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9 ピッチャー、課長

 金曜の昼休み、中庭のベンチで涼子と「ひも君の仕事」について話していると、ポケットに入れてあった私の携帯が短く震えた。
 取り出してディスプレイを見ると、「山崎直樹」と表示されていた。
『お疲れ様。今日、駅から少し離れたDMGホテルというビジネスホテルをとりました。受付で僕の名前を言ってください。何時になっても構いません。待っています』
 さっと頬が赤くなるのを自分で感じた。
「どした?顔赤いよ?」
 涼子が訝しげでな表情で私の顔を覗き込んだが、目を逸らした。
「暑くない?今日」
 私は火照った頬を両手で挟んだ。怪しいなぁとは言われたが、それ以上詮索してこなかった。涼子はこういう部分がさっぱりしていて付き合いやすい。課長と食事をしたその後も、その事に付いて触れてこようとはしない。だが油断は禁物だ、彼女は社内の情報屋。


 十八時に業務を終えた。既に課長は席におらず、在席を示すマグネットは「出張」「直帰」となっていた。
 私は指定されたDMGホテルへ赴いた。駅からは少し離れ、銀行や市役所などが立ち並ぶ一角にそのホテルはあった。
 一般的なビジネスホテルで、勿論いかがわしい雰囲気は微塵もない。
 自動ドアをくぐろうとしたその瞬間、左肩を叩かれた。
「お疲れ様、沢城さん」
 課長だった。少し急いできたのか、汗をかいている。
「あ、課長、お疲れ様です。今日出張されてたんですね」
 役職柄、会議等で席を外すことが多いため、改めて在席表を見なければ気づかないのだ。
「とりあえず、入ろうか」
 指差す課長の後ろについて自動ドアをくぐり、受付を済ませた。エレベータ内は蒸し暑く、私は鞄からタオルハンカチを取り出し「汗、拭いてください」と課長に手渡した。
「あぁ、ありがとう」
 課長は押さえる様にして額の汗を拭った。
 六階に到着し、絨毯敷きの廊下を歩く。靴音はサッサっと箒で掃く様な音になる。
「僕、汗かきなのについタオルを持って来るのを忘れるんだよね。いつも嫁に任せてたから」
 何気ないその「嫁」という響きが私の中で居心地が悪そうにくすぶった。この人は私の前で平気で「嫁」の話をするんだろうか。それでは完全に私は「愛人」ではないか。
 それでも私は、その「嫁」に関して知りたい事もあったし、避けて通れない存在である事は明らかなので、黙っている事にした。
 課長は六階の一番奥の部屋のドアに鍵を差し込み、ドアを開けた。
「さぁ、どうぞ」
 促されるまま中に入ると、セミダブルサイズのベッドと小振りのテーブル、椅子が置かれた部屋だった。
 課長は部屋に入るとすぐ、ワイシャツのカフスボタンを外し、腕まくりをした。暑かったのだろう。
 身の置き場に困って突っ立っていると、課長は「そこ、座ってて」と言った。
「何か美味しい物を食べてから来てもいいかと思ったんだけど、今日はお弁当を買ってきたんだ。それでも良かったかな?」
 しゃがんでがさごそとビニールの中を探る課長の後姿に「はい」と返事をした。
 テーブルに出された二種類のお弁当を指さし「どっちがいい?」と訊かれ、「じゃぁこっち」とハンバーグが入っているお弁当を選んだ。
 課長は先程額を拭いていたタオルハンカチを「後で洗濯機で洗うから」と言って手元に置き、「じゃぁ食べよう」と向かい側に腰掛けた。

「おいしいです」
 そう言って課長の顔を見ると、課長は目を細めて静かに笑った。
「本当に沢城さんは、ご飯を美味しそうに食べるね。そういう所、素敵だよ」
 私はモグモグとポテトフライを噛みながら少し下を向いて、赤くなった顔を悟られないようにした。
 普通のお弁当屋さんに売っている、普通のお弁当なのに、課長と顔を合わせて食べていると少し美味しい感じがするのが不思議だった。
「課長と食べると、何でも美味しいんですよ。本当に」
 課長を見遣ると、眼鏡の位置を直しながら照れ笑いを浮かべていた。それを「素敵」だとか「カッコイイ」だとか思わず、「可愛い」と思った。

 食事を済ませると、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。もう一本はカクテル飲料だった。
「こういうのなら、沢城さんでの呑めるかなと思って」
「あぁ、ありがとうございます」
 課長からカシスオレンジを受け取る瞬間に見た課長の指は、白くて長く、細いと思った。節くれだっている以外は、女性の手の様に綺麗だった。そう言えば、課長の肌はとても色が白い。だからこそ唇の真紅が引き立ち、それをセクシーだと思ったのだ。あの唇を早く自分の物にしたい、そう感じた。

 プルタブを引くと、真空が破られるような音がする。「乾杯」と缶を合わせた。
「沢城さんは、本当に不思議な人だな、一緒にいると安らげる」
 ビールを片手に長い脚を組み、そんな事を言う彼の横顔を見ていた。繊細な鼻梁を見つめる。
「奥様は、どんな雰囲気の方なんですか?」
 課長は少し眉根を寄せ、「嫁かぁ」と呟いた。少し俯いて、そして顔を上げた。
「沢城さんとは真逆だね。彼女を見ていて安らげるという事はない。雰囲気が、強いんだ」
 雰囲気が強い、というあまり耳にしない言葉に、想像するのが難しかった。百聞は一見にしかず、なのかもしれない。イマジネーションだけを膨らませるのはやめた方が良い。
「こちらへはいらっしゃらないんですか?」
 本当はこんな話、したい訳ではない。でも心のどこかで、知りたい自分がいる。
「お盆に一度遊びに来るとは言っていたし、僕は正月に一度帰る事になりそうだよ」
「そうなんですか」ぼそっと言い、カシスオレンジを一口呑んだ。
 こういう話をしてしまうと「不倫をしている」という実感が酷く増す。どうしても奥さんの影がちらつく。奥さんだけではない。子供だっているんだ。そんな男性と――。
「休みの日は沢城さん、何をしてるの?」
「私は――本を読んだりしてます。あと、音楽を聴いたり」
 ギターをいじっているとは言わないでおいた。イメージは大切。
「課長は何をなさってるんですか?」
 会話と会話との間に、冷蔵庫のジーという低音が聞こえてくる。穏やかな、会話。
「僕も本を読んだりしてるかな。向こうにいた時は野球をやってたね」
「野球ですか?ポジションは?」
「ピッチャーだよ、意外かい?」
 言われてみれば、痩せてはいるけれど袖をまくった腕にはしなやかな筋肉がついていて、体躯だって(まだ見てないけれど)たるんでいる様子はない。それでも控えめなイメージの課長が、一番目立つであろうマウンドのど真ん中でピッチャーをやっている姿は想像できなかった。
「意外です。素敵です。見てみたいです」
「アハハ、意外か。僕は見て欲しくないなぁ」
 私から目線を外し窓の外を見遣り、ごくりと喉を鳴らしてビールを旨そうに呑んだ。

 呑み終えた缶を水道ですすいでいると、それまで外の景色を見ていた課長が口を開いた。
「良かったら先にシャワーを浴びてきて」
「あ、あの私、髪を乾かしたりとかで時間が掛かっちゃうから、課長が先に浴びてください。汗もかいてらっしゃるみたいですし」
 そう言うと「本当に沢城さんは気遣いが出来る人だ」と言って自分の鞄から着替えを出し、浴室へ向かった。