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 手も繋がなくなった。高校三年の二月の事。白い雪はツツジの枝を隠す程に深く降り積もり、それでもなお、空から音も無くはらはらと舞い落ちて来る。
 私は制服の上に紺色のピーコートを羽織り、桃色のマフラーに首を埋めていた。
 指先が、かじかむ。

「寒いだろ、手ぇかして」
 少し前まではそう言って、先の先まで冷え切って青白くなった私の手を握り、真吾は自分のコートのポケットに、一緒に入れてくれた。
 だから私は、手袋を持っていなかった。彼が握ってくれるのは片手だけなのに、もう一方の手まで暖かく感じるのが不思議で、幸せで、くすぐったくて、嬉しかった。

「幼馴染だからって、ずっと一緒にいるなんて、無理なんだ」
 家の門前で、真吾は私に頭を下げた。唐突な言葉に狼狽え、言葉が出ない。
「恵に、ついて行ってやれなくて、ごめん」
 何か言い返そうと必死に言葉を探したが、雪の中に埋もれる小さなピアスでも探すように困難で、結局私は何も言えず、彼は雪を踏む足音を残して、隣の家の門をくぐり、玄関の中へと消えた。戸が閉まる、ガシャリと言う音が大袈裟に、しんしんと降り続く静かな雪の夜を突き抜けた。
 呆然としたまま自室へ向かった事に自らが気付いたのは窓の向こう、彼の部屋の明かりが、彼の影をカーテン越しに映じていたからだった。いつも隣にあった、当たり前の温もりを喪失した感に、ひとしきり涙を流した。
 それから卒業するまで、顔を合わせる事はあっても、クラスの違う真吾と私は言葉を交わす事が無くなった。
 その春、私は横浜にある国立大学に合格し、一人暮らしを始めた。真吾は地元の富山にある、私立大学に進学した。


「お母さん、私の卒業アルバムってどこにしまってあるんだっけ?」
 母は「うーん」と頭上に朧げな視線をやって、電球のマークが頭の上に咲いた様に「あ、二階の納戸じゃないかな?」手をパチンと叩いた。
 私は大学を無事卒業し、念願だった地方公務員となり、役所勤めをしている。
 付き合っている昭二が「若い時の恵が見てみたい」と言ったから、卒業アルバムを探しに、久々に富山の実家に帰ってきていた。
 母と一緒に二階の納戸に入ると、本棚の一角に中学と高校の卒業アルバムが仲良く並んでいた。
「あぁ、これこれ」
 少し埃を被っていたアルバムを私がパンパンと叩くと、母は唐突に咳き込んだ。
「ちょっと恵ぃ」
「ごめんごめん」
私は大袈裟なぐらいに顔を覗き込んで彼女の顔色を伺ったが、すぐに笑顔を見せた事に安堵し、足取りも軽く階下へと降りた。持ってきた紙バッグは口を開けて待っていて、そこに入れるつもりだった。
「どれ、ちょっと見せてよ」
 言いながら手を伸ばしている彼女の言葉にあまり気乗りがしなかったが、高校の卒業アルバムは既に開かれていたので仕方がない。中学のアルバムは先んじて紙バッグに突っ込んだ。
「あ、真吾くんだ。よくうちでお鍋食べたよね。懐かしいね。彼ももうすぐ、家を出るらしいよ」
「え、まだ隣の家で暮らしてるの?」
 留年でもしていなければ、もう大学は卒業しているはず。とっくに一人暮らしでもしているのだと、疑いなく思っていた。
「もうすぐ結婚するんだって。最近はちょくちょく婚約者の方が出入りしてるみたいで、堺さんも喜んでたっけ。恵ちゃんはどうしてる?って、心配してたよ、堺さん」
「あぁ、そう」
 妙に胸がざわついた。アルバムを眺める母をそのままに、何かに吸い寄せられるように、気が付くと隣の家の門をくぐった。会いたいなんてこれっぽっちも思っていなかったはずなのに、身体は勝手に動いて行く。止められない。鈴虫があちこちで羽を揺さぶる音がこだましている。
 会ってどうする。会って何を話すんだ。自分に問いかけながらも足は動き、手はインターフォンに伸ばされて、黒く四角いボタンに人差し指を押し付けた。

 呼び鈴に対応したのは、真吾本人だった。
「あ、久しぶり」
 私は平静を装い、ひらりと右手を挙げた。
「おぉ、元気だった?」
 真吾も苦々しい笑みを見せ、お互い探り探りの挨拶だった。私は彼の目を見る事が出来ず、ラガーシャツの開いた襟をずっと見ていた。
「結婚、するんだって?お母さんから聞いた」
「あぁ、まあ」
 その返答を待たずして、二階に続く階段から、清楚なスミレ色のワンピースを着た美女が降りて来た。私と目が合うと、にっこりと微笑み「どうも」と発した声もまた、澄んだ小川の様に美しかった。
 左目の下に泣きぼくろがあって、可憐さの中に潜む妖艶さを感じ取った。
 私はうまく作れていないであろう笑顔で彼女に会釈をし、真吾に「おめでとう」と言った。
 真吾は返事に窮している様子だったので「そんだけだから。じゃ」と言ってその場を立ち去ろうとした。背後から、強い調子で声をかけられ、私は足を止めた。
「待って恵、俺らも横浜に出るんだ。俺が転職してそれで」
 横浜。とひとくちに言ったって広い。偶然に会う確率など零に等しい。
「あ、そうなの。どこか出会えるといいですね。それじゃ」
 よそよそしい言い方をするつもりはなかったのに、すげない態度が滲み出る。どこか出会えたらなんで考えていない。会ってしまったら、今みたいに口から心臓が飛び出る程ドキドキしてしまうのだから。その時彼はもう、あのスミレ色の服を着た女性の、旦那さんなのだから。
確かめたかっただけなのかもしれない。彼は、彼の人生を生き、私の事は思い出としてしか認識していない事を。自分に言い聞かせたかっただけ、ただそれだけで。
 思い出は胸に秘めたまま。大人はそう言う事が出来てこそ、オトナなのだ。


 私と昭二が結婚してまだ半年も経たない頃だった。
 朝ごはんを食べながら、ぼんやりした頭で何と無くテレビの電源をつけた。最近夕立が多く、天気予報を見ておきたかったんだと思う。
『昨夜遅く、横浜線で、大規模な脱線事故が起きました。これまでに死亡が確認されている方の名前は以下の通りです』
 名前の羅列と、時折顔写真が映し出された。
「うわ、ぺちゃんこ。悲惨だねぇ」
「そうだな、今朝は振替輸送で混むだろうな」
 そんな何気ない話をしていた。夜遅くじゃ、乗客はそれ程多くなかったのだろうと想像する。朝のラッシュアワーにこんな事故が起きていたらと思うと恐ろしい。それが、どうやら終電車だったらしく、乗客は思いの外多かったことが、アナウンサーの酷く冷静な声で伝えられた。
 そのままご飯を食べながら画面を見ていた。次から次へと切り替わる画面のひとつに。ハッと息を呑んだ。

 整った清楚な顔、左目の泣きぼくろ、見た事がある。この人。誰だったか......。
「あ」
 堺清花?
 思わず手に持った味噌汁を零しそうになった。
「何? 誰? 知り合い?」
「幼馴染の嫁さんが映ってた」
 昭二は目を見開いて「えー、そんな事ってあるのか」と呟いた。
 私は一気に食欲が失せ、わずかに残っていた白米と味噌汁を、シンクの三角コーナーに捨てた。網目から濾された汁気が徐々に排水溝へ吸い込まれていく。
 あの日彼女が着ていた、スミレ色のワンピースが目に浮かんだ。

「お母さん?ニュース見たんだけど」
『さっき堺さんから連絡が来て、どうやらご葬儀は横浜で執り行うって言うからね。お母さんは行けそうに無いわ。恵は?』
「うん、ちょっと仕事の都合もあるし、急だから行けそうに無いかな」
『あらそう』
 落胆の声が聞こえた。
 私はいつも通り身仕度をして、仕事へ出かけた。
 私には牧田昭二という夫がいる。私は牧田恵になったのだ。
 それでも頭のどこかで忘れられない、堺真吾との有耶無耶な別れのシーンが、あの雪の白さが、昨日の事の様に思い起こされるのだ。だからこそ、葬儀に行く気にはなれなかった。独りになる彼に、手を差し出してしまいそうな自分が容易く想像できる。





