あっという間に2月に入った。特別論文の発表会は無事終わり、あとは国家試験に向けた勉強のラストスパートという所だ。
特論が終了した事で、放課後の教室は静けさを取り戻した。私は教室での勉強再開した。大概レイちゃんと一緒に、時々レイちゃんが仲良くしているグループの子も混じった。勿論レイちゃんの机にはコーラの缶、だ。土日は市立図書館で勉強した。これも大抵レイちゃんと一緒。図書館で勉強後、ファストフード店でお茶をした。
「彼とは会わないようにしてるんだっけ?」
電話の一件以来、ユウからメールが来なくなった。私からも敢えて連絡を取ろうとはしなかった。言い訳も思いつかないし、言い訳して済む話でもない。この処理は、試験が終わってからにしよう。
「うん、国家試験終わるまではね。気を遣わせたくないし、何しろ勉強不足だし」
それこそレイちゃんに気を遣わせないように、ユウの話は黙っていた。
珍しくコーラではなくホットコーヒーを飲んでいるレイちゃんは、深夜まで勉強をしているので眠くて仕方がないという。
過去問を解いたところで私の正答率は5割強。このままでは不合格となってしまう。県立だから安いとは言え、3年間学費を払ってくれた親の為にも、国家試験はパスしたいところなのだ。
「うちらなんて、国家試験に受かろうが落ちようが、就職には関係ないのにね。落ちるのは癪に障るよね」
「確かに。是が非でも受かってやろうぜ、レイちゃんよぅ」
互いのホットコーヒーで乾杯をした。琥珀色の液体がちゃぽんと跳ねる。
「合格発表は4月に入ってからって言ってたよね。わっけわかんないよね、この試験制度」
レイちゃんが言う。2月に受けた試験の結果は、4月に分かる。それまでは学校で仮採点を行い、6割を完全に超えていれば安心、完全に下回っていれば覚悟を、6割前後の人間は4月までドキドキ、という事だ。
「国家試験が終わって、仮採点までやったら、1人暮らしの話、親に話してみるんだ」
「そっか。そしたらミキちゃんの新居に遊びに行くのは、就職してからになりそうだね」
レイちゃんは3月の卒業式を終えたら、静岡へと引っ越すのだ。
「そうだね、ユウやらサトルさんの方が来るの先かも」
「ミキちゃんさ――国家試験の事彼らの事、同じぐらい頭の中にあるでしょう?」
片側の眉だけをあげて「どうでしょ」と曖昧に答えた。
図星だった。もうすぐバレンタインデーだ。国家試験のドサクサでクラスの誰も話題にしようとしないが、私はサトルさんにプレゼントを渡したいと思っている。まるで頭の中は中学生、青春真っ只中と言ったところか。
しかし、国家試験の直前だ。たった1日だけど、もし不合格だった時に「あの一日を勉強に充てていれば――」なんて後悔をしかねない。
がらんとした教室は冷える。一応暖房は入っているが、窓際にあり、しかし窓際に座ると隙間風に攻撃される。これだから古い学校は――。
それでも自宅にいるよりは捗るので、寒さに耐えながら過去問題集を貪るように解いていた。やっと正答率が6割に届くようになってきた。もう少し頑張れば、安全ラインに乗れる。
週末を挟んで、国家試験当日を迎える。自由登校となった学校に登校してくる級友は殆どおらず、教室にはレイちゃんと私と、離れた所に座るタキのグループを含め6人が座っていた。
過去問を解きながら、もし不合格だったらどうしようかなぁなどと、不吉な事を考えていた。次年度に再受験できるらしい。しかし、就職して本格的に仕事をしながら、試験勉強なんて絶対に出来ない。もし今年合格出来なかったら、親に土下座だな。
そんな事を考えている今この瞬間にも、まじめに問題を解けばいいものを、次はユウの事を考える。家庭教師だなんて、まず信用してないだろう。それを証拠に、連絡をしてこなくなったではないか。試験が終わったら何て詫びよう。いや、詫びて許してくれるんだろうか。何事もなかったように「試験終わったよー」ってメールしたら、返信は来るんだろうか。
