9 「話って、何かなぁ」 浩輔は穏やかに笑いながら窓によりかかり、少し熱のこもった風に当たっていた。目の前の日野明菜は、耳の下から下がる少し茶色みがかった髪をしきりに撫でながら、俯き加減で浩輔に近づいた。背の高い浩輔からは彼女の顔色は窺い知れない。 「話、あるんでしょ」 浩輔の穏やかな声に日野は何かを決心したかのようにパッと顔をあげ、思いのほか高い位置にある浩輔の顔を見上げるために首を反らせた。 「あの、この前はありがとう」 暑いからなのか、もしくは別の理由か、頬を赤らめている。 「礼ならもういいよ。パンおいしかった?」 彼女は無言でぶんぶんと首を頷かせる。 「えっと、話っていうのは、その、好きな人とかいなかったら、付き合って欲しいなって、事なんだけど......」 この事態はあらかじめ予想していた浩輔は「ごめんね」と言った。 「日野さんは可愛いし素敵な子だけど、付き合えないんだ」 日野は諦めきれないのか、その場を動かない。拳を握って浩輔を糾弾するように詰め寄る。 「もしかして、柳沼さんの事が好きなの?」 その名前には多少動揺したが、それでも「違うよ、そういう訳じゃない。ごめんね」と同じように謝り、机に置いた紺色の鞄を持った。 「じゃぁまた明日」 少し陽が傾き始めた駅までの道を一人で歩いた。 日野さんの事は好きでも嫌いでもない。付き合えない事はない。だが好きでもないのに付き合うのは彼女に失礼だ。それに俺は、幸せになってはいけないんだ。例え誰か、俺に優しい誰かに心を惹かれても、それを口に出してはいけない。幸せを手に入れるのは俺ではない。俺は幸せになってはいけない。 浩輔は自分の影を踏みつけるように、白いスニーカーを先に、先に進ませた。 「こう君、おはよ」 浩輔の後ろから泉が肩をぽんと叩いた。ポニーテールがさらりと揺れる。 「おはよう。今日も暑いね」 相変わらず次元の違う所で微笑む彼の顔は、未だに違和感があって慣れない泉は、自分の笑顔も少し歪んでいるのではないかと心配になる。 「昨日、日野さんは何だって?」 浩輔は結んだ口の端をキュっと上げ、泉に向けた。 「告白か」 「そうだよ」 泉の胸が一瞬締め付けられるような感覚を覚え、彼女は一度深呼吸をした。 自転車通学の友人が後から「おはよう」と声を掛けてくる。 昇降口まで来ると、登校ラッシュの時間帯で辺りは騒がしかった。 「で、付き合う事にしたの?」 まさか、と靴箱から上履きを出しながら言うので「何で?」と不思議顔で泉は訊ねた。 「優しいこう君の事だから、いいよって言いそうなのに」 浩輔は目を伏せて小さくため息を吐く様に笑った。やけに大人びたその笑い方に、泉は少し背筋にひんやりしたものが通った気がした。 階段を上り下りする生徒の声が響く。恋愛の話をするにはちょうど良い喧噪だ。 「優しくても、相手の為にならない事ならしない。それに俺は幸せになったらいけない人間なんだ」 一段下を歩く泉には彼の顔が見えなかったが、彼がふと振り向いたので、その顔が作り出す異物感のある笑みにまた、背筋が凍えた気がした。 「幸せになったらいけない? 何それ」 恐る恐る訊いてみた泉に、浩輔はあっさりと言った。 「俺ね、本当は施設で暮らしてるんだ」 教室につき、二人は自席に座った。泉は鞄を開けながら少し小声で「両親が亡くなったから施設に預けられてるって事でしょ?」と訊ねるが、浩輔は何故かまたため息交じりに大人びた笑いを見せた。 「泉ちゃん、施設に入る理由って、色々あるんだよ」 それ以上語りたくないといった感じで、鞄の中の教科書を机に入れたり、ロッカーから資料集を出して来たりと動き回る浩輔に、何も話しかけられなかった。 こう君は、私達には到底言えないような、何か重大な事を隠しているのかも知れない。そんな人を、好きになってしまった。彼の全てが知りたいと思った。施設とは何なのか。幸せになったらいけないとはどういう意味なのか。 |