「もう、寝てるか?」
 その声に私は眠りの底から這い出た。帰宅した昭二の声だった。
「婦人科は?行ってきた?」
 毎日深夜に帰ってくる昭二は、私が寝ていようと何だろうと関係無く、用事があれば言うなれば「叩き起こす」のだった。そうでもしなければ、私は起きない。
 暗い部屋の中で、廊下の明かりを背にした昭二の顔はよく見えなかった。私は何度か瞬きをし、昭二にピントを合わせる。
「行ってきたけど。話、明日じゃダメ?」
私は朦朧とする頭の中で、一生懸命に言葉を紡いだ。すぐにでも眠りに誘う無の世界が頭を支配しようとする。ここで戦っている懸命さに彼は、気付こうとはしない。
「はぁ?お前がそんなスタンスだから、いつまでたってもできないんだろうが」
 目の辺りを押さえる様にして昭二は俯き、そのまま部屋を出ていく。ドアが閉められると照明が遮られ、漆黒の闇が訪れる。
 睡眠薬を服用していると、一度落ちた闇から這い出る事がなかなか難しいという事を、昭二には全く理解してもらえない。

 翌朝、新聞を掴んで無言で起きて来た昭二に「おはよう」と声を掛けると、酷く不機嫌な声色で「婦人科の話は?」と言われ、唖然とした。朝から調子が狂う。
「タイミング法ってのを試してみて、ダメならまた考えましょうって。一年妊娠できないぐらいじゃ、まだまだ望みはあるって先生が」
 新聞に目を落としながらマグカップに入ったホットミルクをスズっと啜り「ふーん」とまるで他人事のように昭二は返事をした。聞いているんだかいないんだか。
 母子家庭で育った昭二は一人っ子で、その母をも大学時代に亡くし、結婚した今は私の実家、下田家との縁しか無いという。親戚との関係も薄いらしい。
 だからこそ、自分の血が流れる子供を、一日も早くこの腕に抱きたいんだ、そう昭二は熱く語っていた。
 だが、彼の焦りを知った私は更に焦り、性交渉をしてもしても毎月決まって生理が訪れる現実に頭を悩ませ、不眠症を患ってしまった。
 そのため、更に性交渉の回数は減り、妊娠から遠のいてしまっている。
「婦人科に相談してみたら?」
 そう言い出したのは昭二だった。彼なりの愛情なのだと感じ、その時は浮きだつ気分だった事を覚えている。
 私は仕事を定時であがり、最寄りの婦人科へ足を運んだ。
 一通り内診や簡単な検査を受けた後、医師はカルテと検査結果の紙を見比べながら、少しメガネの位置をずらして言った。
「簡単に見させてもらったけれど、あなた自身には妊娠する力があるみたいだね。安心してね。排卵日を狙って性交をする、タイミング法ってのがあるからね。先ずはそれをやってみましょうか」
 白衣を着た男性医師の前向きな言葉と、目尻を下げて笑う慈悲深いその顔に幾分救われた。
 次回の来院日を決め、帰宅したのが昨晩だったのだ。

「だからその日は、早めに帰って来て欲しいの」
 私の依頼に昭二は苦々しい顔をして「公務員じゃないんだよ、俺は」吐き捨てるように言うと、新聞で顔を隠した。
「お前が睡眠薬飲まないで起きてろよ。それで済む話だろうが」
 薬を飲まないと眠れない。だが夜遅くなってから規定量の薬を飲むと翌朝に響く。その調節が難しい。それも昭二は理解してくれない。進んで理解しようとはしない。
 タイミング法では、性交渉に適した時間まで指定されるらしいのだ。もっとも、そこまで説明したところで、昭二が自分の仕事を優先させるであろう事は想像に易い。
「分かった」
 理解を強いられるのはいつも私だ。結婚する前は、気が済むまで話し合える関係だったはずなのに。どこで狂ったのだろう。
 私は自分の食器を食洗機にセットし、水色の洗剤を垂らした。
「後はよろしく」
 そう言って昭二よりも一足早く、出勤した。


 最寄駅のホームには、タオルで額を拭うサラリーマンや、扇子で扇ぐ中年女性、周りの目も気にせず日傘をさす若い女性などで溢れていた。
 八月の暑さと混雑に、電車の遅延が重なり、皆がイライラしているように見えた。
 私は今朝の件があり、イライラを通り越して深い谷底をさまよっているような気分だった。
 列車が到着する軽快な予告音が鳴り、風を連れて列車がホームに滑り込んでくる。
 我先にと、小さな乗降口に人が殺到する。何をそんなに急いでいるのかと冷たい笑みが口端に浮かぶ。
 私は列の最後尾から列車に乗り込み、ドア付近に立つと、閉じたドアのガラスに身体を預けた。
 急に列車が動き出したので、一瞬「うわっ」と声があがり、よろける人が続出した。
 ふと、半年前の列車事故の事を思い出す。


 数駅先のターミナル駅で下車し、庁舎へと歩く。
 区役所の、保健福祉部門で仕事をしている。かねてからの希望だった。
 私の母はとても元気なように見えて、乳がんで乳房の切除をしている。
 再発を警戒して、定期的に受診をしているし、日頃から体力的に無理が掛からないようにしている。父もそれに協力を惜しまない。いつ見ても、仲睦まじい。
 そんな彼女達を見ていて、癌、特に女性特有の癌検診に対する啓発運動などに関わっていく仕事を選んだ。
 大きな都市で、多くの人を救いたい。そう願って富山から、横浜にある大学に入学をしたのだった。
「牧田さん、九番に女子医大の佐藤先生から電話です」
「あ、はい」
 ただ、今は他人の癌検診がどうとかそういう事よりも、自分の不妊症の方が切実な問題だ。
 正確にいうと、一年で子供が出来ない事は不妊症とは呼ばないそうだ。だからただ、子宝に恵まれない事、それが懸案事項だった。


 仕事の帰りに、大型ショッピングモールに寄った。
 医学関係の書籍が豊富に揃う事で有名な書店があり、そこで不妊症に関する本を買おう事にした。
 知識を得ておけば、将来的には、不妊症に悩む女性へのケアの仕事も出来るかも知れない。
 数多く並ぶ書籍の中から、専門的過ぎず、かつ簡素過ぎない一冊を選び、レジへと向かった。
「カバーはお掛けしますか?」と訊かれた。
「あ、カバーはいいです」
 そう言ったせつな、隣のレジに並んでいる男性と声がシンクロしてしまい、思わず顔を隠し赤面してしまった。隣からの視線を感じた。きっと相手も気まずい思いだろう。私は足早に書店を後にした。
 手提げ袋に入った本を持ち、家に帰るか迷ったが、今日はカフェで軽く夕飯を済ませて帰る事にした。
 昭二は平日、夕飯を家で食べない。午前様が日常だ。時々こうして私は、息抜きの為にカフェやレストランで食事を済ませる事にしている。




 パスタと紅茶のセットを注文し、テーブル席についた。私は先程買ったばかりの本を取り出し、目次をさっと眺めた。
 これなら、昭二も読んでくれるかもしれない。「不妊症に対する男性の関わり」という項目が目を引いた。女性向けの本ならでは、な記載だ。
 昨日、婦人科を受診するまでの間、長い事基礎体温をつけていた。毎朝起きたらすぐに体温を測り、記録する。生理が来れば生理日を記録。
 婦人科で行われる検査は、まぁ、気持ちのいい物ばかりではなかった。
 不妊症ではまず女性に負荷がかかるんだなぁと、そう思ったが、子供が産める「女性」性に生まれて来た事に後悔はしていない。

