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11

 移動教室があると気が休まるのだが、次の授業は必修科目の英語で、移動がない。とにかくあの集団の言葉を聞いていたくなくて、清香は教科書とノートを机に用意すると、トイレに立った。
 鏡に映った自分の顔は、酷くやつれていた。あの集団に関わらないようにしようと思っても、同じ室内にいるかぎり、声は聞こえてくる。聞かないようにしても聞こえてしまう耳の機構は不便だとさえ思う。頬を二度叩いて、教室に戻った。

 席に着き、異変に気付いた。机に置いてあった筈の教科書が消えている。首を傾げ、机の中に入っている教科書類を全て出してみるも、そこに英語の教科書はない。手の平に嫌な汗をかく。後ろから、クスクスと笑う声が聞こえてくる。窓が開いているのか、すーっと風が吹き込んでくる。
「浮いてる?」「浮いてる。秀雄コントロールいいね」
 池に何かが浮いているのは、彼らの会話から想像できる。何が浮いているか、も。
 震える手を握り、俯く。思いがけず瞳を覆う涙は、瞬きをすると落下すると思い、瞬きを堪える。
 すっと横を通った優斗が、清香の机に薄汚れた英語の教科書を置き、教室を出て行った。教科書には白い紙が挟まっていて、教科書の裏を見ると、「町田優斗」と名前が書かれている。紙には「分かりやすように線とかひいといて」と優斗の乱暴な文字で書いてある。
 すぐに英語の教師が入室してきて、日直が号令をかけると、出席を取りはじめた。
「なんだ、町田はさぼりか」
 優斗が出て行ったドアの方に目をやると、圭司と目が合ってしまい、どちらからともなく視線を外す。
 授業が始まって十分程して、教室の後方のドアが開き、優斗が入ってきた。教師に咎められると「教科書借りに行ってた」と言って席に着く。何となく、今起こっている出来事が飲み込めてくる。清香は授業のポイントポイントを教科書に丁寧にメモ書きし、少しでも優斗に恩返しが出来るようにした。優斗の教科書は、外見こそ薄汚れているけれど、授業ではろくに開いていないのだろう、中は奇麗なままで、そこにペンを滑らせる。

 放課後、優斗が清香の席まで英語の教科書を持って歩いてきた。「ん」と手渡された教科書は、水に濡れて重くなっている。清香は机の中から優斗の教科書を取り出し「ありがとう」と言って引き換えた。ありがとう、の一言で済ませたくなかったが、それ以上の言葉が思いつかず、下唇を噛んで言葉を探す。
「今日、圭司に電話させるから。まぁ、あんまりいい知らせじゃないけど、もう分かってるから、いいっしょ」
 歪んだ優斗の笑顔に、清香も必死に笑顔を刻もうとするけれど、目尻に滲んでくる涙が抑えられなくて俯く。
 視界の端を、圭司と留美が鞄を持って下校して行く姿が掠めるが、もう、どうでも良くなった。そんな事はどうでも良い。
 いつでも優しく笑い掛けてくれるはずの優斗が、必死に作ったような歪んだ笑顔をみせる事の方が、今の清香にはよっぽど苦しく、痛く、堪えた。

 携帯の着信に、一つ大きな溜め息を吐いて、通話ボタンを押した。そのままベッドに寝そべる。
『清香?』
「うん」
『別れて欲しい』
 清香は再び溜め息を吐き、そして口を開く。
「留美とキスしたって、本当?」
 優斗が嘘をつく訳がないから、この返事は分かっている。しかし当事者から聞いておきたかった。何事もなかったかのように清香の身体の心配し、肩に腕を回した留美が、許せないからだ。
『本当だよ』
 それで十分だった。電話の向こうで圭司が何か言うのが聞こえたけれど、清香は一方的に電話を切った。

 翌朝、登校するとすぐ圭司の机に、裏ボタンを置き、それから自席についた。
 卒業する時に第二ボタンに引き換えると言っていた裏ボタン。あっという間に返却する事になるとは思ってもみなかった。あのボタンは留美の手に渡るのだろうか。
 いつも通り、優斗は登校するなり清香の席の前にしゃがんだ。
「昨日、電話掛かってきた?」
 清香は無言で頷き「全部終わったから、もう私の事、気遣わないでいいから」と笑ってみせた。
「顔、引きつってますけど。あと、別に気なんて遣ってないから、俺」
 肩をぽんと叩かれ、優斗は自席に向かって行く。後ろの方で「またあいつと喋ってたのー?」と咲に糾弾され、それでもへらりとかわしている優斗の真意が分からない。自分と関わっていたって良い事なんて一つもないのに、と清香は首を傾げる。
 後ろから歩いてきた留美が、通り様に清香の机に紙切れを置いて行った。罵詈雑言でも書いてあるのだろうと思い、広げてみる。
「中休み、渡り廊下に来て」

 教科書類は全て机にしまって、中休み、渡り廊下へ向かう。まだ少し暖かい秋の日差しが差し込んで、窓ガラスから半透明の線が何本も走っている。
「清香」
 留美と幸恵が並んで歩いてくる。今度は何だ、と清香は身構える。二人は清香の前に立つと、体裁が悪そうな顔で目を伏せている。初めに口を開いたのは留美だった。
「あのさ、まずは圭司の事、ごめん。もう別れたから」
 清香は留美をちらりと見て、ふぅん、と声を漏らす。
「それと、無視したり、色々酷い事言って、ごめん。咲に逆らえなくて」
 それもふぅん、と返す。話にならない、と思い清香は額に手の平を押し付け、身体の中身を押し出すような気持ちで口を開く。
「あのさぁ、咲に逆らえないなら、逆らわなければいいじゃん。どうしてこうやって、自分は悪くないよって、こそこそ言い訳しにくるの? 咲より質が悪いよ、こういうの」
 二人は「ごめん」と揃ったように言い、留美に至っては整った顔を歪めて涙まで流し始める。
「泣かれても、今されてる嫌がらせの数々を許す気はないし、今後君達二人と仲良くする気もないし、圭司の事も、どうでもいいし。本当に心から悪いと思ってるなら、咲と手、切ってから謝ったら?」
 二人からの返答はなく、清香はわざとらしく溜め息を吐くと、二人をそこに残して教室へ戻った。後から、涙を流しながら留美が教室に入ってくるのを見て、清香は胸の中にどろりとした気味の悪い物が湧く感じがした。偽善者は大嫌いだ、とでも言ってやるべきだったと清香は思う。


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