21 昇格試験の結果 今日は花吹雪の様な雪が降っている。このままいくと結構積もるんじゃないか。窓の外を見ると、土間川沿いの桜の木には、小枝に雪が寄り添うように、降り積もっている。道路脇にある常緑樹の葉にも薄っすら雪が積もり、少しの重みで葉がお辞儀をしているようだ。 二月に入った。昇格資格者は一月から昇格試験対策の勉強をし、二月の昇格試験を受けた。 課長の後任とされる山本さんは、正直な所、あまり仕事が出来る人ではない。それでも昇格試験を受ける資格が与えられたので、それなりの評価が下ったという事だろう。 山本さんには悪いが、できればこの試験、不合格であって欲しいかった。 そりゃそうだ、彼が昇格すれば、課長が東北支社に戻る確率が格段にアップするのだから。 居室で各々がカタカタとキーボードを叩き、PCに目を凝らしていた。 社内便を届ける総務の人がドアを開けたので、率先して私が受け取りに行った。 課長宛ての物が数件と、山本さん宛ての「親展」封書が人事部から届いていた。 課長は会議で不在だったので、封筒の束をデスクに置き、山本さん宛ての封書は直接「届いてましたよ」と山本さんに渡した。 「あぁ、わざわざすみません」 封書に目を落とした山本さんは明らかに動揺していた。気付いたのだろう。それが昇格試験の合否通知である事を。 私は素知らぬ顔で席に戻ったが、視界の隅に入る山本さんの動きを見ていた。 封筒をトントンと机に叩きつけて封筒の中身を下に寄せ、上側に鋏を入れている。ショキ、ショキと音がする。中から一枚の紙を取り出した。その手は小刻みに震えている。 次の瞬間、彼はがくりと肩を落とし、頭を抱えた。顔を上げてもう一度その紙に目を通し、そしてまた頭を抱えた。現実を受け入れがたかったのだろう。 後から噂で流れ着いた。「山本さん、落ちたみたい」と。 こういう噂は誰が発信元で、どういう風に仕入れてくるんだろうと不思議に思う。 私は心の中でガッツポーズをした。 これで課長は来年も、神奈川支社の経理課課長として業務を執り行うだろう。 帰り道はマシュマロの様な雪が降っていたが、まだ積もっていなかった。傘もささずに跳ねる様に歩いて帰った。雪にはしゃぐ幼稚園児の様に。 家に帰ってからは「よっしゃー!」と声を出した。山本さん、ごめんなさい。 その喜びは束の間の物であったことを知らされたのは、それから一週間が経った、凍てつくような寒さの日だった。 「みどり、大変」 昼休みが終わり、業務開始五分前のチャイムが鳴ったので、私たちは居室へ戻ったが、途中で涼子はお手洗いに向かった。 「トイレで人事の向井さんに会ったんだけど、課長、東北に戻るらしいよ」 目の前の視界が急激にしぼみ、真っ暗になった。何も言えなくなった。 再び視力を取り戻した目で、どこを見たらいいのか分からなかった。 何で、だって山本さんが昇格できないんだから、人手不足は解消されてないのに――。 「そう、なの」 口をついて出てきたのはその言葉だけだった。 くるりと椅子を戻してPCに向かった。目は開いているのに、何の情報も入ってこない。仕事が手につかない。 神谷君も知っているのだろう、私の後ろを通った彼が「大丈夫か?」と耳元で訊いたけれど、蚊の鳴くような声で「だめ」としか言えなかった。 課長がお昼から戻ってきて、私の後ろの席についた。 グレア液晶に反射する、彼の後姿。家族写真。 彼は、課長は、岩手に、愛する家族の元へ帰っていく。 私が課長の恋人でいられる期間はあと一か月と少し。 後ろを向いている課長が今どんな心境なのか、私には分からなかった。 それから寒い日が続き、私は気持ちが滅入るばかりだった。 課長は各所の引き継ぎやらなにやらで忙しいのか、なかなか外で会う事が出来なかった。 ある日の木曜日、やっと『明日DMGホテルで会えるかい?』とメールを貰う事が出来た。 それでも私は、重たい現実を受け入れなければならない事に、足が竦むばかりだった。 ホテルにチェックインすると、既に部屋には課長がいた。 まだ来たばかりなのか、コートをハンガーに掛けているところだった。 「お疲れ様」 そう言って彼はネクタイを少し緩めた。 「お疲れ様です」 私もベージュのコートを脱いでハンガーに掛け、エメラルドグリーンのマフラーを肩の部分に引っ掛けた。それを課長のコートの隣に並べた。 「沢城さんに、話さないといけない事があってね」 そこ、座って、と促され、小さな椅子に腰かけた。窓からの冷気が身体を冷やす。 