 隣に座った男性が「煙草吸ってもいいですか?」と話しかけてきた。
 私は本に目を落としたまま周辺視野にちらつく彼に「どうぞ」と言った後に、気づいた。この店は全席禁煙だ。
「あの、ここ禁煙......」
 隣に座る笑顔の男性を見て、目を疑った。心臓が痛い程に震えた。
 そこにいたのは紛れもない、私のかつての恋人、幼馴染、堺真吾だったからだ。
「何でこんなとこにいるの......」
 私は恥ずかしげも無く双眸を彼にじっと向けたままだった。心臓は早鐘を打つが如く、喉から飛び出さんばかりだ。
「さっき本屋で恵が隣のレジにいたから、尾行してきた」
「いや、そうじゃなくてさ」
 何でここに、この駅に、真吾がいるんだ。
「俺、この駅が最寄駅だから」
 彼はサンドウィッチを片手にひと口齧ってから「職場もね」と言った。
「奥さんの......事故の後、実家には戻ったんじゃないの?」
「だって仕事場が横浜なんだから、戻る筈ないだろ」
 それもそうか。それにしたってこんなところで会うなんて。真吾から外した視線のやり場に困った。聞きたい事は沢山ある。フォークを持つ右手の震えをどうにかしたかった。
「えっと、真吾はよく来るの?このショッピングセンター」
 私は左手で右手を押さえつけて訊く。
「あぁ、週に三回ぐらいはこのカフェで夕飯食って帰ってるな」
 今まで出会わなかった事が奇跡的だとすら思えてきた。私だって週に三度はこのショッピングモールに買い物に来るのだから。
 彼はもぐもぐとサンドウィッチを口に運びながら「二年ぶり、ぐらい?」と訊いた。
「そうだね、真吾の家にちょろっと顔を出した時以来だもんね」
 ふと、スミレ色のワンピースが頭をよぎる。整った顔。涙ぼくろ。
「あの、お葬式行けなくてごめんね、ってこんな時にする話じゃないんだけど」
 彼はふと頬を緩め「いいんだよ、急だったんだから」と言って飲み物の飲んだ。少しコーヒーの香りが鼻を掠めて初めて、それがコーヒーである事が分かる。
「で、恵は何してんの、こんなところで」
 私は夫の帰りが遅く、週に数回は一人で外食している事を話した。彼はぼんやりとした相槌を打つと、テーブルに裏を返して置かれた本に目をやる。
「さっき本屋さんで何の本買ったの?」
 無遠慮なその語り口が、昔のままで、そこにいる人物が紛れもない堺真吾である事に胸を撫で下ろす。
「不妊症の本。まだ確定じゃないんだけど、なかなかできなくて」
 ピンク色のその本をちらりと見せると「おぉ」と言いながら手を伸ばしてきた。
 指と指が触れた。瞬間、電気が走ったような感覚に見舞われた。真吾と触れ合うなんてそれこそ、何年ぶりだ。何を照れているんだ、中学生じゃあるまいし。何の反応も示さない真吾を少し恨めしく思う。
 彼は本をぺらぺらと捲ると「悩んでんの?」と横目で私をちらりと見遣る。
「悩んでなきゃ買わないでしょうが」
 なるべく深刻な言い回しにならない様に、笑い飛ばした。が、後で後悔した。
「いいよなぁ。俺なんてもう、種しかないからな」
 その言葉に、返す言葉を持ち合わせていなかった。彼はどうあがいても、あのスミレ色のワンピースを着た彼女との間に子供をもうける事は不可能なのだ。
 たった一年、子供が出来ないからと言って、軽はずみに「悩んでる」なんて言うんじゃなかった。耳に髪を掛け、一度深呼吸をする。
「あの、ごめん。それ仕事にも使うからさ。汚したらまずいから」
 そう言って彼からその本を取り返し、手提げ袋に戻した。器に残っているパスタを口にした。
「旦那とは、うまくいってんの?」
 真吾は私の嘘を見抜くのが得意だ。私の顔色や表情で分かる、と言っていた。それは何度も言われた事で、きちんと記憶に残っていた。だからとて久々に会った過去の恋人に「夫とは不仲で」なんて言えない。ぎこちなく取り繕った笑顔を向け「まぁね」と答えた。
 真吾は一口コーヒーをすすったあと、顔をこちらに向け、ひとつ、笑った。
「それ、嘘だろ」
 やはり。
「恵は昔っから、嘘が顔に出るんだよなー。恵が笑う時は、もっと可愛く笑うもんな」
 そう言われ、自分が赤面しているのを感じ、顔を伏せた。彼は「あはは」と軽く笑った。
「そういう正直なところがお前のいい所だし、旦那さんもそういう所に惹かれたんだろ」
 遠い目をしながらコーヒーを飲む彼の横顔に、暫く見入ってしまった。
 何も変わっていない、あの頃と。
 あの頃の真吾がそこにいた。私の手の届く範囲に、手の届かない存在として、そこに座っている。すぐそこに。彼の愛した人は、手の届かない世界へと旅立って行った。
 レシートの様な物を細かく細かく折りながら「どこに行っちゃったかと思えば、こんなに近くにいるんだもんな。幼馴染が」と言って、私の方を向き、あの頃と同じように笑って見せた。
 どうしてそんな風にして、私に笑いかけるの。一気に過去がフラッシュバックしてくるようで、座っているのに眩暈を覚えた。
 すっかり空になったパスタの皿が載ったトレーを持って「あの、そろそろ行くわ」と急いでもいないのに急いでいるふりをして席を立とうとした。
「あ、ちょっと待って」
 呼び止める彼は、鞄からスマートフォンを取り出した。
「連絡先、訊いてもいい?」
 意外な頼みごとに戸惑い、自分のスマートフォンの在処が分からなくなって焦った。
「ちょ、待って、あった」
 鞄の奥底からスマートフォンを取り出し、メールアドレスを教えた。
「そしたら後でメールするから」
「うん、それじゃ」
 そう言い残していそいそと店から出た。


 店を出てからも、彼のあの笑顔が頭に焼き付き離れなかった。
 あの頃のまま、何も変わっていない。奥さんを亡くし、失意のどん底を味わったはずの彼が、あの頃と同じ笑顔で私を迎えてくれている。
 それは嬉しい事ではあったが、無理をさせているのではないかと不安でもあった。

 帰宅をし、誰もいない家の中の電気を一つ一つつけていく。玄関、廊下、ダイニング、リビング。結婚する前からだ、慣れている。
 スマートフォンがメール着信を告げる音を鳴らした。真吾からだった。
『偶然ってあるんだなぁ。会えて凄く嬉しかったです。色々と悩みを抱えてそうだな。顔に出てるよ、うん。バツイチの俺で良ければ話し相手ぐらいならなれるから。何かあったらメールする事。んじゃね』
 その文面が、あまりに心に近すぎて、温度が高すぎて、私は正気でいられなくなり、力の抜けた膝がフローリングへと吸い込まれるようにその場でへたり込んで、涙を流してしまった。
 あの雪の日、彼とのピリオド。他に道はなかったんだろうか。こうして出会ってしまっては、そんなどうしようもない事を考えてしまう。




「明後日の、出来れば夜の、そうだなあ、二十時前後がベストかな。性交渉をもってみてくれるかな。翌日にはまた来院してください。あ、予約を忘れずにね」
 まだ二十五歳という若さ故、先生はあまり心配していない様子が見て取れる。
 私は「分かりました」とだけ伝え、診察室を後にした。
 お会計を済ませてから再度待合室の椅子に座り、昭二にメールをした。二十時時ごろがベストだと言われた、と。早めに連絡を入れておけば、仕事の調整をしてくれるかもしれない。
 返信は無かった。帰宅途中、何度か携帯を見たが、着信もメールもなかった。ある程度予期していた事だけに、極々冷静でいられた。

「昨日、メール見てくれた?」
 翌朝また無言で起きてきた昭二に呆れ、私も朝の挨拶は抜きにした。小さな反抗、可愛い物だ。
「二十時なんてまだカップ麺食いながら仕事してるよ。早く帰れても二十三時過ぎだな」
 その態度には申し訳なさの片鱗もなく、新聞を広げながら湯気の立つホットミルクを啜る。
 悪気はないのだろう。そういう性格だ、と容認して付き合っていかなければならない。これから先、子供ができてもできなくても、彼の、私に意見を押し付けるような性格に合わせて、過ごしていかなければならない。
 それが我慢ならないのならば......離れるしかあるまい。しかしそれは簡単ではない事ぐらい、承知している。夫婦になる事は簡単だ。だか他人になる事は難しい。

 結局、二日後の昭二の帰宅は日付が変わる頃で、それからセックスをしたが、疲労して帰ってきた夫と、翌朝婦人科に遅れないようにとの強迫観念に駆られる私では、そうそううまくはいかなかった。
 翌日、婦人科でその事を告げると「じゃあ来月ですね。一歩一歩進んで行きましょ、ね、牧田さん」と肩を叩かれ、医師に笑顔を向けられている自分が哀れで目尻に涙が滲み出た。
 何と無く、何と無くだけれど、彼との間には子供は授からないような、そんな気がしていた。


