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7.矢部君枝

 塁と私じゃダメなのか、そんな塁の言葉から、私と塁が共に過ごす時間は自然と増えた。勿論彼は私の身体を求めたりしないし、仕事の帰りに彼の部屋に行って、晩御飯を作ってあげたり、納期が迫ってイラストの仕上げをしている塁の背中を、体育座りでじっと眺めたりしている。感情を込めないお喋りな塁が、黙って仕事をこなす姿には流石に圧倒され、惹かれたのは事実だ。
 彼はOAチェアで盛大に伸びをした。ひと段落ついたらしく、何かを思い出したように大袈裟に「パチン」と手を叩いた。
 部屋の隅におかれた、一枚の画板。そこに描かれているのは、毎朝毎昼鏡で見ている、私の顔。だけとその目には、畏怖の色が見て取れる。
「これだよ、師匠が認めてくれたやつ。Montre、警戒っていう意味だ。師匠がつけてくれた」
 そう言うと、画板を複合機に挟んでコピーした紙を手渡してくれた。
「約束の品。俺の運命を決定づけた一枚だから、大事に祀っといてね」
 ケラケラ笑いながら、布袋に画板をしまう。
「ありがと。塁といると、何か楽しいな」
 素直に言って彼に視線をやると、面食らったような表情で「本気にすんよ」とおどけて見せた。
 確かに私の中には智樹が残っている。それでも塁の優しさに、どうしても甘えてしまう自分がいる。愛情なのかは分からない。家族愛に近いものかも知れない。だけど今、彼のそばにいる事はとても心地よく、離れてしまうのが怖かった。
 画板を部屋の隅に置いた塁がスタスタと歩いてきたと思うと、座っている私の腕を引いて立ち上がらせ、抱き寄せて唇を重ねた。長く深く、なかなか終わりを見せないその口付けに、塁の腰に回した腕にぎゅっと力を込める。
 途端に顔を離したかと思うと、出し抜けに言う。
「やっぱ眼鏡邪魔だよな」
 私の耳のあたりからメガネを引っこ抜き、またキスをした。
「俺は矢部君の事が好きだ」
 それでも脳裏を掠めるあの人の事を考えると、「うー」と何とも歯切れの悪い返答しかできない、馬鹿正直な自分を責めた。

「明日休みだし、泊まって行かないかい、布団は用意してある」
 押入れの方を指差す塁に、コクリと頷いて見せた。そういえば、智樹の家に置いた、黄色い歯ブラシはもう、処分されてしまったかだろうか、気になった。いつでも智樹の家に泊まれるように置いたあの歯ブラシ。ふと、耳から下がる空色のピアスに触れ、外す。「お、そのピアス」言いかけて塁が口を噤んだように聞こえて、思わず苦笑した。
「このピアスだけはどうしても、身につけちゃうんだよね」
 智樹からもらった、二十歳の誕生日プレゼント。一生忘れないと誓ったあの日。忘れようにも忘れられなかったのだ。ジルコニアのネックレスは箱にしまったまま。革のブレスレットは仕事のカバンの中に縛り付けてある。全然忘れられないのだ。彼との思い出をまとったまま、彼と顔を合わせない時間は、一年を過ぎた。心だけはいつでも飛んで行けるようにスタンバイしていた。でも塁が、戻って来て均衡が破れた。
 シャワーを浴びながら、智樹の事を思い返す。彼は今、何をしているんだろうか。素敵な女性に出会えただろうか。ブレスレットは捨ててしまっただろうか。一瞬でも、私を思い出す事があるんだろうか。

「ねぇ、何で布団、一組なの」
 六畳程の部屋のど真ん中にデンと敷かれた布団を見て、口に出さずにはいられなかった。
「智樹とは一つの布団で寝てたんだろ。大丈夫、何もしないし。つーか布団、一つしかないの、このおうち」
 口笛でも吹きそうな軽い身のこなしでパソコンの電源を落としに行く。「そうだ」ぐいとこちらへ顔を向ける。
「俺ね、料理しないから、朝ご飯とか、ないの。明日の朝、そこのコンビニにパン買いに行くから、俺が部屋にいなかったらコンビニにいると思ってね」
 不健康、ぽつりと言うけれど、塁はへへっと笑うだけで気にしていない様子だ。