4 男の気遣い 久々に私も高橋君も内勤の水曜日。 「おはよう」という高橋君の声に、マウスを持たない左手をヒラリと挙げて応えた。 「忙しそうじゃん、この前の案件?」 「ん、そう。分析の誤差が酷いみたいで、メールでクレーム来てた」 カタカタ、とキーボードを打つ。 「代理店は板挟みになって辛いねぇ」 そう言うと、高橋君は鞄から煙草を取り出し、「俺に出来る事があったら言えよ」と言い残して、喫煙所に向かった。 戻ってきた高橋君から、微かに煙草の匂いがした。 元夫もヘビースモーカーだった。 何となく、重ね合わせてしまう自分が憎らしかった。 「あの、この前さ、藤の木で煙草、我慢してた?」 気にしていた事を切り出した。高橋君はPCのモニタから目を外し、言った。 「ああ、一応な。食事の場だし。沢田、煙草吸わないだろ。それが何?」 やはり、気を遣っていたのか。 「そう言うの、イイから。気を遣わないで。私は煙草吸わないけど、煙草を吸う男の人って、色気があって、そのぉセクシーだから見てて飽きない」 「どこに目ぇ付けてんだよ」呆れたような顔でこちらを見ていた。 私は、私にしては随分とストレートな発言をしてしまい、頬を赤らめた。悟られないように、PCの画面だけを見て、仕事に集中した。 クレームが一段落した6月下旬、また高橋君に呑みに誘われた。この日も金曜日だった。 金曜は取引先である研究機関や大学の研究室が仕事を収束させるために、私達は外勤が減り、内勤が増える。 カレンダーに赤字で「呑み」と赤字で書き込んだ。浮き上がったその字を見て、少しワクワクした。 この気持ちはどこからくるものなのか、この時点では定かではなかった。 木曜日、中田さんからメールが来た。 『こんにちは。先日は急に話しかけてごめんね。よかったら今度の土曜あたり、お茶しない?私の家の近くにオシャレなカフェがあるんだ。甘いものが苦手じゃなければ、是非。 あ、お仕事なんかで忙しくなければね。では返信待ってます』 お茶だって。お茶。女友達と最後にお茶をしたのはいつだ。 お茶するような友達がいるか? そんな事を考えながら、『私で良ければ』と返した。 今週の土曜、ランチを食べに行く事に決まった。 オシャレなカフェってどんなだろう。お店を前持って調べる事はしなかった。理由?そりゃ、面倒だから。 ベッドに寝そべって、読みかけの本と、家事の合間に開けた飲みかけのビールで夜を過ごした。 開け放った窓から入りこむ、雨が降る前のような青臭い匂いがする風が好きだ。 肺一杯に、その風を送り込む。 金曜日、書類仕事に手間取ったわたしに高橋君は助け舟を出してくれ、7時には業務を終えた。2人並んで藤の木へ向かった。 「暑いなぁ」歩きながらそう呟き、長い黒髪をひとつに束ね、結わいた。 「そのヘアスタイルも、いいな。うなじが堪んねぇ」 どこのオヤジだよ、と一喝し、藤の木の暖簾をくぐった。 大将は先日と同じように、歯を見せてニカーッと笑い、女将さんはカウンタ席の隅を勧めてくれた。 「じゃ、お言葉に甘えて、煙草、吸うから」 そう言って胸ポケットからライターを取り出した。 無骨なライターには似つかわしくない、女性もののストラップが、そこにはぶら下がっていた。 それを手にとって聞いた 「このストラップは彼女から?」 明らかに耳まで赤く染めた高橋君は、私からライターを分捕ると「勝手に付けられた」とちょっと不機嫌な顔をした。 「勝手にィ?またまた、携帯だけでは飽き足らず、俺の持ち物全てに彼女の痕跡を、ってかぁ?」 ニンマリと笑うと、高橋君の顔は不機嫌そうな顔からしょっぱい笑顔に変わった。 「そんなんじゃねぇよ。俺は携帯にストラップなんてつけない主義だから」 ほれ、と黒いスマートフォンを目の前に出した。本当だ、ストラップがない。 そう言えば、社用に使うグレーの携帯しか見た事が無かった。私用の携帯はスマートフォンなのか。番号も、メールアドレスも、知らないや。ま、面倒臭いし、いいか。 