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「たった一年だ。出向だからさ。戻って来たら、結婚準備しような」

「週に一度は新幹線でここに来るから。心配するな」

 そう言ってじっくりと私を抱いたのは、付き合って二年になる男だ。
 彼の大きな身体の上を泳ぐように抱かれる雰囲気が好きだ。
 抱いた後は大抵、二人で酒を呑む。どちらかが眠くなると、再び布団に入り、眠りにつく。

 1Kの狭いアパートも、新築というだけで相場より高くなる。それでも内装の綺麗さに惹かれてこの部屋を選んだ。
 二階の角部屋で、掃き出し窓から桜の樹が見える。階下には梅の木が植えられている。そんな所も気に入った要因だ。

 布団を敷くだけで一杯なこの部屋で、男と一晩過ごすのは少し窮屈で、とても幸せで。
 三月の終わり、男は新幹線で関西に出向した。
 カーテンを開け、掃き出し窓から見える桜の木は、満開を通り越して春風に乱れ咲いている。窓を開けると花弁がヒラリと舞い込んで来た。
 頭上でセキセイインコの「スカイ」がピヨと鳴く。抜けるような青空の色をしているので「スカイ」と名を付けたのは、男だ。


 一週間後、土曜の夜に男は約束通りここへやって来た。
「俺は守れない約束はしない」
 予め煮ておいた豚の角煮とかぼちゃの煮物、サラダと味噌汁を配膳し、ちゃぶ台に座る。
 この部屋の内装には似つかわしくない、古臭いちゃぶ台だ。事故で死んだ両親の形見の様な物だ。
「お前の作る料理は世界一だな。男の胃袋をつかんだ女は強いぞ」
 そんな事を言いながら、夕飯を食べた。たっぷり作った角煮が、あっという間に空になった。
 ユニットバスのシャワーを浴び、布団に入って男を待つ。
 スカイの水を替えてやるのを忘れていて、一度裸のままでキッチンへ立ち、水を替えた。替えたての水が好きなスカイは、すぐに水飲み場に降りて来て、水を飲む。
 男はタオルだけを被り、布団に入った。
「離れるのは、嫌だなあ」
 そう言いながら、男は私を抱いた。

 夜空に向かって伸びる桜の枝からは、もうすでに桃色の花弁は散っていて、代わりに淡く柔らかい緑色の葉が芽吹いていた。




 一週間後、男は現れなかった。
 携帯電話の番号は知っていたが、掛けなかった。メールも送らなかった。
 重い女だと思われたくなかったから。
 日頃から極力、電話は掛けないようにしている。
 二人分作ったオムライスの一つにラップを掛け、一人で片方を食べた。もう一つは明日食べよう。
 スカイが鳥籠の中で頻りに頭を上下に動かしている。あれは何なのだろう。


 その一週間後、男はやってきた。
「仕事が忙しくてさ。一週間ずれちゃったよ、すまない」
 先週と同じ、オムライスをちゃぶ台に載せた。
「うまそうだなあ」
 そう言って男はオムライスを抱え込むようにして食べた。
「あと一年、待ち遠しいな」
 そう言うと私を強く抱きしめ、セックスをした。


 一週間後、男は現れなかった。
 きっとまた仕事なのだろうと、気に留めなかった。
 しかし、その一週間後も来ない。連絡も無かった。
 その度に作った二人分の鯖の味噌煮を、二日掛けて一人で平らげた。

 ゴールデンウィークが明けた頃、男はここに来た。
「年度頭は忙しいんだよ。今日はサバ味噌かぁ」
 そんなに仕事が忙しいのかと訊くと、腹を立てたように声を荒らげる。
「忙しいんだよ。何だ、他に理由でもあると思ってんのか?」
 重い女だと思われないために、それ以上追求しなかった。
「スカイに餌やっていいか?」と言うので、餌が入った缶を渡した。
「また一週間後に来るからな」
 スカイに向かってそう言ったのを聞き、私は安心した。
 そして男に、身を委ね、夜が更けた。


