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8 神谷君の忠告

 玄関を開けるとそこは――私の部屋。男みたいな私の部屋。落ち着く。
 リビングに入り、女らしいシルエットのカバンから携帯だけを取り出し、あとはモノトーンのボックスに仕舞う。携帯のストラップだけは、女らしい物で我慢をする。
 着替える前に、課長に買ってもらったピアスを鏡で確認する。うん、素敵。女の子らしい。
 高校時代使っていたジャージとTシャツに着替える。
 ビールのプルタブを引き、それを呑みながら野菜炒めとサラダ、味噌汁を作る。ご飯は冷凍してあるものを温める。片付けがすぐに終わるような、簡単なメニューで夕飯を作り、最小限の食器を使い、盛り付ける。ビールを呑みながら夕飯を食べる。
 こんな日常だ。きっと会社の人間の誰もが予想だにしない光景だろう(除:神谷君)。
「落ち着くなぁ」誰もいない部屋で一人ぽつりと呟く。

 落ち着く。だけど少し淋しくもある。
 姉と神谷君以外、殆ど家にあげた事が無い。涼子だってここには来た事が無い。
 平日は一人でビールや酎ハイを呑みながら読書をしたり、ギターを爪弾いたりしているし、休日は時々神谷君がコーヒーを飲みに来る。そんな生活だった。
 これからは課長がこのサイクルに入り込む事になる。
 どうなっていくんだろう、私の人生。
 終わりのある恋愛。虚像の私。人生の一ページに刻まれる彼の香り。
 胸が高鳴る様な、心苦しいような、複雑な思いが交錯した。


 酎ハイを呑みながらベッドに腰掛け、文庫本を読んでいると、サイドテーブルに置いた携帯が長く震えた。ディスプレイを見ると、神谷君からだった。またコーヒーか――。表面が結露している缶酎ハイをサイドテーブルにあるコースターの上に戻し、代わりに携帯を手に取った。
『もしもし』
「どうした?」
 私は通常営業ワントーン低い声の沢城みどりで話した。
『沢城さんに訊きたい事があんだよ』
「何、知ってる事なら何でも」
『今日駅んとこで課長と何やってたの?』
 血の気が引いた。文庫本を手から落としそうになり、必死に指先で堪えた。
「何って別に――」
『キス、してた?』
「し、してないよっ」
『顔が随分と近かったじゃないかーい』
 神谷君のニヤニヤとしたあの顔が頭に浮かんだ。グーで殴ってやりたい。
「ちょっと話してたら、髪の毛がピアスに絡まっちゃって、取って貰ってたの」
『ふーん、そうなんだ、ふーん」
 何か言いたげな「ふーん」に少しイライラした。
「何が言いたいのさ」
『壁に耳あり障子に目あり、だかんねー。気を付けるんだよーと神谷君からの忠告」
「ご忠告ありがとう。それでは」
 一方的に「通話終了」キーを押した。
 神谷君は我が家に踏み込んだあの一件からこちら、私の生活に土足で踏み込むような事が多い。まぁ、本当の私の姿を知っている唯一の人間だからある程度仕方がないとは思う。
 心配なのは、彼が結構、動物的勘というか、嗅覚と言うか、そういう物が優れている事。そして都合の悪い場所に居合わせる確率が高い事。
 先日も、会社で課長から食事のお誘いを頂いた時、たまたま近くにいた。今回も、何故か見ていた。ストーカー?いや、彼に限ってそれはない。
 兎に角、会社の誰かに課長との仲が露呈するとしたら、それはまず神谷君だろう。私はそう思っている。彼の嗅覚は犬並みだ。

 再び文庫本を手に取り読みだしたのだが、何だか集中できず、本棚に仕舞った。


 金曜日を迎えるまで、グレア液晶に時々映り込む課長の後姿に胸をときめかせながら時間を過ごした(仕事はしている)。
 相変わらず一日に一度は涼子の取り立てヤクザの様な声が部屋に響き、神谷君は目が合うとヘラヘラと笑っていた。