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 もう十分だ、これ以上の苦痛は十分だ。
 細胞が死ににくい体質なのは分かっている。がん細胞はトルムの影響を受けないから常人と同じスピードで増殖し、抗がん剤で死滅して行く訳だが、その抗がん剤が、なかなか効かなかった。
 骨に転移していると聞いてしばらくしてからだ。堪え難い痛みが全身を襲うようになった。それは一瞬波が引いたように消えたかと思うとまた大波となってやってくる。その繰り返しで、医者に何度も「どうにかしてくれ」と頼むのだが、その場しのぎの痛み止めしか出してくれない。
 要するに、トルチルへの医療は手薄なのだ。どうせ寿命まで死なないんだから、そんな感じだ。
 俺は痛む身体にむち打って、「転院希望」を出した。

 タクシーに乗ってやってきたその病院は、「ホスピス」という終末期医療の病棟が設けられた病院だった。俺の担当医となったのは、まだ三十代と見える若い医師だった。
「斉藤さん、トルチルなんですね」
 紹介状のような物を見ながらそう言う。俺は痛みの波に耐えながら「そうだよ。百二十歳だよ」と答える。
「痛いですか?」
「見りゃわかんだろ、こんなに脂汗かいてんのに」
 平和ボケしているような鈍い喋り方をするこの医者に俺はイライラする。
「あと六十年、耐えられそうですか?」
 この医者はバカなのか。俺は足元の布団を乱暴に蹴飛ばした。
「耐えられないから転院してきたんだろうが、アホ!」
 そうですか、とちょっと落ち込んだような顔をしながらカルテに何か書き込んでいる。それから傍にあった椅子を引き、座った。
「お話、聞かせてください。これまで病院でどんな事をしてきましたか?」
 丁度波が引いた時だった。俺は傍にあったティッシュで汗を拭き、口を開けた。
「何もされてないよ。骨転移する前は抗がん剤を投与されたりしてたけど、医者はあんまり積極的に治療するって感じじゃなかったな。結局、骨転移して、それからは痛み止めだけ打たれてた。それがあんまり効かないんだ」
 カルテに目を落とした医者は「そうですか」と頷き、先を促した。
「骨転移してから十年も経つんだぞ、毎日毎日痛くて叫びそうで、その度にナースコールで看護師呼んでさ、痛み止めの点滴しろって言ってな。でも痛いんだよ。どうすりゃいいんだよ」
 暫くカルテに目を落としたままだった医者は「そうですね」とぽつり、話しはじめた。
「トルムチルドレンに対する安楽死、尊厳死というものは認められていません。通常、骨に癌がある場合は放射線治療や重粒子線治療が行われる場合もありますが、トルムの方にはまず実施されません。僕もこの点はおかしいと思っています。苦痛を強いる訳ですから」
 そう言って縁の細い眼鏡をくいっとあげる。
「苦痛を和らげて、精神的に安心できる最期を提供するのがホスピスのつとめです。だから僕は斉藤さんから痛みを取って差し上げたい。でも、カルテを見る限り、痛み止めとして作用する薬は片っ端から試されているようです」
 俺はまた来た大波に堪えながら「もうないのか」と絞り出すように言う。
「ないです。量を増やしたところでトルムの方には意味がないかもしれません。まだデータは出揃っていないんですが、トルムチルドレンには麻酔が効きづらいという報告があがってきてるんです」
 俺は脂汗を浮き上がらせたまま落胆した。痛いのに麻酔が効かない。このままあと六十年も生きていなければならないのか。俺をトルチルにした両親を恨む。が、もう二人とも他界した。癌になった頃はまだ生きていたが、俺の事より自分の事でいっぱいいっぱいだったんだろう。二人とも病を抱えていた。
「このまま痛み止めを二十四時間体制で落とし続けましょう。医療で私達にできる最大限の努力はこれぐらいです。あとは斉藤さんの気を紛らわせるような事、そうですね、お話をするとか、そう言う事ですかね」
「子供じゃねえんだよ」
 俺はぽつりと零し、横を向いた。なす術なしか。このまま六十年。
 それでもこの医者は、点滴を切らす事なく打ち続けてくれると言う。前の病院ではぎりぎりまで点滴をしてくれなかった。少しは信頼していいかも知れない。

