―十四―　矢部君枝 　部室のドアを隔てて、聞き慣れない女性の声が聞こえる。 　その後に聞こえてきたのは、智樹くんの声だった。 「理恵とは正反対の女だ。地味で、照れ屋で、引っ込み思案で、自分の事より人の事を優先して、全く目立つ事が無い、普通の女性だ」 　何の話をしているのか、誰と話しているのか、状況が掴めずにいた。しかし、ドアを出て行く彼女の、化物でも睨みつけるような顔、「好きな人が出来た」と言う智樹くんの言葉に、いくら鈍感だとしても察する。 　別れ話。智樹君には好きな人ができた。その特徴をつぶさに聴いてしまって私は思わず口を塞いだ。 　塁に、デッサンのモデルにされた事で、その話は途切れた。胸を撫で下ろした私はやっと、自由に呼吸が出来た。 　塁がデッサンをしている間に、至くんと拓美ちゃんが時を同じくして部室へ入ってきた。「拓美ちゃんと一緒になるなんて運命だよ！」とおめでたく叫んでいる。至くんは、幸せな人だなあとしみじみ思う。こういう人は、幸せを呼び込みやすいのではないかと、自分が卑屈に思えてくる。 　智樹くんと彼女の間に起こった事を聴いて、至君も驚いていた。しかし「好きな人が出来た」という話に何か心当たりがあるのか、それ以上突っ込まず、そのまま黙って塁のデッサンを見ている。 「すげぇなぁ、おい」 　塁の後ろで腕組みをしてデッサンを見ていた至君が、何度も声をあげた。モデルになっている私にはそれが見えない。 　塁は、私の瞳が描きたいと言っていた。私が、男の人の強さ、強引さを目の前にした時に見せる、風変わりな瞳を。私自身、意識した事がなかったから、デッサンの仕上がりには期待をした。 「ダメだ」 　塁はその場に鉛筆を落とした。乾いた音が床を転がる。 「何がダメなんだよ、すげぇ、写真みたいじゃんか」 　至君が興奮して塁からデッサンを奪い取り「ほら」と待機していた皆に見せると「おぉ！」と歓声が上がる。勿論私もその中に加わった。 　しかし、駄目だという事は、あの瞳が、描けなかったのだろう。塁は額に手を当てて、天を仰ぎ見ている。至君も智樹君も拓美ちゃんも、スケッチブックの周囲を取り囲み、ああでもない、こうでもないと盛り上がっている。 　私は塁の隣に立ち、小さく声を掛けた。 「瞳、描けなかったのかぁ」 　天を仰ぎ見ていた塁は私に目線を移すと、目を伏せて少し笑った。いつもの童顔が、何処か少し大人びて見える。 「目の前にあるものしか描けないんじゃ、俺はまだまだだ」 　机から脚をおろし、肩をぐるぐる回し、外を見遣る彼の視線を追った。 「降りそうだな」 　空を黒い雲が覆い始めている。今年の梅雨は例年に比べて雨が多い。 「矢部君、傘持ってる？」 　少し頭を巡らせ「ああ、折り畳みなら確か」と朧気な言葉を零す。部室の私物置き場の奥から、薄桃色の折り畳み傘を見つけ出した。 　時を同じくして、ポタポタと、庇に雨粒が当たる音がし始める。 「降って来たなあ」 　至君が顔を顰めると拓美ちゃんが「至君、傘は？」と訊ねている。 　薄桃色の傘を手に突っ立っていると、塁がスケッチブックを仕舞いながら「矢部君、相合傘して帰ろ」と言う。私はさっと頬が上気した。男が苦手だと言っているのに、塁は――。私のリハビリに付き合ってくれているつもりなのだろうか。 　結局、至君は念願叶って拓美ちゃんの傘の下に入れて貰い、用意の良い智樹君は紺色の折り畳み傘に、私と塁は薄桃色の傘の下に入った。 「塁は俺の傘に入れよ」 　智樹君が少し口を尖らせて言ったが「智樹は駅まで行かないだろ」と私の横からどかなかった。智樹君は学校からそう遠くない家に住んでいるから途中で道を外れる。もごもごと何かを言う智樹君の背中に向けて、塁が舌を出した。