 一週間後、また男は現れなかった。
 仕事が忙しいと言っているのだし、それ以外に理由がない。
 毎週土曜が来る毎に、二人分の食事を作った。
 それを一人で、二日に分けて食べる事が三回続き、結局男が現れたのは、しとしとと雨が降り続く六月。前回から一ヶ月が経過していた。
 なるべく恨み言は言わないようにしているが、つい口に出てしまう。
「何だよ、忙しくても来てやってんだよ」
 そう強気な態度で返されると、ぐうの音も出ない。
 カレーライスをちゃぶ台へ運ぶと、子供の様な笑顔になって口へとカレーを掻き込む。
 雨が続くと空気が淀むので、掃き出し窓を開ける。外気が流入し、スカイがピチピチと反応する。
 外が、恋しいのか。
 シャワーを済ませ、すぐにエアコンをつけると、掃き出し窓を閉めた。
 湿気の抜けた部屋で、男に抱かれた。
 一週間後に来るからなと言って、翌朝男は去って行った。


 務めている事務用品販売会社で、書類の校正や経理、物品補充まで幅広く仕事をしている。
 何かの仕事を終える毎に、自分の印鑑を押す。
 最近は男の事が頭を占め、仕事に身が入らない。
 こうして紅色の印鑑を押す数も減っているような気がする。要は、仕事をこなす数が減っているという事だ。
 こんな小さな会社でも、自分を正社員として雇ってくれている事に感謝せねばと思い、少し気持ちを引き締める。

 結局男が来たのは、七月の半ばだった。
 気が早い蝉が鳴き始めている。そんなに急いても、一週間後には、死ぬのに。
「向こうじゃ大きい七夕祭りをやってたよ」
 男は無邪気にそう言い、韓国風冷麺をすすった。一ヶ月と少し、私は土曜になるとこの冷麺を食べ続けた訳だ。
 その事を少し口に出すと、またドヤされた。
「新幹線代だって掛かるんだからな。少しは考えて物を言えよ」
 私は黙って冷麺をすすった。毎週食べていた、冷麺。でもこの男と食べると、何でも美味しいと言う事は、口には出さないが本心だ。
「お前と見たかったな。大きな七夕の飾りがあってさ」
 遠い目をしながら男は私に話して聞かせた。セックスを終え、梅酒をロックで飲んでいる時だった。
 男は私の身体に腕を回し、髪を撫でた。
 この男が居ない世界など考えられない。肩に回る手の温もりを覚えた。


 仕事をしていても、男の事が気になって上の空になる。確実に、こなす仕事量は減っている。
 パソコンの画面を見ても、そこに映らないはずの男の顔が見える。
 一週間後、やはり男は来なかった。
 蝉たちは、夜になっても鳴き止まず、抑えきれない繁殖衝動に駆られているにしても、耳について腹立たしい。

 日中は仕事に身が入らず、夜はなかなか寝付けない。
 やっと眠りに落ちたと思ったらすぐに朝が来る。辛い。
 眠気を背負ったままで仕事をするので、集中も出来ず、ミスを連発した。
 上司に「これじゃバイトの山田さんの方が正社員向きだ」と指摘された。
 上司に何と言われようと、連日の睡眠不足は否応なしに身体を不調へと向かわせ、パソコンの前で居眠りをしてしまったり、立ちくらみで暫く倉庫内に座っていたりした。

 一週間後、やはり男は来なかった。
 土曜日は毎回汗をかきながら、から揚げを揚げ、冷奴とサラダ、味噌汁を作り、二日に分けて食べた。
 家にいても、テレビを見るでもなくぼーっとしていて、何も手につかない。
 たまりにたまった洗濯物を干しても、途中で休憩をはさまないといけない位、怠い。

 次の土曜日もまた、男は来なかった。
 会社の事務所内では、私が奇行に走っているだの、鬱病だのという噂が流れているのを、知っていた。
 実際そうなのかもしれない。鬱病かも知れない。男の事しか考えられない。
 今何をしているのか。誰と一緒にいるのか。今週は来るのか。
「目に見えて君の決済印が減ってるんだよ、分かってるか?」
 上司に苦言を呈されても、反論できる材料が皆無だ。
「あと三週間待ってやる。それでも改善出来なかったら解雇通告を出さざるを得ないから」
 あと三週間の間に、男はやってくるだろうか。
 私は上司の話に了承し、あと三週間、給与に見合った働きをしようと試みたが、ダメだった。
 男の事ばかりが頭を掠める。頭から男が消え去ると、睡魔が襲う。
 夜になると目が冴えてしまい、男の事を考える。
 朝方に眠りにつくとすぐ、目覚まし時計が鳴る。

