10 令二



「おはようさん」
「おはよ、わざわざポストイットまで付けてくれちゃって、ありがとうね」
昨日は結局、雨に打たれずに寮まで帰った。
「俺が帰る時間にはもう晴れててさ。でっけー月が出てたよ」
そう言って志保ちゃんを見て驚いた。左の口角が、切れている。化粧で誤魔化そうとしているのか、肌色の粉の中から、血だか何だか分からない液体が染み出ている。
「口、どーした?」
茶色の瞳はいつかと同じように、揺れ動く。
「あぁ、転んだ」
「は?」
「転んだ」
転んで口を切るって、どんな転び方をしたんだ?
「目立つ?」
そう訊かれて今一度よく見てみる。隣で話していると分かる程度だ。
「近づかなければ目立たない。近づくと目立つ」
「じゃ、近寄らないで。」
手のひらで胸の辺りをぐーっと押された。椅子のキャスターが転がって、隣の隣の席まで飛ばされた。

本当に転んだんだろうか。まぁ嘘を吐く理由もないか。
そんな事を思いながら、朝1杯目のコーヒーを淹れるために、ポットのある机へ向かった。ドリップコーヒーが落ちるまでの間、今日の仕事の段取りを考えたり、途中でお湯を継ぎ足したりしながら、ふと志保ちゃんを見た。
半そでの白衣から覗く二の腕に、赤い痣のような物がついていた。肌が白い彼女の肌では余計に目立って見える。
俺はびっくりしてドリップコーヒーをそのままに志保ちゃんの隣に座った。
「ねぇ、二の腕、凄い事になってるけど、これも転んだとか、言う?」
えっ、と志保ちゃんは狼狽えて自分の左右の二の腕を見た。きっと、半袖なら隠れると思っていたに違いない。
コーヒーの匂いが居室に立ち込める。俺たち以外居室にいなくて、良かったかもしれない。

「何かあった?」
「ない」
「じゃぁ二の腕の赤い痕は?」
二の腕を擦りながらもぞもぞと答える。
「これは、彼氏と喧嘩して――」
あぁ、喧嘩したのか。こりゃまた随分とバイオレンスな彼氏だ事。
「彼氏、容赦ないな。張り手とかすんの?」
「まぁ」
「女相手に?」
「そんなに興味ある?この話」
志保ちゃんが今まで見せた事が無いイラついた顔をした。怒ってるんだろうか。
「ごめん」
一言謝って俺はコーヒーを取りに戻り、そしてデスクに戻った。

暫く志保ちゃんとは口をきかなかった。志保ちゃんはデスクの引出しから長袖の白衣を取り出し、それに着替えた。
ちらりと見たその二の腕には、指の痕までくっきりと残っていた。



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