そしてサトルさんの事を考える。ユウからの電話を切った後、「彼から電話?」と訊かれた。会わないと約束していたと話すと、サトルさんは難しい顔をしていた。「何か悪い事をしたなぁ」と。いや、悪い事してるの、私だから。サトルさんを振り向かせるのに必死で、少しでも脈が無いか探って、ユウをおざなりにしてるの、私だから。
あぁぁぁぁぁぁっ、もう、集中できない。
マナーモードにしてある携帯のLEDが2回点滅した。メールだ。
『どうも、家庭教師のお兄さんです。
勉強頑張ってる所かな。邪魔になったらごめんよ。その後、彼とどうしたかと心配しています。仲直りしたかな。
俺は、3月で仕事を辞めて、実家の長野に一旦戻るつもりでいます。それまでに逢えたらと思っています。では』
会いたいな、と思った。逢いたいな、と思った。メールをくれる時は大抵、仕事が休みの日だ。次の瞬間には返信をしていた。
『今から行ってもいいですか?』
「レイちゃんごめん、私、ちょっと行くわ」
シャーペンを走らせる手を止めて、ばたばたと資料をしまう私を見ながら言った。
「え、どこに?」
「ん、ちょっと。友達のとこ」
ばつが悪そうに答える。
「顔に出てるよ、ミキちゃん」
苦笑いしながらひらりと手を振って教室を後にした。「帰るの?」とタキの声も聞こえたが、きっとレイちゃんが説明してくれるだろう。次に会うのは試験会場だ。
電車が各駅に停車する時間が、とても長く感じる。早く発車しろ。1分1秒でも早く、サトルさんに逢いたいんだから。ヘッドフォンから流れるパンクミュージックがかき消されるぐらい、心臓の鼓動が大きい。どうしたんだろう、何を焦ってるんだろう。
乗換駅にある小さな雑貨屋さんで、ブリキで出来たロボットの置物を買った。勿論、プレゼント用に包装も忘れずに。丁寧に包装を施す店員さんの手元をじれったく見ていた。
最寄駅からは殆ど走っていた。2月だというのに汗ばんでしまい、途中でマフラーを外す。ヘッドフォンのコードに絡まってしまったけど、そのまま手でくしゃっと持って歩いた。長野に帰るだって?仕事を辞める?
「突然ごめんなさいっ」
玄関が開くなりこんな事を言ったのでサトルさんは笑って答えた。
「いきなり謝らなくたっていいよぉ、どうぞどうぞ入って。寒かったでしょ」
呼吸が乱れる程走って来た私は、全然寒くなかったのだけど。
「何か――何か急に、顔が見たくなって――来てしまったよ」
ブーツを脱ぎながら下を向いて顔を見られないように言った。ふふっと笑いながら頭を撫でられた。
「こういう時もあんまり、女の子っぽい喋り方しないんだね」
「うん、ボーカロイドが喋ってるよりも抑揚ないよね。ロボだと思ってよ」
部屋に入ると、いくつか段ボールが置いてあった。
「もう引っ越しの準備、してるの?」
「うん、まぁ引っ越しは来月なんだけど、使わないものは先に実家に送っちゃおうと思って」
袋に包まれたスノーボードが壁に立てかけてあった。その手前には段ボールが4箱。
「あ、これ。バレンタインには2日ほど遅くなったけど、引っ越しの時に荷物になるほどの大きさではないと思うので良かったらどーぞ」
バレンタインの装飾には間に合わなかった、プレゼント用の包装がなされたプレゼントを渡した。「わぁ、ありがとう」と言ってサトルさんは過剰包装を一つずつ丁寧に解いていった。
「おお、ロボットだねぇ。タイムリーだねぇ」
「そうだね、ロボだね。そいつは喋らないけど」
ジャケットを脱いで、鞄と共に部屋の隅に置いた。
「座ってよ」
今日もまた自称「地球にやさしい男」は、エアコンから排出される暖かい空気にあたりながら、雑誌を読んでいたらしい。その場所を指さし、座るよう促された。
一度はそこに座ったが、まだ汗が引ききらない熱のこもった身体には暑過ぎるので、エアコンの風を避けるように座りなおした。鞄から一冊ノートを取り出し、うちわ代わりにして扇ぐ。どこのオヤジだ。