 その日は午後から出勤した。上司は相沢さんという年配の女性で、不妊治療をしている事を告げると、有休でも半休でもどんどん使っていいから、と言ってくれた。
 ご自身も二人目不妊で婦人科に通い、今は成人前後の女の子が二人、いらっしゃる。
 仕事中、デスクにおいていたスマートフォンが振動した。同時に、同期しているパソコン側にも新着メールが届く。差出人は真吾だった。
『今日は時間ある? 魚が美味い居酒屋があるんだけど、どう?忙しかったら断っていいんだぞ』
 まるですぐそこで真吾が話している様な文面だったので、そこにいない真吾に向かって思わず微笑んだ。
 私は暇である旨を伝え、お店の場所と概ねの時間を約束すると、少し浮き足立っている自分に気づく。


 店の暖簾をくぐった。「藤の木」という小さな居酒屋だった。店の奥の座敷から顔を覗かせる真吾が目に入る。
「いらっしゃい」とカウンターの中から威勢よく発声する男性に会釈をして、座敷へ向かった。
「何だ、いきなり浮かない顔だな」
 いきなり弱みを握られた様で、私は苦笑するしかなかった。本当に何でも見透かされてしまって困る。
「何かあったらメールしろって言ったろ?」
 セックスがうまくいきませんでした、なんてメールする馬鹿が何処にいるか。
「夫婦関係がなかなかうまく行かなくてさ」
 努めて笑顔で伝える。これが最も的を射ていて、色々な事を一纏めにする魔法の言葉だった。ただ、奥さんに先立たれた彼に、夫婦間の話をする事は何だか気が引ける。それも読み取ったように、彼は笑いながら言うのだ。
「あ、俺の事、気ぃ遣うのなしね。何話してもいいから」
 そう言って厚い胸板をドンドンと叩いて見せたので、私はクスリと笑ってしまった。
「その顔だよ、それこそが俺が惚れた恵の顔だよ」
 恥ずかしげもなく言う彼の頭の中はちょっと、半年前のショックでネジが外れかけているのかも知れない。私は彼の向かいに座った。スーツ姿の真吾に会うのはこれで二回目だ。
「大将、刺身盛り合わせと、生中二つちょうだい」
 あいよ、と威勢の良い声が店内に響いた。
「よく来るの?」
「まあね。だいたい常連客ばっかりだよ、ここは。大将も女将さんも良い人でさ。嫁の事で落ち込んでた時も、あいも変わらず威勢の良い接客でさ。その割に、時間が空くと静かに話、聞いてくれるんだよ」
 女将さんがビールとお刺身の盛り合わせを持って座敷にやってきた。
「あら、堺さんの彼女?」
 真吾は苦笑して「違う違う、幼馴染」と言った。
「昔の彼女」とでも言ってくれるかと期待したが、それは無かった。自分がそんなバカげた事を期待している事に、自分でも驚く。

 暫く無言で、ビールを呑んだり魚をつついたりしていた。痺れを切らしたように口を開いたのは真吾だった。
「お前、今、幸せか?」
 箸が止まる。その先に身体の振動が伝わる。至極シンプルな質問なのに、答えに窮している自分が可笑しかった。きっと真吾には答えが分かっている。それなのにわざわざ訊いている。
「人並みの生活は送れてるかなと......」
「幸せかって聞いたんだ」
 冷たさを感じる程の無表情で話を遮られる。しばし呆然とした。一般的な、幸せだと言い切れる生活を想像する。自分の生活とは天と地ほどの差があるように今は思う。
「幸せとは、言い切れないかな。不妊の事もあるし、夫と生活リズムも合わないし」
 私は結露した生ビールのジョッキを指先で撫でた。指に溜まった水が、コースター目掛けて落下を始める。
「俺と同じようになって欲しくないんだ」
「へ?」
 それまで無表情で私を責め立てるようだった彼が、急に柔らかな声を発した事に驚いた。暖かな声とは対照的に、顔が陰っている。
「俺の嫁、何であんな深夜に電車に乗ってたと思う?」
 暫く思案したが「仕事?」としか言えなかった。彼は俯いて少し笑ったようだった。吐く息の音が小さく耳に届いた。
「喧嘩したんだ。彼女の実家は八王子にある。それで実家に帰るって怒って、あの電車に乗ったんだ」
 私は何も言わず、いや、言えず、喧嘩の原因に触れるか触れまいか、散々迷った。だか意外な事に、その核心に触れたのは彼の方だった。
「彼女が浮気、いや、不倫してたんだ。俺にそれがバレて喧嘩になって。俺は、恵と嫁以外に身体の関係を持ったことはないって言ったらなぜか彼女は逆切れ。俺がしょっちゅう恵の名前出すからさ。あ、別に恵を責めてる訳じゃないからな」
 無意識のうちに瞬きを連発していた。真吾と奥さんの円満な家庭生活を思い浮かべていたのは私の勝手な想像だったのか。このカミングアウトには大なり小なりショックを隠しきれなかった。
「恵、大丈夫か?」
 中空をさまよっていた私の視線を、真吾は現実に引き戻してくれた。
「そ、そうなんだ。タイミングが悪いって、そう言う事を指すのかね」
 私は作り笑いにもならない苦い顔でビールに口をつけた。ビールが苦さを増した様に感じたのは気のせいだろうか。
「何かと恵の事を引き合いに出しちゃってたんだよな。俺達のあの中途半端な別れ方が、良くなかったんだと、俺は思ってるんだ」
 ジョッキをコトっとテーブルに置いた。私がこの数年間、ずっと引きずっていた事だった。あの雪の日。凍える指先。だがそれと、彼女の事と、何の関係があるんだろう。
「あの時真吾は何で、私に謝って、姿を消したの?」
 それまで言えないでいた、数年来の疑問に終止符を打とうと、私は姿勢を正して訊いた。納得のいかない答えだとしても、受け入れて消化する事ができれば、何かが変わるように思えた。
「俺は恵と同じ大学に進学して、恵と付き合いを続けたかったんだ」
 うん、と先を促す。
「ただ、俺は部活バカだったから、とてもじゃないけど横浜の、国立はもちろん私立だって届かない事を模試で知ったんだよ。そればご存知の通り」
 彼は刺身が乗った大葉を箸で畳んだり、巻いたりしていて、真剣な話をしている最中にこうして無意味な行動をするのは彼の癖だった。
「だったら、遠距離恋愛だってできた訳でしょ」
 大葉から目を外した真吾は一度私の顔を双眸で見つめ、また大葉をいじり始めた。
「好きな女には、側にいて欲しいんだ。そんな俺の我が儘の為に、お前の進路を、前途を、邪魔する事は許されないと思った」
 一つ咳払いをし「大将、生二つ追加で」と通る大きな声でオーダーをした。
「幼馴染だってそれぞれの夢や希望は違うんだ。ずっと一緒にいる事なんて到底無理な話でさ」
 酷く真面目な顔で俯く彼に、名前を呼びかけるぐらいしか出来なかった。
「真吾......」
 パッと顔をあげ、さっきまでとは別人の様に明るい顔でジョッキを持った。
「だから嫌いになって別れたとか、そういうんじゃないんだ。それは分って欲しい」
「......うん」
 妙な気分だ。内心ではとても嬉しかった。自分が嫌われる様な事をしたのではないかと、あの雪の降る日からずっとそんな思いを抱えていたから、結婚しても尚、真吾が奥さんに私の話をしていたという事に少なからず嬉しさが浮かぶ。
 まあ、彼女は亡くなってしまったし、死者には永遠に勝つことが出来ないのは解っている。
「今でも勿論、彼女の事は許せない」
 空気を切り裂くように真直ぐに飛んできた彼の言葉に驚愕し「はぁ」と真の抜けた相槌を漏らしたが、次の言葉に体が固まった。
「だけど、恵と別れた日の俺自身も許せない。恵の事、やっぱり諦められないんだ。引きずってるんだよ」
 酷く動揺した。目の前にあるすべての物が左右に揺れ動く。どう返答したら良いか分からなくて、デニムを履いた太腿を無意味に擦ってみる。
 私は残っていたジョッキのビールを一気に飲み干し「ご馳走様」と言って五千円札を一枚、爪楊枝立を重しにして置き、その場を後にした。
 女将さんの「またいらしてくださいね」という言葉が、酷く遠くから聞こえ、そして遠のいて行った。