「お前のはどんなんだよ」 「私もスマホだよ」 ストラップには、毎年行っている野外ロックフェスのリストバンドが付けてある。 「ストラップ代わりのリストバンドだよ」 「え、お前フェスとか行くんだ。何聞くの?」 私の趣味といえるのが読書と音楽。音楽はパンク、ロック、エレクトロ、洋楽邦楽、あらゆる方面を聴く。元夫とも、この趣味が高じて付き合いだした訳だ。 大体最近聴いてるのは――なんて話をしたら、高橋君が目を輝かせた。 「俺もスゲェ聴くよ、そういうの。何だ、結構共通点あんのな」 え、音楽以外にあったっけ――思い出すのも面倒で、適当にヘラヘラ笑った。 それから暫くは、音楽の話に花が咲いた。 お酒もいいペースで進んだ。 高橋君は、酔って陽気にはなるけれど、酔いつぶれたりする事はなさそうだ。 私も同じような物だ。 そして煙草もよく吸う。話が替わると吸っていた煙草をガラスの灰皿に押し付け、新しい1本に火を点ける。とても旨そうに、目を細めて吸う。 空気の揺れで、煙草の煙が私に向かいそうになると、逆の手に持ち替えて煙をこちらへ寄こさないように配慮してくれる。とてもできた人だ。 話が途切れた所で、また新しい煙草に火をつけた。 ストラップがついた無骨なライターがテーブルに置かれる。 女性ものの、綺麗なビーズをあしらったストラップ。 考えてみれば、彼女からのプレゼントだとしたら、男物の無骨な物をプレゼントするだろう。こんな、どこからどう見ても「女物です、キリ!」なんて物をプレゼントして、付けてくれる男の方が少ない。 となると、高橋君の言う通り、彼女が勝手につけた、というのは強ち嘘ではないのかも知れない。 私の視線に気づいたのか、高橋君はライターをポケットにしまった。別にいいのに、出しておいても。 「ところでさ」 急にいつもの、真面目な、固い顔に戻った。こちらまで姿勢を正してしまう。 「何?」 「お前、まだ彼氏出来てねぇ?」 恐ろしい位の鋭い視線が突き刺さる。あぁ、この人怖い。顔も語り口も堅気じゃない。 「で、出来る訳ないでしょ、この1ヶ月でなんて」 その鋭い視線から逃げるようにして、お皿に残った鶏なんこつをひとつ、素手でつまみ、口へ放り込んだ。緊張して、口の中で軟骨が逃げる。 「出来たら、言えよ、俺に」 「ハァ?」 「いいから、言え」 憮然とした顔でそう言った。「あ、はぁ」と答えるのが精いっぱいで、その意味まで深く考えなかった。 お会計を済ませ、外に出る。もう7月を目前にしている夜の空気は、ちょっとした刺激で雨に変わるんじゃないかという位、湿度が高い。 居酒屋の中は冷房が効いていて涼しかったから余計に、この湿気が鬱陶しい。 高橋さんの家は駅から徒歩で帰る事が出来ると言う。 私は駅から2駅、電車に乗る。 駅前で「じゃぁ、また来週」と言い、手を振って歩き出した。 「おい」 不意に呼び止められた。 振り返るとすぐそこまで高橋君が迫ってきていた。 短くキスをされた。 訳が分からなくて、恥ずかしくて、体中の血液が顔に集まってきたみたいにホカホカしてきて、「何なの」ぽつりと言った。それしか言えなかった。 「俺も良く分かんねぇんだ。でも、こうしたくなった」 高橋君の頬も上気していた。 「好き、なんだと、思う」 そう言い残し、踵を返して駅の向こうへ走って行った。 私は暫く茫然とその場に立ち尽くしていた。 好き、だって?彼女がいて、それでも私を好きだって?冗談じゃない、そんな面倒臭い事に巻き込まれて堪るか。 そう思う自分がいる反面、ここ最近、高橋君の色々な面を目にして、実は少しずつ惹かれている自分がいる。 後者は決して表に出してはいけない自分だ、と思っている。 だけど相手に「好きだ」と口に出して言われると、何故だか自分も好きになったかのような錯覚に陥る。 錯覚であって欲しい。改札口に向かって歩き出した。足取りは重かった。 自宅に帰ると、携帯に中田さんからメールが着ていた事に気づいた。 明日はお茶するんだった。 時間と場所を確認し、シャワーを浴びてベッドに入る。 なかなか寝付けなかった。 |