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「おめでとうございます、きちんと着床してるみたいですね」
 理香の頬が紅潮し、目には涙が浮かんだ。金も体力もつぎ込んだ、俺達の大事な子供が、理香のお腹の中に。
「先生、ありがとうございます」
 俺は深々と頭を下げたが「いやぁ、お二人のがんばりの結果ですよ」と笑顔で肩を叩かれる。
「一応これね、全ての妊婦さんに渡す事になってるから。トルムに関するお知らせ」
 そう言って白い紙の束を渡された。一瞬、顔が強ばる。
 トルムについては大体知っている。CMでも流れているし、時々ニュースでも特集される。既にもう何例かが期日通りに死を迎え、実験を成功させていると言う。

 自宅に帰るまでの道のりをこんなに長く感じた事はない。理香が万が一つまずいたりしたらと思うと、慎重にならざるを得ない。これから十月十日、気が抜けない。それと同時に頭を占拠する、トルムチルドレンという言葉。
「ねぇ武史、トルムの書類見たでしょ、どう思う?」
 理香は四十歳を超えて身ごもった。実に二十年に近い月日を不妊治療に捧げた。やっとできた子供なのだ、できるだけ長生きさせたいと思うのが、親の気持ちではないだろうか。
「トルチルの最大寿命が百二十だろ。それぐらい生きて欲しいなぁと俺は思うけどな。理香はどうだ?」
 俺の言葉に理香はトルムの資料をざっとめくって「この額なら、大学まで行く学費ぐらいにはなる、かなぁ」
 理香もトルムに積極的である事が伺えた。
 妊娠が確定して二週間後の検診で、理香はトルムの接種を受けた。勿論、最高寿命の百二十歳の物だ。
 そして産まれた赤ん坊は、赤ん坊と呼ぶのに相応しい、真っ赤な顔をして大きな声で泣く、元気な女の子だった。

******

 五十年後

 先立った夫は、誰よりも美香の事を心配していた。
 トルム接種によりトルチルとなった娘の美香は、染色体検査の結果、ダウン症候群である事が判明した。トルムの接種は、染色体数には何ら変化をもたらさないと言う。トルチルにならなくても彼女は、ダウン症候群から逃げる事はできなかった訳だ。
 美香は小学校で普通校の養護学級に入ったが、手に負えないと学校から連絡が入り、結局は養護学校に通う事になった。
 トルムのお陰で細胞死が起こる確率が低いのだが、それでもダウン症候群によって引き起こされる先天的な奇形で、心疾患と甲状腺に病を抱えている。
 病院側はトルチルにはあまり手を出したがらず、心奇形はそのまま放置されている。すぐに命に関わるような奇形ではないのだ。それに彼女は簡単な事では死なない。何故ならトルチルだからだ。
 ダウン症の平均寿命が五十歳だと聞く。現在美香は丁度五十歳になるところだ。私は九十歳になった。
 八十を超えた辺りから、毎日が苦痛で仕方がなかった。美香の性格は幼い頃から全くと言っていい程変わらず、頑固で困った。それでも私がこの世からいなくなった後、彼女は百二十歳まで一人で生きて行かなければならない。だから生きる術を身につけさせようと躍起だった。毎日同じ事を何度も何度も教えていった。
 日々の生活は何とか一人でできるようになったと思う。こうして私が病院に入院していても、毎日決まった時間に病院に顔を出し、言いたい事をばーっと話して帰って行く。全身を癌に冒されていると言っても過言ではない私の身体は、声を発する事ができなくなっている。だから、美香の話を聞く事しかできない。それでも自分の娘が元気に話しているのを聞いて、嬉しく思う。
 私の命が消えた後、彼女はどんな風に思うんだろう。私はきっと、そう遠くない将来、命の灯火を消す。悲しむだろうか。泣きわめくだろうか。周りに迷惑をかけないだろうか。
 幸い、病院関係者は彼女がトルチルである事を理解してくれている。私がいなくなった後は何とかケアしてくれると思っている。それでも百二十歳まで、彼女は孤独に生きて行く。彼女が結婚して、子供でも生んでくれていれば、彼女をケアしてくれる肉親がいたのだろうが、残念ながら美香は子宝に恵まれなかったし、結婚もしていない。

 私は眠っている時間が多くなってきた。気付くと時間が経過していて、美香を見ない日があるぐらいだ。
 今日は、バスで隣に座ったおばあさんの話をしていた。おばあさんと言ったって、私より若いのだろう。他愛もない話に耳を傾けているうちに、また目蓋が重くなっている事に気付く。

 百二十歳。九十歳の私だって、十分に長生きをした。百二十歳。想像がつかない。どれほどしわしわになるのだろう。皮膚の細胞も死ににくいのだろうか。そこまで私は知らない。どんな姿になっても、彼女は百二十歳まで生きる「義務」を背負っている。それは、彼女が国からお金を支払ってもらったからだ。そのお金は、彼女の療育費で全て消えた。今は国からの補助と、彼女が支援施設で働いて得ているわずかな給金から、私の治療費と彼女の生活費がまかなわれている。
 彼女は百二十歳まで、義務的に息をする。周りが見放しても、その心臓は動き続ける。自分が見放しても、臓器は働き血を巡らせ、体温を保ち続ける。いっその事、首でも切り落として死なせてあげたい。しかし彼女は楽しそうに毎日病室に顔を出す。私が彼女の命の灯火を消して良い訳がない。
 何しろ、苦労してできた子供なのだ。だからこそ、トルチルにする決心ができたのだ。
 今更後悔をしてどうする。自分の愛娘をトルチルとして百二十歳まで生かしてあげられて、私はとても幸せ、そう思わなければやってられない。
 遠のく意識の中、目に映るのは、娘の少しつり上がった小さな瞳。生まれてからずっと変わらない、何事も疑わない素直な瞳。その光はあと七十年、失われる事はないのだ。


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