『今日の事は悪かった。忘れてくれ』
 家に帰ると真吾からメールが届いていた。
 忘れろと言われて水に流せる程度の軽妙な言葉なら、私はあんな風に店を飛び出して帰らなかった。そもそも私には、仲の良し悪しは別として、婚姻している夫がいるのだ。
 忘れようにも忘れられない。「恵の事もやっぱり諦められないんだ」なんて既婚の私に言う言葉にしては、アンフェア過ぎる。
 あの雪の日、理由も言わず、私から勝手に離れていったくせに。一度も振り返らなかったくせに。
 私だって諦められない。そう言いたい。そう言ってあの頃に舞い戻れたら、どんなに幸福か。
 大学に進学し、昭二と付き合い始めてからも絶えず、頭の片隅には真吾がいた。昭二の中に真吾を探しもとめていた。優しく、屈託なく笑う昭二の中に、真吾を見ていた。彼らの唯一の違いは、私の嘘を見抜けるか見抜けないか、そのぐらいだった。
 学生の頃、周囲の友達は、夏休みや正月に実家へ帰っていたが、私は一度も実家に戻らなかった。隣の家に真吾がいる事を過剰に意識してしまう事は容易に想像できたから。
 婚約を知ったあの日、彼女を見た時に感じた胸苦しさはきっと、嫉妬心だったのだろう。どこまでもしつこい女だと、自分を詰ってやりたい。
 真吾が横浜に来る事を聞いて、横浜のどこに移住するのかがとても気になったが、訊けなかった。聞いたら負けだと思ったから。血眼になって探してしまいそうだったから。
 私の中に常に真吾がいた。今だっている。諦められないのは真吾も私も同じなのだ。
『忘れられないよ。私も同じだから』
 震える指先は、ゆっくりと液晶をタッチしながら、そう返信した。涙で曇る視界の中に、場違いな程に明るい液晶画面が、二重にも三重にもなって映り込む。
 たまには正直になってもいいと思った。真吾に嘘は通用しないんだから。
 いつも昭二の動的・静的な圧力に自分を隠して生きているんだから。


「結局婦人科の先生は何て言ってたんだよ」
 土曜の午前に出勤して行った昭二は、夕方頃帰宅し、ビールを呑んでいる。
「また来月同じようにやってみようって。排卵日が土日に近いと計画が立てやすいんだけどね」
 私は夕飯の支度をしつつ、カウンターに置いた小さなカレンダーにちらりと視線を送った。
 今月は疲労と緊張でうまく行かなかった。何も予定のない日曜に行為をして月曜に病院を受診する。これが理想的だと思った。しかし昭二は、予想を大きく上回る加減で私を闇に突き放す。
「俺は土日ぐらい、ゆっくりしたいけどな」
 丁度テレビでナイター放送が始まり、耳障りな声援がスピーカーから聞こえてきた。歓声、メガホンを叩く音。怪訝な顔で彼を見遣る。
「平日は疲れてて、土日はゆっくりしたくて、そしたらいつセックスするの?」
 私は苛ついていた。声の震えを悟られまいと、腹に力を込める。婦人科の事は私任せ、男性側の検査は「俺は大丈夫」と断った。平日は午前様で土日はゆっくりしたい? 子供が欲しい人間の言う事なのか。
「そんなんじゃ、不妊治療なんて進まないよ」
 私は苛立ちを何とか隠して、やんわりと不満を漏らした。
 昭二は缶ビールを呑みながら、テレビに視線を釘づけて「気が向いた時にやってりゃ出来るだろ」と言い放った。
 婦人科に行くように勧めたのは、昭二じゃなかったのか。彼に勧められたからこそ、不快な検査にも耐えてきたのではないか.....。私は頭の中のピアノ線のような強くしなやかな糸が、一気に伸びて、弾け切れる音を聞いた気がした。その瞬間には声を張り上げていた。
「誰が不妊治療しろって言ったの!」
 昭二に向かって怒鳴るなんて、初めての経験で、昭二はさすがに驚き、テーブルに缶ビールを置いた。
「だって俺たちの為だろう」
「じゃぁどうして協力しようとしないの?」
「俺はそんなに急いじゃいないんだよ」
 そう言って首を傾げながら視線をナイター中継に戻したので、私はキッチンの作業台にフライパンをドンと叩きつけた。フライパンは堅い金属音を鳴らし、すぐに音を止めた。
「自分の血が流れる子供を早く抱きたいって言ったのは、昭二でしょう!」
 キッチンから足早に寝室へ入り、コートを羽織ると、財布と携帯だけを持って玄関を飛び出した。
 十一月の夜空は寒々しく澄んでいて、鼻腔を通り抜ける冷たい空気に頭が痛くなった。
 どこに行くあてもなかった。ただ、歩いていた。
 子供が欲しいのに、何故協力をしないのか。私任せなのか。自分は参加しようとしないのか。そもそも子供とは、愛し合う二人の間に舞い降りてくる贈り物ではないか。
 私と昭二が愛し合っているのかさえ、今の私はよく分からなかった。子供をつくるためのセックス。最近はそういうスタンスだ。
 気が付くと、電車に乗りターミナル駅に到着していた。そのまま夕飯は外で食べようと思い、ショッピングセンターに向かう事にした。


「茄子とトマトのペンネと、アールグレイのホットください」
 会計を済ませ、番号札とトレイを持って空席を探す。
 無意識に、真吾の姿を探すが、そこには知らない顔ばかりが並んでいた。あれから暫く時間が経った。今度こそ、もう会う事はないかも知れない。私の姿を見つけても、彼は近づいてこないかもしれない。
 スマートフォンを取り出してディスプレイを見ると、誰からのメールも着信も無かった。
 私の初めての反逆に対し、昭二は何も感じていないのだろう。
「どうせいつか戻ってくるだろう」そんな風に軽く考えているのかも知れない。
 今日だけでも、ビジネスホテルに泊まって帰るか......そんな事を思わないでもなかった。駅前にはいくつものビジネスホテルが並んでいる。明日は日曜だ。ゆっくりできる。昭二にとっても己を振り返る切っ掛けになるかもしれない。
 番号札と引き換えに店員がペンネを運んできた。湯気に乗ってガーリックとトマトの香りが漂う。
 スマートフォンで小説を読みながら、然程空腹を感じていない胃の中に、ペンネを落として行く。ふと視線を周囲にやると、元々空席が少なかったカフェ内が殆ど満席になっている事に気づいた。丁度、夕飯時になったのだ。早めにお店に入って良かった。そう思いながら再び小説を読み始めた。

「ここ座るぞ」
 二人掛けのテーブルの対面にある椅子を引いた声の主が誰かは、声を聞いた瞬間に分かった。瞬時に顔を上げると、真吾が子供みたいに笑っていた。
 私はペンネを喉に詰まらせそうになり、盛大にむせて顔が真っ赤になってしまった。
 以前のメールのやり取りが頭を掠め、冷静でいられなくなったのは私だけで、真吾はいつも通りの真吾だった。
「そこから顔が見えたから、寄っちゃった」
 そう言って店内にある窓を指差した。私は咳き込んで赤くなった顔を鎮めるために、水をがぶがぶ飲んだ。
「土曜なのに、どうしたの? 旦那さんは?」
「ん、ちょっとね」
「喧嘩?」
「うん」
 何でも見透かされている様で怖くもあり、嬉しい気持ちもあり、モヤモヤする。
「この前居酒屋でさ、ちょっとお金を多く貰いすぎちゃったから、どうかしら? この後お茶でも付き合ってくださいません?」
 その誘い方が可笑しくって、私はペンネを噛みながら笑みをこぼし、幾度か頷いた。