 結局三週間の間に男は来なかった。
 毎週土日は、から揚げと冷奴を食べ続けた。
 解雇通告が出され、一か月後に私は会社都合で失職する事になった。
 もう八月も残り数日となり、ひぐらしが少し涼しくなった夕方を音で覆い被せる頃だった。




 八月の末の土曜日、やっと男が現れた。
 から揚げと冷奴、サラダと味噌汁をちゃぶ台に出すと、「暑いのにから揚げなんて揚げてくれるんだな」と気遣ってくれた。
 しかし、会社を解雇される事を告げると、あざ笑うかのような顔で言い放った。
「あんな小さな会社で解雇されるなんて、どんなダメ人間だよ。誰だってできる仕事だって、お前言ってただろ」
 男の事が気になって仕事にならない、なんて言ったところで、人のせいにするなと叱られて終わるだろうから、黙っていた。
 スカイは暑さにもめげずに二本の止まり木を行ったり来たりしている。
 時々、誰にでもなくピチクリと一人喋りをする。
 自分はシャワーを済ませ、男がシャワーを浴びる水音だけが浴室から響いていた。
 時折、男の鞄の中から低い振動音がする事には気づいていたが、男は私の前で携帯電話を操作しなかった。
「今日は先にビールを呑もうかな」
 シャワーからあがってビールを呑んだ。それからセックスをした。いつもとは違う行動に、少し動揺した。
 もしかして、他の誰かといる時はいつもこうして――消極的な思考は排除せねばと己を律した。
 翌朝男は帰って行った。
「来週また来るから」
 そう言って。
 玄関を出るとすぐ、鞄のポケットから黒い携帯電話を取り出して、何やら操作をしていた。誰に、何の連絡をしているのか。


 一週間後、男は来なかった。
 夕飯はチャーハンとスープだった。これもまた二日に分けて食べた。
 それから二週間して、解雇となった。
 すぐにハローワークへ行き、失業保険の申請手続きを行った。
 手続きの書類を書いていると、隣のブースで作業をしている中年の男性に話しかけられた。
「依願ですか、解雇ですか?」
 解雇だと伝えた。
「今の時代、若い人でも解雇されちゃうんだねー。私なんて、もうこれで三回目ですよ、解雇」
 私は当たり障りのない顔で、頷いて話を聞いた。
「嫁さんと子供を食わしていかないといけないからね。仕事してないと駄目なんですよ」
 五十代かと思われるその男性は、右目の下にほくろがあり、すぐに顔を覚えてしまった。
 ハローワークに手続きに行く度に、彼を見つけると会釈をした。
「どうです、仕事は見つかりました?」
 手続きに来ている時点で、仕事は見つかっていないのだが。社交辞令だろう。

 不眠が気になり、心療内科を受診した。
 医者は淡々と私の症状を聞き、暫く「うーん」と唸った後、「抑鬱状態と、不眠症という所ですかね」と言って、処方箋を出した。
 安定剤と抗鬱剤、睡眠導入剤だけで一か月分、袋に一杯だった。
 次の仕事に就くまでに、少なくとも睡眠だけはとれるようにしなければ。
 その晩、就寝前に薬を何種類も並べて飲んだ。
 睡眠薬には苦い味が付けられていた。これをオーバードーズして自殺するなんて事は、まず出来ないな、と思った。
 その日は久しぶりに、一時間もしたら眠気が訪れ、朝まで眠る事が出来た。

 昼間はまだ少し暑い日もあるが、だんだんと秋の色が濃くなってきた。
 日が暮れるのは早いし、日の出は遅い。昼間が短いという事だ。
 ハローワークを訪れ、とある会社の事務仕事を斡旋してもらい、面接を受ける事となった。
 事前に電話で、心療内科に通院している事を先方に告げると、「それはちょっと」と面接を受ける前に断られてしまった。
 それから何度か、中年男性と顔を合わせ、近況を報告するようになったが、両者とも芳しくなかった。
 男性は、奥さんと子供がいると言った。私には扶養する家族はいない。
 今は、食べていけるだけの稼ぎでいいんじゃないだろうか。
 来年の四月には男が出向から戻り、結婚の準備に入るのだから。それまでの繋ぎ。
 求職条件を「正社員」から「パート」まで広げる事にした。




