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10

 休日を挟んだ今日も、出社する足取りは重かった。今日も何かあるかもしれない。中学の同級生、嵯峨さんの気持ちが痛い程よく分かる。片倉さんも、もしかしたら同じ状況だったのかもしれないと思うと、彼女にコンタクトをとってみようかとも考える。
「おはようございます」
 恐る恐る足を踏み入れ、真っ先に自分の机に目をやる。何も置いていない。ひとまず安心し、「在室中」のマグネットを貼る。ホワイトボードの下には他部署から個人に宛てた書類が入れられる、腰高の棚がある。そこの自分の引き出しに、A4サイズの封筒が入れられていた。差出人は不明だったが、宛先は「総務部 松下楓殿」と表記されていた。
 誰からだろうかと不思議に思いながら封を開けた。中にはA4サイズの白い紙が一枚、入っているのが見える。そっと取り出す。その瞬間後ろから「おはよう」と黒谷君に声をかけられ、私は紙から視線を外し「おはよう」と応える。
 再び紙に目を戻すと、最上段に「松下楓」と印字されている。これだけで十分、不快だ。他部署からの書類で、呼び捨て記載の筈がないのだ。つつ、と紙を引き出すと、ぐっと喉が詰まったような感覚に襲われ、うまく唾液が飲み込めない。
 そこに書かれているのは、思いつくままにタイピングしたと思われる罵詈雑言の数々。泥棒猫、牝狐、死ね、消えろ、黒谷から手を引け、殺す、いい気になるな、自殺しろ。読むのも憚られる程の言葉の数々が、A4用紙をびっちり埋めている。勿論、パソコンで打ったものだから、筆跡などの手がかりは皆無だ。
「何それ」  紙を埋め尽くす真っ黒な文字を見た黒谷君が顔を寄せる。思わず紙を隠す。
「また何かされたの?」
 楓ちゃんを守ってあげるから。そう、彼は言っていた。私は握りしめて端が折れてしまったA4用紙を、おずおずと彼に差し出した。
「え......」
 彼は目を見開いて絶句した。一字一句逃さず、読んでいるらしかった。私はだんだんと血の気が引いていく感覚を覚え、机を支えにして立ち上がると、お手洗いに向かった。胸を締め付けるような苦しさは私から酸素を奪い、目の前が真っ青に染まる。一瞬、膝がカクリと折れたような気がして、そこから意識がなくなった。

 目が覚めると医務室のベッドの上にいた。半身を起こすと、産業医が机に向かっていた身体をこちらへ向けた。
「気がつきましたか。廊下で倒れてるのを添島さんという方が見つけてくれてね」
 その名前を聞くと再び喉元に不愉快な固まりが詰まった。
「あの、もう大丈夫なので。仕事に戻ります」
 そう言ってベッドの下に足を下ろす。歩く事はできそうだ。
「調子悪いなと思ったら医務室に来るんでも、早退するんでもいいから、無理しないでくださいね」
 背中に掛けられた声に、私は「はい」と消え入るような返事をした。恐らく産業医の耳には届かなかっただろう。

 居室に戻るとすぐ、黒谷君が「大丈夫?」と心配そうな声を掛けてくれたが、それより先に目が合ったのは添島さんだった。彼女の席まで歩いていく。
「大丈夫?」
 心配そうというよりは、怪訝気な顔で私の顔色を伺う彼女に、軽く吐き気がした。
「倒れてるの見つけてくれたみたいで、ありがとう」
 全く感情が乗らないその声に自分でも驚きつつ、踵を返した。
「これ」
 戸惑ったように手に封筒を持つ黒谷君に、引きつった笑顔で「うん」と言って封筒を受け取った。封筒ごとシュレッダーにかけると、席に戻った。
「いつまで我慢するつもり?」
 黒谷君は小声で訊ねるので、私は暫く無言で考え込んだ。
「何が、したいのかな」  ぽつり、と零すと黒谷君が「ちょっと」と私の手を引いた。そのまま廊下に出て、隣の会議室に入った。
 唐突に、抱きしめられた。背の高い黒谷君に包まれるようにして、私は彼に体を預けた。
「私、悪い事してるのかな」
 彼の胸の中でくぐもった自分の声を耳にする。
「俺は楓ちゃんの味方だから。こんな子供みたいな嫌がらせ、気にするな」
 そう言って私の背中を擦ってくれるのだが、不快感が拭えない。「黒谷から手を引け」「泥棒猫」「いい気になるな」言われても仕方がない言葉も書かれているのだ。全てを「子供のような嫌がらせ」で片付け、無視しておく事が、私にはできなかった。
「やっぱり黒谷君とは一緒にいない方が」
「楓ちゃん! 俺は楓ちゃんを守りたいんだ。だからそんな風に考えないで」
 私の言葉を遮った黒谷君は、抱きしめる腕を更に強くした。私は身体に力が入らず、まるで人形のように身体をしならせていた。