 カフェまでの道すがら、いくつものスクランブル交差点を渡り、喧噪を抜けた。
 駅前ビルの二階にあるディーバというカフェに入った。
 私も時々利用するカフェで、床から天井に伸びる大きなガラス窓から、都会の喧騒を眺められる。
「カフェからカフェにハシゴするのも何か、変だな」
 真吾はそう言って肩をすくめ、私もつられて笑った。確かにそうだ。あのカフェで喋っていたって良かったのに。でも、こっちのカフェの方が落ち着く雰囲気である事を私は分かっていた。彼もそれを承知でこちらに誘導したのかも知れない。
 カフェに入ると約束通り、真吾が代金を払い、私はホットのチャイを頼んだ。
「俺のおごりだ、って言うのも何年ぶりだろうな」
「おごりじゃない。私のお金なんでしょ」
 そうだった、と真吾は頭をぽりぽりと掻いた。
 ホットコーヒーとチャイが載ったトレイを持って、窓際の席についた。ガラス窓からは少し冷気が伝わってくるので、私はコートをひざ掛け代わりにした。
「寒い?」
「うん、ちょっと」
「俺のカーディガン貸そうか?」
 そう言うと真吾は紺色の薄手のカーディガンを脱ごうとしたので、私は手で制止した。優しさまであの頃と同じで、苦しくて、息ができそうになかった。
「そういや居酒屋で、悪かったな。変なこと言って」
 忘れろと言った癖に、思い起こさせる。結局は忘れて欲しくないと言う事か。
「忘れろって言った癖に。私の返信メールだって、読んだくせに」
 彼は下を向いてふっと笑う。
「まさかの返信に、俺は狂喜乱舞だぜ」ふざけて言っている感じが否めないので、私はその言葉を無視する事にした。
 チャイを一口飲むと、喉から食道にかけて、熱い物で覆われた。
「そんで、旦那さんと、何で喧嘩したの?」
 居住まいを正して真吾は真面目な顔で私に訊く。彼の感情の七変化が何だか可笑しくて、私は俯いて少し笑った。ころころと表情を変えるのは、本当に子供のようだ。
「例の、不妊治療の事でさ。私は仕事もあるし、子供はもう少し後でいいと思ってたんだ。でも子供がすぐにでも欲しいって言ったのは彼なのに、全然協力してくれないから、いい加減ブチ切れた」
 だんだんと顰め面になって話す私とは対照的に、真吾は笑顔でこう言うのだった。
「恵が切れるなんて、珍しいじゃん。俺にビンタした事だって、一回しかないよな」
 如実にその事を思い出して私は苦笑する外なかった。
 高校時代、実家のベランダに出た私が目撃したのは、真吾の家の前で、真吾に抱き付く女子生徒だった。彼女が一方的に抱き付いているなんて思いもせず、私は逆上し、彼女が帰ったのを見計らって外へ出て、家に入る寸での所で真吾の首根っこを引っ張り、振りかぶった手でビンタをした。あの時の、真吾の驚いた顔と言ったら......。傑作だ。
「そんな事もあったっけ」
 うっすら笑みをうかべながら窓の外に目を遣った。赤い電車が一本、同じ目線を通って行く。静かな日常に、真吾が入り込んでいる事が、未だに不思議でならない。
「確かに、話を聞いてる限りじゃ、生活リズムが合わない旦那さんとの子作りってのはなかなか難しそうだな」
 真吾はコーヒーを口元に持って行き「あつっ」と声に出して言う。
「休みの日は、ダメなの?」
「休みの日は休みたいって。それに、子作りに最適な日って、あるでしょ。排卵日とか、そういうの」
 あぁそうか、と頷き、彼も窓の外に目を遣った。何かを考えているようにして手を口に持って行ったり頬に持って行ったり落ち着きなく、そして口を開いた。
「俺の奥さん、妊娠してたんだ」
 私は息を呑んだ。心臓が、ぎゅっと握られているように、痛い。
「恵の旦那さんと同じ、すぐにでも子供が欲しいって言ってさ。結婚もそうだ。すぐにでも結婚したい。何でも早く早くで、ろくに付き合いもせずに結婚したんだよ、実際」
 彼は自虐的に笑い、コーヒーを啜る。
「合コンで知り合ったんだ。まぁ出会いは何だっていいんだ。だけど引っ張る力が強いんだよなぁ。好きだー、好きだで結婚に持ち込まれて、避妊はしないでくれって言われて。俺は何にも意見をする権限も持てなかった。今のお前に少し、似てるな」
 すっと右手を差し伸ばしてきたので、私はふっと笑いながらその手をパシっと払った。彼は下を向いて口角を上げる。
「すぐに子供が出来たの?」
「うん、あっという間で拍子抜けした」
 してもしてもできない夫婦。何も考えずにできる夫婦。一体どこに差があって、こんな事になるんだろうか。額に拳を押し付ける。
「恵さ、お前、旦那の事、愛してるか?」
 伏せていた目を、すっとこちらに向ける。そこにはまるで答えがわかっているような、達観した表情がみて取れた。いつも自問自答している。今の昭二を愛しているか? 結局、今の夫の事は......。彼が目の前から姿を消したら、私は悲しいか? いや、きっといつも通りの日常を過ごしていけるのだろう。
「愛してない。いや、愛せてないって言うのかな。愛されてもいないと思ってる」
 彼は首の付け根をぐいぐい押しながら、頭を左右に傾けた。
「そうなってくると難しいよな。セックスが義務に変わる」
「そうだね」
 それ以上の言葉が見付らない位、的を射ていた。
 真吾は再び目線を遠くへやり、静かに口を開く。「あの、雪の日」
「うん」
「あの日、俺が恵を手放さなかったら、俺たちは今でも一緒にいられたかなあ」
 私は震える手でチャイのカップを持ち、一口飲んだ。「分からない」
 もしも、万が一、なんて事を考えた所で、前に進める訳ではない。何の得にもならない。
 逆に......後悔の念が芽生えてしまうのが酷く辛かった。私が彼を呼び止めていれば。雪を踏む足音を後ろから追っていれば。
「言える事は、全部過去だって事。二人とも、お互い愛する人が出来たって事。それが真実」
 俯いたまま数回頷く真吾からは、表情が欠落していた。
「違いない。けど改めてそう言われると、何か悲しいな。俺ら、ずっと一緒だった筈なのにな」
 走馬灯のように思い出がよみがえるとはこの事か、ふと思った。幼い頃からあの雪の日までの思い出が一気に駆け巡り、気づくと私は両の瞳から生ぬるい涙を流していた。物心がついた時には隣にいた。誰も邪魔しなかった二人の関係を、無惨にも引き裂いたのは自分たち自身なのだ。
「あ、ごめん」
 鞄からティッシュを取り出してくれた真吾に言うと「俺こそごめん」と謝罪される。
「今の話をしてても結局俺ら、過去の話に戻っちゃうな。それだけ忘れられないって事なんだろうな。二人の事って。大切なんだよ」
 私は無言で頷き、ティッシュで涙を押さえた。
 デニムのポケットに入れてあったスマートフォンが振動した。着信は、昭二からだった。一度咳払いをしてから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『恵、今どこにいんの』
「カフェ」
『いつ帰ってくんの』
「分からない」
『あ、そう。俺明日出勤になったから。じゃぁ』
 そう言って一方的に通話が切れた。電子音が単調に続く。これが愛し合う夫婦の会話な訳がない。
「旦那さん?」
「うん。今日は帰らなくていいみたい。その辺のビジネスホテルにでも泊まって帰るわ」
 ふーん、と言いながらカップの底の方に残っているコーヒーをぐっと飲み干し、私に双眸を向けた。至極真面目な顔つきをしている。
「なぁ、俺んち、来ない?」
「は?!」
 素っ頓狂な声を上げるわたしに、周囲の冷たい視線が突き刺さる。
「別に何もしないよ。嫁の仏壇があるからそんな気も起きないし。ビジネスホテルに泊まるよりは金もかからないし、いっぱい話もできるしさ」
 私は既婚者だ。いくら幼馴染だといったって、過去に一線は越えている二人だ。これは断るべきだと思い「有難いけどそれは無理」と視線を合わせずに伝えた。
「どうして?」
「だって既婚者だよ? 私」
 胸の奥底では、彼の家に行って、一晩中彼と昔話をしていたいと願っているのに、「既婚」という縛りが人としての常識を持ち出し、ガードをする。
「オールナイトでカラオケやってると思えば、気持ちも軽いでしょ? ボーリングでもいいや」
 真面目だったはずの彼の顔はもう既に無邪気な笑顔に変わっていて、私が最終的には必ず首を縦に振ることが分かっているのだろうと、私は苦笑しかできなかった。
「今時ボーリングでオールナイトなんてやらないよ」
 私は席を立とうとしたが、スマートフォンを持つ腕を掴まれた。
「俺は、一緒にいたいんだ。今日だけでいい。絶対何もしない。お前が傷ついてるのを見過ごしたくないんだ」
 彼は一度も目を離さず捲し立て、私も目を離す事が出来ず、瞳が左右に揺れた。一瞬、カフェ内のBGMが途切れたような気がした。
「あの、あ、分かった。うん。じゃぁ、今日だけ」
 そう言うと、子供みたいに「良かった」と笑顔を見せると、飲み干したドリンクカップが載ったトレイを返却スペースへ置きに行った。

