inserted by FC2 system


―十三― 久野智樹

「話って何」
 これから話す事について、それとなく想像がついていながらも、俺に不満げな顔をぶつける理恵は、少しも綺麗じゃなかった。高等部一を誇った美貌は、そこには存在しない。そんな顔をさせている張本人は俺であると思うと、申し訳なくも感じる。
 短大まで足を運ぶ、と俺は言ったが、理恵は「智樹の大学に行く」と言って聞き入れなかった。結局、サークルの部室に招く事になった。
 幸い、至は講義内容の確認で少し遅くなると言うし、塁もまだ来ていなかった。逆に塁だけでも居てくれたら、少し話しやすかったかも知れない。
 二人向かい合って立っていた。こんな風に向き合ったのは、いつ振りだろうか。長く話し込みたくなかったから椅子は勧めなかった。沈黙を破ろうと口を開く。
「悪い、もう理恵とは付き合っていけない」
 俯いていた顔をパッとあげて、理恵と目線を合わせた。彼女の瞳は、小刻みに揺れている。
「何なの、それ。何の冗談? 何の不満があるの?」
 ブランド物の鞄を持つ手が震えている。ぎゅっと握りしめ過ぎて、手指の色が真っ白になっている。
「好きな人が出来た」
 端的に言った。的を射た言葉だった。理恵の、手指だけではない、顔までもが蒼白になる。
「私より上を行く女って、誰なの」
 理恵は涙目になっている。これ以上彼女を傷付けたくなかった。それでも、諦めてもらうためには正直に話すしかない。
「理恵とは正反対の女だ。地味で、照れ屋で、引っ込み思案で、自分の事より他人の事を優先して、全く目立つ事が無い、普通の女性だ」
 訳が分からないと言う態で、彼女は首を左右に降っている。今にも発狂しそうに歪んだ顔に、俺は戸惑う。
 ドアが軋む音がし、そこから静かに顔を出したのは、君枝ちゃんだった。
 ドアのすぐ傍にいた理恵を見上げ、ハッと息を飲んだ空気を感じ取る。
「あ、あの、私、外で待ってます」
 そう言って部屋を出て行こうとする。
「いいよ、もう終わるから」
 彼女の小さな背中に向けて声を掛けた。彼女はその場で足を止める。
 理恵は顔面蒼白のまま後ろを向いて、君枝ちゃんに鋭い視線を向けると「この子?」と俺を睨みつける。俺は首を傾げて曖昧に対処した。
 薄手の上着を翻した理恵は、ピンヒールの音を響かせて部室を後にした。

「彼女、だよね?」
 理恵が出て行った後の部室には、強い香水の匂いが最後の悪足掻きをした。固い空気の中、君枝ちゃんはパイプ椅子を組み立てると、遠慮がちに視線を寄越す。俺はそこから逸らした視線を、絡ませた指に落とし、やり過ごす事にした。
「うん、もう彼女じゃなくなったけどね」
 暫く沈黙があり、君枝ちゃんも理解したらしい。俺と理恵が別れ話をしていた事を。
「何で、あんな素敵な人と別れたの?」
 随分スマートな質問に一瞬面食らい、俺は自嘲気味な笑みを零した。素敵な人、とは一体どんな人間を指すのか。君枝ちゃんはそれを分かっているのか。
「見た目は確かに素敵だよ。ただ、中身がそれに伴う訳じゃないって事だよ」
 君枝ちゃんは拳に顎を乗せて唸っている。
 乱暴にドアを開けた主は、塁だった。
「おぉ、今日は珍しいお二人さんで」
 塁は、俺と君枝ちゃんの顔を交互に見て歪な笑顔を向けたが、その歪さの所以はよく分からなかった。時々この表情を俺にむけるのだが、意図が不明だ。
 状況を邪推される前に先手を打つ。
「理恵と別れた」
 そう言うと、塁は暫く身動きが取れない様子を見せた。
「な、んで――」
 絞り出すのが精一杯なのであろう、言葉にならない音が、塁の口から漏れ出す。
「好きな人が出来た」
 この事実は君枝ちゃんも初耳だった筈で、二人して目を丸くしている。君枝ちゃんは手の平で口を覆っている。まるでこの世の酸素の最後の一掴みを口にした時の様に。
 塁は「そっか」と、驚いた瞬間とは裏腹に冷たく一言を吐くと、おもむろに鞄からスケッチブックを取り出し、パイプ椅子に腰掛ける。いつものように机に脚を投げ出し「矢部君」と呼び掛けた。彼女は「は?」と小さく疑問を投げる。
「そこに座りなさい」
 塁が、目の前にあるパイプ椅子を指差すと、君枝ちゃんは「あ、あたし?」と戸惑いながらも椅子に腰掛け、塁の方を向いた。
「別に動いてもいいから、ずっと顔をこっちに向けてなさい」
 そう言い置くと、返事も待たず鉛筆で何やら描き始めた。

 塁はこうして絵を描く事によって君枝ちゃんとの接点が持てる。俺は特筆して接点が無い。共通の話題がない。
 まぁこれから四年かけて、作っていけばいい話なのだが、俺は野球ばかりしていたせいで、話題性に欠けるのだ。塁に遅れをとっていることが悔しく、もどかしい。