 それから毎日その医者は、ふらりとやってきては俺の枕元に座り、俺の生い立ちや、トルチルになった経緯、トルチルになって辛かった事、楽しかった事などを聞いた。医者にとって何の利益もならないその話に、医者は熱心に耳を傾けた。
 初めは鬱陶しいだけだった医者の来訪が、俺はだんだんと楽しみになってきた。そのうちに、一日のうちの唯一の楽しみになってきた。

 しかし、それとは裏腹に、痛みが日に日に増大していくのだ。初めは気のせいだと思っていたが、あまりの痛さに眠る事すらままならなくなってきていた。医者と話すたびに、痛みは増して行く。
 ある日、意を決して医者に言った。
「麻酔がなぁ、効かなくなってきてんだ。痛いんだ。もう生きてる意味が分からない。先生、俺は何のためにこれから三十年、生きていないといけないんだ?」
 医者は眉間にしわを寄せ、俺の額をタオルで拭う。
「親も死んだ。嫁も子供もいない。俺が死んでも葬式をやってくれる人もいない。身体は痛い。薬は効かない。食欲も出ない。眠れない。どうしたらいい。俺は何のために生きてるんだ、先生」
 黙ったままの医者は目を瞑り、カルテにトントンとペンを叩き続けている。
 ペンの音が止み、俺に視線を寄越した。
「生きているのが辛いですか、斉藤さん」
 俺は即、頷いた。
「一時間だって辛い痛みを、これから六十年も耐え続けて行く事を考えたら、絶望なんてひと言じゃ片付かないぐらいだよ。先生、俺は死にたいんだよ。どうしたら死ねるんだ? トルチルが死ぬための研究はされてないのか?」
 医者はゆっくりと首を横に振った。それから暫く点滴の輸送器を見つめた。

「死にたい、ですか?」
 静かな、水がこぼれるような声だった。しかし痛みにもだえる俺の耳にもしっかりその声が届いた。

「死にたいよ、先生」

「僕の両親もトルチルだったんです。二人とも、眠るように息を引き取った。斉藤さんにも、その権利はある筈です」

 医者はその場を立ち去って行った。それからも俺は寄せては返す痛みの波に耐えていた。耐えるしかなかった。
 しばらくして医者は、ステンレスの架台を押しながら戻ってきた。注射器と、小さなボトルが置いてある。薬剤の名前までは見えない。見えた所で、効果なんて知らない。
「点滴に、少しお薬を混ぜますね」
 そう言うと、ボトルに注射器を差し込み、中の溶液を抜き取った。そして点滴の途中に針を刺すと、筒を押した。偶然通りかかった別の医者がその光景を見て息をのみ「山口先生!」と目を見開いて叫んだ。
 俺は悟った。

俺は死ねる、と。

 叫んだ医者は、その場から走ってどこかへ向かって行った。別の医者でも呼びに行ったんだろう。山口と言うその若い医者は、俺の枕元に座った。
「もう少ししたら、楽になりますからね」
 そう言うと、柔らかな笑みを浮かべた。
「先生、いいのか」
「いいんです、僕は人の苦痛を和らげたくて医者になりました。今ここで斉藤さんを見放したら、僕が医者になった意味がありませんから」
 眼鏡をくいっとあげながら、また微笑んだ。
 そのうち身体が少しずつ楽になり、痛みが抜けた。自由に動ける、そう思った時にはもう、力が入らなくなっていた。眠いような、身体が重いような、飲み過ぎた時のような感覚になった。
「先生、俺そろそろかもしれない」
 山口医師は優しく微笑みながら頷き、「そうですか」と言う。
「先生、ありがとう。先生には感謝してる」
「その言葉が僕にとって一番のお給料なんです」
 俺は力が入らない顔面に集中して、何とか口端に笑みを浮かべる事ができた。
「斉藤さん、ありがとうございました。良い経験です」
 山口医師はにこやかに笑ったまま、俺の視界の中からすーっと消えて、見えなくなった。そこには薄暗い闇が広がるだけだった。


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