台所の換気扇の下で煙草を1本吸ったサトルさんがこちらへやってきて、私の対面に座った。
「その後、彼から連絡は?」
「ないよ。ぱたりとなくなった」
汗が引いてきた。ノートを鞄にしまう。
「そうか、何か責任を感じるなあ」
そう言ってサトルさんは、二人の間に置いてあったサッカーの雑誌を除けて、私の膝に近づいて座りなおした。
「仕方ないんだ。あの日は私が出しゃばって押しかけちゃったし、彼には会えないって言っておいて、サトルさんとは会ってた訳だから、そういう選択をした私が、悪い」
サトルさんは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうやって、全部自分が悪いって思わないで良いんだよ。色んなタイミングが組み合わさって、人生って進んでいくんだから。たまたま俺がいるタイミングで彼から電話が掛かってきた。タイミング悪く俺の声が聞こえてしまった。そうじゃなくても、もしかしたら今日このタイミングで彼から電話が来ていたかもしれないしね。そして同じように俺の声を聞かれていたかもしれない」
「――そう、だね」
それでも私は自分が悪いと思っている。当たり前だ。自分の事を想ってくれている人を放っておいて、他の人を振り向かせようと躍起になって。振り向いてくれるかどうかも分からないのに。
「それで今日は?どうしたの?」
頭を撫でられたまま項垂れていた私の顔を覗き込むように、サトルさんが訊いた。今日は、サトルさんからのメールを読んで、そして――
「実家に、仕事辞めて実家に戻るって書いてあったから。会わなきゃって思ったんだ」
「別に今日の明日引っ越すわけじゃないよ」
ハハッと笑って言った。それはそうなんだけど。
「会えない距離じゃないし、別に外国に行くわけじゃないしさ」
そうだよ。時間はかかるけど電車で会いに行く事は出来る。サトルさんにその気があれば、横浜に来て貰う事だってできるかも知れない。だけど今までだって、そう近い距離ではなかったのに、さらに遠くなるなんて、私にとっては外国に行ってしまうぐらいの気持ちなんだ。
「何か、もう会えなくなるような気がしちゃったから。こうやって、急に会いたいと思っても、そう簡単に会える距離じゃないじゃん。そう考えたら何か身体が勝手にうごっ――」
鼻の奥がツンとして、視界が揺れて、涙が落ちた。あれ、泣いてる。デニムが深い群青色の水玉を作っていく。
サトルさんは私の頭をそっと自分の胸へと抱き寄せ、私の背中をさすった。
「大丈夫だって。横浜と長野だよ。それに、一度は実家に戻るけど、仕事の都合で東京に戻るかもしれないし、まだ分からないよ。だから俺の事で泣かないで。その涙は試験に受かった時の嬉し泣きにとっておきなよ」
背中に触れるサトルさんの手が温かく、大きく、優しい。抱きしめる腕が、暖かく、大きく、優しい。煙草の匂い。ずっと感じていたい。
「私、サトルさんの事ずっと――」
好きだった。言いかけて止めた。拒否されたらこの温もりから離れなければならない。それこそもう二度と、会えなくなるかもしれない。またあの「喪失感」を味わわなければならない。あんなのはもう、後免だ。
「――ずっと、大切な人だと思ってるから」
私を抱く腕に少し力が入る。
「嬉しいよ。そう言ってくれて。俺も例の『男友達』と並ぶ事が出来たんだね」
そう言うと、私の顎を長い指で引き寄せてキスをした。
『男友達』と言った後でこれかい――と思ったけど、嬉しい。
もう一度抱き寄せられ、耳元で「つながりたいな。いい?」と言われた。
私はキスで返事をした。
今日は前よりずっとずっと長く、優しいセックスをした。このまま時が止まればいいと思った。
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