 すっかり秋になった。窓を開けると郷愁が漂う匂いが鼻をつく。
 スカイは知ってか知らずか、鳴く事はせず、ただただ外の方を向いてその香りを身にまとっている。
 十月の中旬に男はやってきた。
「九月の終わりに向けて色々忙しかったんだ」
 私が糾弾した訳ではないのに、男は言い訳めいた事を言った。
 チャーハンとスープを作ってちゃぶ台に出す。
「お前の作る中華スープは凄く美味しいんだよな」
 そう言うと、蓮華でチャーハンを掻きこむ様に食べ、あっという間にお皿を空にした。
 青果店で見掛けた梨があまりに美味しそうで、思わず買ってきてしまった。
 それをお皿に乗せ、果物ナイフと一緒にちゃぶ台へ持って出た。
 くるくると渦を巻くように皮が剥がれていく。
 切り分けた梨を男が口にした。
「この前も食べたんだよな。その時のよりも甘くてうまい」
 いつ、誰と梨を食べたのか。料理だって、果物の皮むきだってしないこの男が、誰と梨を食べたのかは気になったが、追及しなかった。
 梨を少し小さく千切って、鳥籠の格子に挟んでやると、スカイが啄みに来た。
 時折、部屋の隅にある男の鞄から、携帯電話の振動が聞こえてくるが、男は気にする気配が無かった。
 ふと、カラーボックスに立て掛けてあった年間カレンダーを見た。男が来た日はピンクで丸が書かれている。
 それに気づかれたら重い女だと思われてしまうと思い、男が見ていない隙に物入れに隠した。
 男が来る間隔が、一週間、二週間、三週間と少しずつ空いている事が分かるそのカレンダーに、明日またピンクの丸を書こう。
 翌朝「また来週来れたらいいんだけど」と少し曖昧な表現をして男は去って行った。


 一週間後、男は現れなかった。
 相変わらずハローワークに通い、今度はパートタイム社員として事務職を斡旋された。
 心療内科に通っている旨を先方に伝えると「今はそういう時代だから」と理解を示してくれた。
 結局、十二月から働き始める事となった。失業保険は切れるが、一カ月程度なら貯金で何とか生活できるだろう。

 心療内科では、薬を飲んでいれば睡眠はとれると伝えた。
 ただ、男の事を考えない日は無かった。考えれば考えるほど、沈む一方なのは何故だろう。
「ハローワークに通えているのなら、それで十分じゃないですか」
 医者はそう言い、処方を変えなかった。

 ハローワークに就職報告に行った際、あの男性に会った。
 就職先が決まった事を伝えると、「良かったですね」と笑みを浮かべてくれた。
「私の方は歳が歳なもんで、なかなかね」
 苦笑している彼には、家族がいる。当然、パートなどではやっていけないだろう。
 検索機で仕事を検索している後姿は、か細く、頼りなかった。

 土曜日は、春巻きと玉子焼き、ポテトサラダに味噌汁を作った。勿論、二人分。
 男は携帯電話を持っていて、私も携帯電話を持っているのに、四月からこちら、一度も通信していないことに気づく。
「明日は行けない」それぐらいのメール、くれたらいいのに、と思う。
 私は冷え切った春巻きを口にした。
 情けなくなって、涙が溢れた。これはきっと、鬱病のせいだ、と思う事にした。




 十二月に入り、新しい仕事が始まった。
 以前やっていた事と同じように、庶務、雑務が中心で、そんなに難しい事は無かった。
 心療内科へ行くために早退する事も許されていた。
 ただ、時給は低かった。食べていくのがやっと、という水準だ。


 働き始めて数日経った十二月の初旬、男はやってきた。
 首には見慣れないブランド物のマフラーが巻かれていた。
「仕事が決まったのか、良かったじゃないか」
 男は春巻きを齧った。
「お前が作る春巻きは、絶対に中身が飛び出さないんだな」
 まるで誰かが作る春巻きと比べるように言うその言葉に、怪訝な表情を隠しきれなかった。
 男はそれに気づいたのか「うちの母親がヘタクソだったんだ」と言った。
 安心させようとしているのか、何かを隠しているのか、分からなかった。
「クリスマスぐらい一緒にいれたらいいなぁ」
 シャワーを浴びた後にまたビールを呑みながら、そう言った。この癖はいつからついたのだろうか。付き合い始めてからずっと、お酒はセックスの後だったのに。
 部屋の中は凍えるような寒さなのに、男はセックスで汗をかいた。
 終わってからシャワーを再度浴びて出てきた。その頃にはエアコンで部屋は温まっていたが、それまではスカイがフクロウの様に丸まって暖をとっていた。
 翌日男は「クリスマスに来れるようにする」と言って部屋を出た。
 すぐに鞄の外ポケットから携帯電話を取り出し、何か操作をしていた。
 私は部屋に戻り、カレンダーにピンクの丸を付けた。
 次に男が来るのは多分――二月だ。


