになった。私の力でトルムの制度が何か変わってくれたらいい、若かった私はそう思っていた。しかし実情は何も変わらなかったのだ。
 ガタン、と音がするとともに視界が暗くなった。



 窓を背に座る彼女はいつも、午後になると背後からの太陽に照らされて、まるで何かの神様のように輝いていた。後光が射している、というやつか。
 艶やかな髪には天使の輪が光っていて、パネル越しに目が合うと時々にっこり微笑んでくれる。同期の中で、そんなに目立つ存在ではない。実際、とても美人だとかとても可愛いとか、そういう話題には名前が挙がらない香苗は、俺だけのマドンナというところか。
「木下君、ブラックでいい?」
 残業しはじめて二時間が経った。香苗は手に缶コーヒーを持って近寄ってきた。
「うん、ブラックの方がいい」
 そう答えると、彼女は缶をずいと俺の方に差し出した。「くれるの?」
「お互い残業お疲れさまって事で」
 周囲を見ると、他の人は皆帰ってしまっていた。いつも最後まで仕事をしている課長は、この日終日出張で不在だった。
 俺は「いただきます」と言ってプルタブをあけ、一口すすった。「うんめぇ」
「この前はお母さん、私の事何て言ってた? 礼儀がなってないとか言ってなかった?」
 アハハと笑って顔の前で手を振ってみせる。
「いい子じゃない、って言ってたよ。俺みたいな奴に彼女ができるなんてそもそも期待してなかったらしいからね。喜んでた。香苗が帰ったあともずーっと香苗の話。まいったよ」
 香苗は俺の隣の椅子に腰掛け、両手でカフェオレの缶を挟み込んで「良かった、のかな」と呟くように言う。
「こうなる前に、本当は木下君に話しておかなきゃならない事があったんだ」
 俺は缶から口を話すと、「何?」と話を促す。困惑したような顔で髪を触る香苗は、口をきゅっと真一文字に締めてから、口を開いた。
「私と木下君は多分、おつきあいはできても結婚まではできないと思うの。だから、深い仲になる前に、私とは別れた方が、いいと思うんだ。木下君のためにも」
 俺にはさっぱり話の意図が掴めず「どういう事?」と眉根を寄せる。彼女は困ったような顔をして、耳に下がるシルバーのピアスを引っ張っている。俺がプレゼントしたピアスだった。
「ひと言で言うとね、私、トルチルなの」
 缶を持つ手が一瞬、凍り付く。何も言えず、口を半開きにしたまま顔は動かなくなってしまった。
「ほらね、そうなるだろうと思ってなかなか言いだせなかったんだ」
 俺は魔法にでもかかったように動けなかったけれど、それを何とか自分の力で振りほどき「何歳?」と訊ねた。
「五十歳」
 頭を抱えた俺は、それ以上何を言えばいいのか分からず、居室内は沈黙に包まれた。
「だからね、早いうちに別れた方がいいと思うんだ。奥さんが五十歳で死んじゃうって分かってたら、結婚できないでしょ」
 場違いな程に柔らかな笑みを浮かべる香苗が、酷く気の毒だった。
「うちのお父さん、お兄ちゃんが産まれたあとにリストラされてさ、母親は身体が弱くて仕事できないし、お金が必要だったんだって。仕方ないよね。五十歳なら、親もまだ生きてるだろうから、親に看取られて死んで行くのも悪くないかなって」
 そしてまた、少し目を伏せて笑みを浮かべる。俺は言おうとする事はあるのだが、なかなか口が開かず、口を閉じたまま何度か歯をカチカチと打ち合わせて、やっと声が出た。
「俺のばあちゃんがトルチルだったんだ。七十歳」
 今度は彼女が固まった。俺は構わず話を続ける。
「俺と父ちゃんと母ちゃん、医者やってるじいちゃんの四人で看取ったよ。ばあちゃんはやり残した事もなかったんだろうな、いい顔で息を引き取った。七十年しか生きられないと思ったら、その七十年でできる最大限の事をしながら生きるって事なんだろうな」
 震える声を押し隠すように、缶コーヒーを全てあおった。この量は、休憩には最適な量だな、といつも思う。少し頭がしゃきっとした所で俺は意を決して口を開いた。
「俺と結婚してくれ。そして子供を作ろう。あと二十二年、悔いのないように、やりたい事を一杯詰め込んで、香苗がいなくなる時には皆が笑ってさよならできるように、俺、協力するから」
 差し出した俺の右手は不自然な程に震えていたが、そこに重ねられた香苗の手は涙で震えていた。
「夢みたい。トルチルで良かったって、初めて思った。ほんと、夢みたい」
 俺の手をぎゅっと握った香苗はそのまま一頻り泣いた。うれし涙でもあったのだろうけれど、自分の寿命を再確認してしまう悲しい瞬間でもあっただろう。俺は自分の無力さに呆れながら、彼女の背を擦っていた。