「課長、岩手に戻られると聴きました」 私はなるべく穏便に、冷静に、言った。少し声が震えているのが課長に悟られなければいいなと思った。 「そうなんだ。だから君と恋人でいられるのはもう、あと一ヶ月しかない」 課長はテーブルに置いてあったボールペンを器用にクルクルと回している。長い脚を組み、横を向いたまま私の顔を見ない。少し沈黙が流れた。静寂の中に冷蔵庫の稼働音だけが続く。 口を開いたのは課長だった。絞り出すように言った。 「僕は妻と二人なんだ。子供はいない」 言っている意味が分からなかった。グレア液晶に映りこむ家族写真。小さな男の子が二人、そこには写っていたではないか。 「だって写真――」 言いかけて口を噤んだ。課長が何かを堪えるような顔をして、言葉を紡ごうとしているのが分かった。 「死んだんだ、事故で」 全身の血の気が引く音がした。知らなかった、そんな事。 「あの、全然知らなくて――」 「いいんだ。こっちの人間で知ってる人なんて殆どいない。事故だったんだ。僕も妻も、一緒に事故に遭ったんだ」 そう言ってペンを置きワイシャツのカフスボタンをあけ、まくり上げた。 「見たかもしれない。この傷は、その時の物だ」 白い腕に、更に一段白く走る、長い十字の傷。確かに私は見た。そこにそんなに重たい過去が隠されているとは知らずに。 「妻と僕だけが怪我で助かった。家を買って、すぐだった。居室に貼ってある写真あるだろう?あれを撮ってすぐに、子供は死んだんだ」 課長は再びペンを手にし、回すのをやめない。俯いたまま、言葉を紡いでいる。今更彼の睫毛の長さを知った。睫毛に隠れた彼の目の色は、窺い知れない。 「前にも言った通り、子供が出来てからセックスレスだった。それがここに来て、また子供が欲しいって妻が、言いだしたんだ」 悪寒に身が竦む。それでも私は真実を聞かなければならない。無言で先を促した。 「妊娠したんだ、妻が」 私は目を瞑った。分かっていた。もう話しの流れから察しがついた。それでも実際に課長から、それを口にされてしまうと辛かった。 「いつ、いつ知ったんですか?」 私の声は震えを通り越して、嗚咽に近くなっている。 「年末だよ。もう、つわりがおさまったと言っていた」 「じゃぁ、八月に――」 課長と腕を組む、長身の美女が歩く姿がありありと思い出される。あの一週間で、彼らは愛し合い、彼女は身籠った。 そんな事とはつゆ知らず、私は課長の恋人であり続けた。あり続けたいと思っていた。課長は年末にそれを知ったにも関わらず、私を誘い、セックスをした。奥さんの妊娠を知りながら――。 「そうだね、あの一週間だ。そんなに都合よく子供が出来るなんて思っていなかった」 「都合よくって――こっちにいる間は私だけが課長の横にいる、課長の恋人だって、課長はそうおっしゃったじゃないですか。私は課長から誘われるのを待って、いつもそれを楽しみにして――バカみたいです」 堰を切ったように言葉がほとばしり、辛うじて下まぶたに支えられていた涙が、頬を伝った。 課長はその涙を冷たい親指でそっと拭いた。私は耐えきれなくなってその手を払いのけた。 「僕もどうかしてたと思う。どうして妻の誘いを断らなかったのか」 「愛しているからに決まってるじゃありませんか」 私は冷たく吐き捨てた。 「愛してるから、彼女との間に子を設けてもいいと思っていたから、セックスをしたんでしょう」 「そうだね」 課長が回していたボールペンが、床にポトリと落ちた。 「妻の出産準備があるから、僕は東北支社に戻る事になったんだ」 私は涙が止まらず、こんな人の為に涙を流すなんて無駄だと思えば思う程、悔しくてまた涙が溢れた。 「申し訳ない、と。そう思ってるんだ。それが伝えたくて――」 課長の声が震えた。泣きたいのかも知れない。そんな事は知った事ではない。 私は立ちあがり、ベージュのコートを着た。棚に置いた鞄を持ち、部屋を出た。 エメラルドグリーンのマフラーだけが、ハンガーに残された。 私はコートの襟を立てて寒さに耐えながら駅へと歩いた。 二月の冷え切った風が容赦なく吹き付ける。その首にマフラーが無い事をわざわざ知らしめるように、首だけがどんどん冷えるのだった。 商店街に付けられた時計を見ると、まだ七時半だった。 食欲も無いので、何も買わずに駅へ向かった。 見知った後姿があった。 「神谷君――」 後ろを振り向いたその顔はにやけていたが、私の顔を見て彼はそのにやけ顔を捨てた。 |