 一週間後、勿論男は来なかった。
 シチューは鍋にたっぷり作ってあったので、数日はシチューの日が続き、数日空いて、また土曜の夜にシチューだ。
 隣の部屋から複数の男女の笑い声がする。耳障りな、甲高い声。
 スカイはその度に身体をびくつかせていた。
 音を遮るためにテレビをつける。バラエティはうるさくて好きではない。
 おのずと、ニュース番組を選局し、リモコンをちゃぶ台に置いた。
 缶ビールを開ける。
 見知った顔が、テレビ画面の半分を覆った。
 ハローワークで話しかけてきた、あの男性だ。右目の下にほくろがあるから間違いない。
「自家用車で51歳男性ガス自殺」
 写真の下にはそう字幕が出ている。
 あの人、自殺したのか――。
 仕事、見つからなかったんだろうか。家族を持つという事は、非常に重い事だと思った。
 すぐにテレビを消した。
 途端に隣の部屋からの騒音が気になる。
 そうか、今日はクリスマスイブか。勿論男は来ない。

 身寄りのない私は、年末年始もこの家で一人、静かに過ごした。
 隣の部屋の若者は実家にでも帰ってるのだろう、物音一つしない。
 テレビを見ていてもくだらない特番ばかりで、見る気が起きない。
 結局、インターネットでニュースを見たり、料理のレシピを調べたり、男の事を考えたりして正月を過ごした。
 男は今、誰と、どこで、どんな風に正月を過ごしているんだろうか。
 思考は悪い方へ悪い方へと傾いていく。
 全ては病気のせいにする。

 仕事がある事だけが救いだ。
 仕事中、やはり男の事を考えてしまうが、睡眠がとれている分、居眠りする事は無くなった。
 幸か不幸か、それ程忙しい会社ではないので、ぼーっとしていても誰にも咎められない。
 一月の殆どの夕飯を、シチューで済ませた。時々ルーと肉を変えて、ビーフシチューにしたりした。
 それでも男は来なかった。
 急ぎ足で一月が過ぎ去って行った。




 階下にある、梅の花が咲いた。
 この木に咲く梅は、赤みが強く、少ない花数でも力強さを感じさせる。
 ベランダからその梅の花を見るのが、ここ数日の楽しみになっていた。
 時々スカイを籠ごと外に出し、痛い程冷たい二月の空気に触れさせた。


 予想通り、二月の初旬に男は現れた。
「年末年始は忙しくて」
 この言い訳も、想定の範囲内だ。
 男は出来立てのビーフシチューを口に運んだ。
「冷えた体に沁みるなー」
 いつまでだったか、男に恨み言を言ったりしたが、いつの間にかそんな事もしなくなっていた。
 考えてみれば、あの様な恨み言を女から言われるのは、男にとってきっと重いのだろう。
 それに、今更言っても仕方がない。あと二か月で四月なのだから。
 男が出向から戻ってくるのだから。
 しかし男は出向が終わる事を一切口にしなかった。私も追及はしなかったが、もうすぐ四月になる、と言うぐらいは話題にのぼるかと期待していただけに、落胆も大きかった。
 いつもの様に、男の鞄からは時々、携帯電話の振動音が響き、セックスの前に缶ビールを一本呑み、翌朝に家を出て行った。
「一週間後に来れたら来るから」
 また曖昧な表現をして階段を降りて行った。
 いいいんだ。四月になったら帰ってくるんだから。


 四月が近づくにつれ、心配する要素が減る筈なのに、心のどこかで心配が消えない。
 本当に、帰ってくるのだろうか。
 今、出向先で本当に一人でいるのだろうか。

 一週間後、炊き込みご飯とお刺身を用意して待っていたが、男は来なかった。
 本来なら胸を高鳴らせて待っていられる三月も、何だか不安にに満ちていて、心療内科から貰った薬は手放せなかった。
 一度、睡眠薬を飲まずに寝てみたが、やはり暫く眠気が来ず、結局薬を飲んだ。
 会社の同僚で、同じような薬を飲んでいる人がいて、やはり同じような事を言っていた。
「あれは依存性が高いから、一度飲んだら飲んだ年月の倍かけて脱薬していくしかないようだよ」
 それでも私は、男が帰ってきてくれさえすれば、薬とはオサラバだと思っている。
 懸案事項は男の事だけなのだから。
 男さえ傍にいてくれれば、心穏やかにしていられる。
 男さえ傍にいてくれれば、静かに眠りがやってくる。