 お互い愛が消えうせた夫婦で夜を過ごすのと、お互い思いが残ったままの幼馴染と夜を過ごすのでは、どう考えたって後者が魅力的に決まっている。
 それが一般常識から少し外れた行動だとしても、だ。




 駅から十分程歩いたところにある、綺麗な白いマンションに到着した。
 道すがら「ここの酒屋さんは日本酒の種類が豊富で」とか「このコンビニは寄り道スポット」と言って常に会話を切らさないように、私をリラックスさせてくれようとしている真吾の気持ちが酷く嬉しくて、また少し涙が零れそうになったのを、下睫毛が耐えた。
「どうぞ」
 中に入ると廊下を抜けた先にリビングがあり、そこに通された。
 省スペース型の白い仏壇に、涙ぼくろの彼女の写真が飾られていた。百合の花の様な可憐さがある、素敵な女性だ。
「お線香、手向けてもいい?」
「あぁ、ありがとう」
 私はそばにあったライターで線香に火をつけ、合掌した。
「立ったままで線香やる仏壇なんて、洒落てるよな、最近の仏具は」
 キッチンから声がした。「発泡酒しかないんだけど」と言ってカウンターに二本の発泡酒が置かれた。
 私はリビングのソファに身を沈め、彼女の写真をじっと見つめていた。ニュースで見たあの顔よりも、ずっと素敵で、どこか芯の強さのような物を感じさせる女性だった。自分とは正反対だな、と思うと劣等感に支配される。
「はいどうぞ」目の前にコースターと共に発泡酒が置かれた。真吾は対面のラグに直接座ったので、私もソファから降りて、ラグに座った。
 缶と缶を合わせて、私は彼女にも缶を向けて、そして一口発泡酒を呑んだ。
「高校の時、よく缶チューハイ買って、部屋でこうして呑んだよな」
「やってたやってた。粋がってたね、今思うと」
 それがまたこうして、今度はお酒が飲める歳になって、二人で一緒にお酒を呑むなんて、想像もつかなかった。エアコンから発せられる生ぬるい空気と、冷えた発泡酒が丁度良かった。
「恵のお母さんは調子どうなの? 最近は」
「うん、電話で聞く限りは安定してるみたいだけどね。いつ再発するか分かんない病気だから、万が一の事はいつも考えてるつもり。真吾のおうちは?」
 真吾は胡坐をかいていた脚を真直ぐに伸ばし、後ろに手を突いた。
「うちは親父もかーちゃんも、殺しても死なないと思う」
 私は声を上げて笑った。真吾のご両親は明るくて、元気な人達だから、何か妙にその言葉がマッチしていて可笑しかった。
「富山にはあんまり帰ってないの?」
「葬式とか法要があったから、親がこっちに来る事が多くて、別に俺が富山に行かなくてもいっかって感じ」
 ふんふん、と頷きながら発泡酒に口を付ける。
「恵は、婦人科でそっち系の病気とかは見つからなかったんだろ?」
「うん。そっち系は大丈夫だったけど、子作り一年目でストレス性の不眠症になっちゃってさ、毎日睡眠薬飲まないと眠れなくて」
 と言って思い出した。今日は眠剤を持っていない。背中にジワリと冷たい物が走った。
「今日、大丈夫か?」
「分かんない。今までこんな事、なかったから。あぁ財布にでも入れておくんだったー」
 真吾は笑って「高校生のコンドームみたいだなぁ」と笑った。その余裕の笑顔をみて、もう、どうでもいいか、と自分の中に無理矢理立てていた軸のような物を、折り曲げた。
 眠れなかったら寝なければいい。明日は日曜だ。何の用事もない。眠れなければ家に帰ってから眠ればいい。それに......この夜が永遠に続けばいいとさえ思った。真吾と語らう夜が、永遠に。

「役所に勤めてるんだっけ?」
 急に現実に引き戻されてあたふたする。
「え?役所?そうそう。区役所の保健福祉。真吾は結局何やってるの?」
「武器商人」
「バカ」
「初めは零細企業で営業やってたんだけど、今は不動産屋で働いてんだ。宅建とったから」
 私は発泡酒を口にしながら無言で何度か頷いた。「すごいね」
「俺だってね、やればできる子なんだから。野球ばっかりやってたから大学は地元になっちゃったけどね。やればできたんだから」
 確かに野球ばっかりやっていた。私は彼の部活が終わるまで、図書室で受験勉強をしながら待っていた。個人ブースで勉強をしていると、遠くから廊下を走ってくる音が近づいて来て、それから乱暴に図書室のドアが開かれるのを合図に、私は参考書を片付け始める。学校の通用門を抜けて駅まで手を繋いで歩き、電車に乗る。夏はちょっと汗の匂いがして、冬は湯たんぽみたいに暖かい真吾。昨日の事の様に思い出すと、鼻の奥がつんとする。青い春。もう戻らない。
「部活に情熱を注いで地元の大学に入学して、離れ離れになったのに、こんな風にお酒を呑む事になるとはね」
 話した事の堂々巡りの様な気がしたが、言わずにいられなかった。
「こういう運命の元に生まれたんだな、俺たちは」
「だね」ぽつりと零れるような返事をすると、どちらからともなく笑い始める。最終的には二人とも爆笑した。
「なに運命って、ダサい」
「古くさいしな、中二だな」
 こうしていると、本当にあの頃に戻ったみたいだ。私の部屋で、真吾の部屋で、他愛もない事を話し、笑い飛ばし、泣き喚き、慰めあった事を。
 過去をいくらほじくり返したって前に進めない事なんて十分に分かっている。だけど良いではないか、今夜だけ、少しだけ。

 話をしているうちに、真吾の欠伸が多くなって来た。
「眠い?」
「眠くないよ」
 彼はワザと目を見開く様にして私を凝視し、その顔がなかなか恐ろしくて「やめなよ」とテーブル越しに頭をペシッと叩いた。
「もう寝ようか。俺、布団敷いてくるからちょっと待ってて。あ、ちゃんと二組敷くから心配しないで」
 そう言い残して和室に入って行った。
 私は泣きぼくろの彼女の遺影にもう一度手を合わせた。
「今夜だけ、彼のそばにいさせてください」
 そう心の中で唱えた。彼女はどう思ったか知らないが、私はそれで満足だった。
「歯磨き、するぞー」
 声がしたのは洗面所の方だった。
「歯ブラシある?」
「母ちゃんたちが頻繁に来てた時に、来客用の歯ブラシを買っておいたから大丈夫。あ、俺の部屋着も貸すよ。彼女の服は全部向こうの実家に戻しちゃったから」
 洗面台に並んで、順番に歯磨き粉をつける。
「ねえ、実はこういうの、初めてじゃない?お泊りとか、した事なかったし」
 真吾は歯磨き粉のキャップを閉めながら「そうだな」と鏡越しに微笑んだ。
「恵が歯磨きするところなんて初めて見るぞ」
 歯と歯ブラシの擦れる音が響く中、鏡越しに笑い合う。真吾はさっさと口をゆすいで、コップを渡してくれた。
「部屋着は短パンと長袖のTシャツでいいか」
「お泊り会みたいで楽しいね」
 初めは常識はずれな行動に躊躇していたのに、いつしか満喫している自分がいた。
「おパンツは貸せないけどな。シャワーも浴びてないけどまあ、死にゃしないから」
 彼の口癖だった。「死にゃしない」という言葉。歯磨きをしなくても、シャワーを浴びなくても、郵便配達を居留守しても、遅刻をしても「死にゃしない」。
「洗面所で着替えていいよ。顔も洗っていいし。メイク落としはないけど。あ、タオルタオル」
 外出予定のない土曜だったこともあり、メイクはほとんどしていなかったので、ざっと顔を流し、借りた部屋着を着て和室に向かった。
「恵は俺の左側が好きだったよな」そう言うと彼は、右側の布団に腰掛けた。
「じゃあ遠慮なく左側で」
 布団は何となく、香水の様な香りがした。今日一日、貸してください。顔の見えない彼女にそう念を送った。
「んじゃ、電気消すぞー。夜中フラフラすんなよー。それから、眠れなかったら俺を叩き起こす事。一晩付き合ってやらぁ」
 私は彼の心遣いに相応しい言葉が見つからなくて、「ありがと」ただそれだけしか言えなかった。



