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 アスファルトの上でアルミ缶を引きずるような音が聞こえた。古くなった玄関の引き戸が開く音だ。続いて襖が開かれ、急激に流入した冷たい風は、部屋の中に漂う線香の濁りをかき混ぜる。
 見覚えはない。腰から九十度近く腰が曲がった女性が杖をついて部屋に入ってきた。亡くなった祖母の従姉にあたるらしい事を、後から母に聞いた。
 祖母が亡くなったのは週の半ばで、葬儀はちょうど土日に当たったため、仕事盛りの年齢に差し掛かった私の従兄弟達は全員集まり、孫世代ばかりが膨れ上がった葬儀だった。

 私には兄がいる。兄よりも年上の従兄は二人。私よりも年下の従妹が四人。従妹達は私と少し歳が離れていて、幼い頃の私は、兄と従兄と一緒に遊ぶ事が多かった。
 大抵夏休みに入ると、墓参りもかねて祖父母が住むこの家に集い、子供は山の中を探検したり、水深が深い滝壺に飛び込んで遊んだりしたものだ。
 私はもっぱら、みそっかす。従兄の光輝と光太、兄の三人は滝の上に並び、順々に飛び込む。私は浮き輪に入り込んだまま滝壺から離れた場所でぷかぷか浮いているだけで、彼らの遊ぶ様を羨まし気に見ていた。女一人は、どうしても大事にされがちなのだ。「ちぃは女だから危ないから」そう光輝が言えば、後の二人も無言で頷く。光太はむくれる私を見て、飛び込みが終わる度に平泳ぎで寄ってきて「ちぃもやりたいか」「ちぃは何してるんだ」「寒くないか」と声を掛けてくれた。私はそれが嬉しくて、光太が滝の上に立つのを心待ちにした。
 小さな身体が一瞬空に浮き、太陽を受けてキラリと光った背中は、一瞬で滝壺に飲み込まれる。そしてまた、光太は浮上し私の元へ寄ってくる。そして照りつける太陽を反射する水面をかき分けるように平泳ぎをして、再び滝へと向かっていく。
 光輝と兄は、長男同士でずっと連れ立って遊んでいた。私はどちらかというと光太と一緒にいる事が多かった。光太は当時人気だった女性アイドル歌手にそっくりな顔立ちをしていて、一緒に歩いていると姉妹に間違えられる事が何度かあったぐらいだ。五歳離れた光太の事を私は「ウタ」と呼び、ウタの手を握り、散歩し、木苺をとりに行ったり、隣に座って花火をしたりした。
 一年のうちで三日ぐらいしか会えないウタとの時間は貴重で、幼いながらも自分がウタに好意を抱いているという事を認識していた。もちろん私は、自分が通う幼稚園や小学校に好きな男の子がいた。だがウタは別格だった。子供心に、どんなに縋っても彼の隣でウエディングドレスを着る事はできないと分かっていても、やはりウタが好きだった。
 義母宅に遊びにいくと私はウタの部屋で、ウタのベッドの横に布団を敷いて寝た。六畳もない狭い部屋だったけれど、ウタとの距離が近い分には文句はなかった。一緒にお風呂に入っていたのは何歳までだったか。アルバムを開けば写真が残っているはずだ。私はウタが好きだった。ウタといられる、年に数日を楽しみにしていた。
 ウタの部屋に、洋楽のCDが並ぶ頃になって、私はそろそろ現実を見始めた。ウタは私の従兄だ。ウタにとって私は、妹みたいなものなのだ。
 そこから会う事がほとんどなくなり、そのうちウタは就職をし、幼馴染みと結婚をした。子供も生まれた。
 私は五年後、大学からの同級生と結婚をし、子供ができた。
 ウタが結婚したという話は、母から聞いた。
「へぇ、誰と」
 それぐらいしか聞く事はなかった。もう式は済ませたという事だったし、ウタが結婚したからといって自分の生活は何も変わりはしないのだ。
 変わった事と言えば、心のどこかで、小さなビー玉がひとつ、甲高い音を立てて割れた事ぐらいだ。もちろんそれには気付いていても、口に出す事はないし、誰かに言う事でもない。
 義母の家にはコウ兄が同居していて、遊びにいくと必ずコウ兄には会えるのだが、ウタは同じ県内でも隣接する市に住んでいて、わざわざウタに会いに行く事はしなかった。それに、ウタは建築士となり、仕事がもの凄く忙しいと言う事を母に聞かされていたから、ウタに会いにいく事なんて迷惑以外の何者でもないのだと思っていた。何しろ、奥さんがいるのだ。