 部屋から見える桜の木から伸びる枝の先端が、赤々と色を持ち始めた。
 数日もしないうちに、少しずつ薄桃色の花弁が顔を覗かせ、あっという間に樹を覆った。
 春の風に負けじと樹に食らいつきながら咲く姿は見事だが、やはり風に舞う花弁の、雪のような様が綺麗だと思う。
 スカイを籠ごと持ち、ベランダに出ると、こちらへ向かって花弁が飛んできた。
 スカイの籠の中に一枚の花弁が舞い込み、水受けに浮いた。
 スカイはそれを薄黄色の嘴でつついて、顔を傾げていた。
 もうすぐ、この桜が散る頃には、男が戻ってくる。
 どこか確信出来ない自分がいた。
 樹に掴まりながら、風に吹き飛ばされる事を恐れる桜の花の様に、何かに怯えていた。




 三月の終わりの土曜日。今日男は絶対に来るだろうと思っていた。
 刺身と炊き込みご飯、サラダと味噌汁を用意し、男が来るのを待った。
 しかし、いくら待っても男は来なかった。


 時計の針は二十三時を指していた。
 私は灰色の携帯電話を手に取り、男の名前を呼び出した。
 震える指で、通話ボタンを押す。
 いつもなら、風呂に入っている時間だろうか。だとしたら、不在着信でかけなおしてくれるだろう。
 呼び出し音が長く続いた。出ないのだと思い、携帯電話を耳から離し、通話終了ボタンを押そうとした瞬間に、小さな穴から「もしもし」と掠れた声がした。
 すぐに耳にあて、男の声を待った。
『あの、夫に何か用ですか?」

 私はすぐに通話終了ボタンを押した。

 夫――。

 出向から帰ったら、結婚の準備をすると言っていた男には、妻がいる。
 いや、正確にいうと、妻が出来ていた、のだ。いつからか。
 手に持っていた携帯電話がごろりと転げ落ちた。

 私は鳥籠を手に持ち、ベランダに出た。
 街灯に照らされた夜桜は見事で、花弁が私の顔にひとつ、ついた。そのままにした。
「明日の朝には、青空が見えるからね」
 鳥籠の出入り口を開けて固定した。餌も水も、十分入っている。
「出たい時に出て、帰りたくなったら帰っておいで」
 格子に指をやると、スカイは私の指先を啄んだ。

 桜の花弁が部屋に入り込んでもいいと思い、掃出し窓は開けたままにした。
 夜風が冷たい。でもそんな事はもう、関係ない。
 苦みのある睡眠導入剤を、五粒ほど飲み込んだ。意識がもうろうとするまでの時間が少しは短くなるだろう。
 キッチンでいつも使う包丁を手にし、浴室へと向かった。
 折り畳み式のドアを開けるとギィと軋む音がする。
 お湯の張られていない淡い桃色の浴槽に身を沈め、頸動脈の位置を指で確認する。
 いざとなったら、深めに切ればいいんだから。簡単な事。

 泡と水が一体となって押し出される様な音がする。
 浴室の壁に飛び散った赤い物が、重力によって垂れて行く。
 さっき顔についた桜の花弁は、もう紅色に着色しただろうか。梅の花弁のように。
 部屋から、携帯電話の機械的な着信音が響く。男に設定した着信音だった。
 もう遅い。かなり前からもう、手遅れだった筈だ。
 薄れゆく意識の中で、人間の心臓が血液を送り出す力強さを感じた。死ぬ間際になって、生きていると実感する。
 朦朧とする視界に、スカイが飛び込んできた。
「スカイ、外に羽ばたきなさい」
 声になったかどうかも定かではない。スカイは首を左右に傾げて、浴室から出て行った。
 水色の小さな羽が一枚、ひらりと落ちるのが分かった。

 近いうちに男は、私の重さを思い知るだろう。
 私がどれ程男を思っていたかを。
 それでも、男が傍にいなくても、私には静かな眠りがやってきた事を。

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