 二人が三十歳になった頃、第一子となる耕太が誕生し、翌々年には麻美が誕生した。「子供は二人いればいい」という香苗の要望により、これにて打ち切りとなった。
 旅行に行きたい所を全てピックアップし、全てを写真におさめた。子供と香苗の写真は率先して撮った。日々の何気ないスナップもだ。子供が料理の手伝いをしている写真や、香苗が麻美の髪を結わいてあげている写真、耕太の野球を応援する写真。頭の中にインプットしておける情報量は限られているから、後からでも思い出せるよう、こうして写真に残していく。
 いつしかアルバムは、膨大な量に膨れ上がった。

******

香苗 五十歳

 俺の祖母と同じだった。家で倒れた時にはまだ息があった。救急車を呼ぶかどうか迷い、やめた。どうせ何の処置もされないのだから。
 俺は香苗が少しでも苦しくない体勢になるように首元に座布団を噛ませ、耕太と麻美の学校に電話をした。状況を話すと、学校側は早退をさせてくれると言う。その後二人は息を切らせて一緒に帰宅してきた。
「まだ間に合う?」
 玄関からただいまも言わずに叫んだのは麻美で、「大丈夫だ!」と叫び返すと二人、バタバタ走り寄ってきた。香苗を取り囲むように座る。
「お母さん、やり残した事はない?」
 息苦しそうにする香苗は、声を出さずに唇で「ある」と答える。麻美は少し狼狽したように声を上げる。
「何?」
 麻美の質問に対し、香苗は最後の力を振り絞って両手を彼女に伸ばす。麻美は理解したようで、香苗を抱きしめ、香苗は麻美を抱きしめた。少しずれた所にいた耕太も膝でずりずりと移動し、香苗の横に来ると、同じようにぎゅっと抱きしめ合った。耕太からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、香苗のグレーのニットに丸いシミを作った。反対に座っていた俺にも手が伸ばされ、俺は香苗の身体を起こすような形で抱きしめた。麻美の嗚咽が聞こえる。嗚咽の隙間をくぐって、俺の耳元で香苗はごくごく小さな声を振り絞って言った。
「みんな、だいすき」
「俺達もだ」
 俺は香苗を元の体勢に戻してやり、彼女の目元をティッシュで拭ってやった。彼女の顔をめがけて落ちた俺の涙と一緒に。
 俺は何とかして笑い顔を作った。歪でもいい、口元が笑えれば伝わるだろうと思った。
「さすがに笑ってさようならはできないな。やっぱり、明日まででも明後日まででも生きてて欲しいんだよ、香苗」
 徐々に顔色をなくす香苗の手を握った。
「香苗、耕太と麻美は俺が育てるから心配するな。あと数十年したら俺も逝くから、そしたら香苗の事探すから。待っててくれ」
 青い顔をしながらわずかに頷いた香苗の口端に、少しだけ笑みと分かる動きが見られた。
 俺はそれで十分幸せだった。
 香苗と夫婦だった二十二年、悔いはない。きっと香苗もやりの事した事はないだろう。さっきの包容で全て終わった。あとは彼女のタイミングで、命を終わらせるだけだ。
 俺が握る手と、反対側は子供達が握っている。
 香苗が一度瞬きをした。目尻からこめかみに向けて涙が一筋、零れた。
 そのまま彼女は目を瞑り、口端に笑みをたたえたまま、静かに息を引き取った。

FIN.(あとがきあり)


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