 祖母の葬儀に来たウタは、背後から私の肩を叩き、振り向いた私の顔を見ると「やっぱりちぃだ」と言って笑った。目尻には笑い皺が刻まれている。「久しぶりだね」とぎこちなく返して私はそそくさと部屋の隅に座ってお茶汲みに徹した。
 ウタは、大広間の正面に座っている。喪服を着ているせいなのか、十数年も見ていないせいなのか、とても痩せたように見える。最後に会ったのはウタが中学生の頃なのだから、三十五歳になった今、ウタはそれなりに老けた。だけどやっぱり憧れのウタで、そこに彼が座っていると意識すると、動悸のような胸の痛みに苛まれる。
 椿の柄が入った茶碗に緑茶を注ぎ盆に載せ、ウタの座る席へと歩いた。ウタは少し離れた所から私の顔を見ていたけれど、それを意識すると私は顔を下に向けてしまって、ウタがずっと私を見ていたかどうかは分からない。
「運転おつかれさま」
 ウタの目の前に茶碗を置くと、立ち上る湯気の下で薄緑が揺れる。
「兄貴が運転してきたんだ。車が停まりきらないって話だったからさ」
 あぁ、と縁側の方へと目をやった。辺りは雪で覆われて、除雪されているのは道と民家の前だけ。車を止める場所を探すのにも一苦労な葬儀で、隣家の庭先にまで車を駐車させてもらっているらしい。私の母は脚が悪いため、車でここまで来た。父は新幹線の駅からこの家までの送迎役を買って出ていて、今もどこかの道を走っているのだろう、見当たらない。
「ちぃは幾つになった?」
 ウタの指で椿の花弁が一枚、隠れた。
「今年で三十。ウタは三十五でしょ。五つ違いだもんね」
 ウタは茶碗から口を離すと、少し苦笑いをして私の顔を見た。
「この歳でウタって呼ばれるのも何だかな」
 私も釣られて頬を緩め「お互い様だよ」と言って席を立った。

「千里、ちょっと」
 台所から母の声がしたので、私は小さく返事をしながら台所へ向かった。氷を張ったように床が冷たく、廊下にスリッパがないか探したが、終ぞ見つからないまま母の元へ行った。
「悪いんだけど、お茶菓子がもう何もないみたいなんだ」
「買い出し?」
 私の言葉に母は申し訳なさそうに頷く。右足が殆ど動かない母は杖がなくては歩けないし、そもそもこんなに雪が積もっていては、母に買い出しなんて任せられない。
「誰かの車、空いてるの?」
「それが今、全部出払っててさ」
 皆が自重して車で来ていないから、今日は車の台数が少ない。しかしこの集落にはなぜか小さな花屋が一軒あるだけで、スーパーも、コンビニすらもない。三つとなりの集落まで行く事になるが、現状歩いて行く外ない。
「兄ちゃんは?」
「煙草吸いに出て見当たらなくって」
 母は二本の指を口元に持って行く仕草をした。私はそれを見て小さく舌打ちをしたあとに、しまったと思って慌てて口を閉ざした。悪い癖だ。
「おばさん、俺も行こうか?」
 引き戸に架けられた暖簾をくぐって顔を出したのは、ウタだった。
「買い出しでしょ? ちぃ一人じゃ大変でしょ」
 私は意味もなくあたふたして、ウタと母の顔を交互に見比べながら何も言えないでいた。
「助かる、子供の飲み物も買って来ないとだから、じゃぁウタ君も一緒に行ってくれる?」
 ウタは母が書いたメモを受け取り「ちぃ、上着は?」と私の顔を覗き込む。ひゅっと喉の奥に冷たい空気が突き刺さるような息をして、それを跳ね返すように「持ってくる」と声を飛ばした。