 電気が消えた。遮光カーテンが閉じられている部屋の中は、幾つかの家電製品のスイッチ以外は漆黒の闇だった。今の所眠りにつける気がしない。私は見えない天井を見つめていた。
「なあ、恵。一生のお願いって、何回までアリだと思う?」
 突然の話で「え、普通一回じゃないの?」と答えたが、正しかったんだろうか。
「俺は今まで、誰かに一生のお願いを使った事がない。それを今、使いたいんだ。贅沢な事に、後一回、使える様に、一生のお願いは二回にしたいんだ」
 なぜ私に許しを乞うのか分からないし、言う事がまるで子供だなと思いつつ「何、一生のお願いって」と含み笑いをしながら訊いた。
「馬鹿にしないでよ。あのさ、手をさ、繋いで寝てくれないかな」
 余りにも可愛らしいお願いに拍子抜けした。それでも彼にとっては一大決心だったのかもしれない。
奥さんの遺影が飾られているこの部屋で、奥さん以外の女と手を繋いで眠るなんて。
「減るものじゃないし、別にいいよ」
 そう言ってモゾモゾと布団から右手を出すと、彼は左手で私の手をギュッと握りしめ、自分の布団の中に仕舞った。
 寒い日に手袋なしでも両手が暖かかった、冬の日々を思い出した。はらはらと舞い落ちる雪。さすような空気。彼の温もり。
 すぐに彼の規則的な寝息が聞こえて来た。こうして同じ部屋で夜を明かすのは初めてだ。案外、幼馴染って近過ぎて、出来る事が限られるんだなと、今にして思う。
 私の落ち込んだ顔を見て、旦那との不仲を知って、私を放っておけないと言ってくれて、嬉しかった。一方彼は、奥さんを半年前に亡くした事を殆どおくびにも出さずに振舞っていた。
 手を握って欲しい。今まで我慢して来た、彼の孤独を埋めるための、一生のお願いだったのかもしれない。寂しかった。我慢していた。そういう事かもしれないと思うと自分の鈍さ加減に呆れるし、心遣いの無さに辟易する。
 彼が安心して眠りについてくれて良かった、そう感じた。自分ばかりが不幸だと言い、真吾の辛さに気づいてやれなかった自分を悔いた。手を更にギュッと握ると、彼は無意識に握り返して来た。
 薬を飲まないと目が冴えて、日付が変わっても寝付けないまま、スマートフォンで小説を読んでいたりする事が日常だったが、今日は違った。
 真吾と握ったその手から、暖かいものが体に流れ込んで来て、それが全身に回り、意識が段々朦朧としてくる。その感覚は、とても懐かしい物だった。
「あ、眠れる」
 そう感じた。眠剤なしで眠るなんて、半年以上昔の事で、不思議だった。深く深く、落ちて行く、感覚。


 翌朝、もう握った手は離れていた。
「んー、おはよ。眠れた?」
目を瞬かせながら真吾は伸びをした。
「半年ぶりに、眠剤なしで眠れたよ、ありがとう」
 手を握ってくれと頼んだのは彼の方なのに、結局は彼に助けられている自分がどうしようもないなぁと、私は首根っこを掻く。
 布団を畳むと「朝は簡単な物でいい?」と訊くので「お礼に何か作らせて」と申し出た。

 週に数回は外食をすると言っていた真吾だが、冷蔵庫にはそれなりの材料が詰まっていた。
「俺、パン食だから」
「じゃあ食パンと、ハムエッグと、サラダと、コーヒーでどう?」
 カウンターから顔を出すと、彼は親指を上げて応えた。目を合わせて微笑み合った。
 人の家の台所には、どこに何があるのか分からず焦ってしまう。あっちに行ったりこっちに行ったりで落ち着かない。それなのに彼は呑気に言い放つ。
「なーんか、自然なんだよな。恵がそこに立って、俺がここに座ってるのって、今まで経験が無いのに妙に自然なんだよな」
 私は赤面を悟られない様に下を向いて作業に没頭した。
「恵。ずっとここにいたらいのに」
 破壊力のある言葉だが、無理難題はスルーするに限る。今日はあの、泥水の中の様な重苦しい現実、自宅マンションに帰らなければならない。それが現実なのだ。そろそろ現実世界へと戻る準備をしなければ。
「わぁ、朝ごはんっぽい!」
テーブルに置いた朝食を見て真吾は舞い上がっている。
「だって朝ごはんだもん」
 聞くと、奥さんは料理がからっきしで、朝はトーストとコーヒーで済ます毎日だったそうだ。それでも新婚だった二人に、お互い不満は無かったんだろうと思うと、妬ける。
「美味いなー。何で俺の嫁にならなかった?」
「バカ。奥さんの遺影に五万回謝れ」
 真吾はククッと乾いた声で笑った。
「今日はどうするつもり?」
 あまり考えたくなかったが、そういう訳にもいかない。
「彼の帰りを待って、治療する意志があるのか問いただす。返答によっては......離婚も視野に入れなきゃいけないかもしれない。離婚するなら子供が出来ないうちの方がいいもんね」
 真吾はサラダのレタスをフォークで刺しながら「俺は恵が幸せになれる一番の方法を選んで欲しいな。少なくとも今のままじゃお前、潰れちゃうからさ」と言ってレタスを口に運んだ。
 私はしばらく無言で朝食をつついていた。

 食器の片付けまで済ませて、部屋着を返却し、身支度を整えた。
 また仏壇の前に立ち、お礼をした。
「何かあったら俺の所に来ていいから。俺は何もしない。お前の話を訊いてやる事ぐらいしか出来ない。でも眠剤なしで眠れるぐらいリラックスできるのなら、それだけでも儲けもの、だろ?」
 本当は私が、彼をサポートしていかなければならないのに、手を繋ぐ事しか出来なかった。歯痒くて、悔しくて、ずっと変わらない彼の優しさが身に染みて「帰りたくない」と口をついて出そうになったのを何とか耐えた。未練がましい女だ。
「じゃ、私はそろそろ」そう言ってテーブルに置いた財布とスマートフォンをデニムのポケットにしまい、玄関に向かった。
 一緒に玄関まで来た真吾が「恵」と声をかけたので、ブーツを履く手を止めて斜め上にある彼の顔を見た。
「お前は昔っから我慢しぃだけど、すぐ顔に出る。俺にはわかる。だから我慢しないで俺を頼ってくれ」
私は目線を逸らしてから一度、大きく頷いた。目線を合わせたら、また涙腺が崩壊しそうだった。 「それと」
 少しハリのある声に驚いて彼を見た。
「手、暖かかった。こんな俺も一応、孤独ってのを感じたりするんだよ。いつもよりよく眠れた。感謝してる」
 今度は「うん」と声に出して頷き、笑顔を見せた。彼も満足げに笑った。
「その顔だ。俺が惚れた下田恵だ」
 少し高い位置から私の頭をスルリと撫でた。旧姓で呼ばれた事が妙にくすぐったい。
「ま、また連絡するから」
 赤面を隠す様に後ろを向き「じゃ、お世話になりました」と言って扉を閉めた。
 夫の事なんて頭になかった。私は真吾に、堺真吾に、本気で惚れ直してしまったらしい。




 現実は現実として受け入れなければならない。
 電車に乗って自宅に戻ると、休日出勤の昭二はもう家にいなかった。
 少しほっとしたような気分になるのは、なぜなのだろう。
 昨日、途中で投げ出した夕飯の支度がそのままになっていた。打ち付けたフライパンを元に戻し、漬け込んでいた肉はそのまま冷蔵庫に仕舞った。
 保温のままになっている米を保存容器に入れ、室温まで冷ます。
「よし」
 声に出して、一度水道で手を洗った。
 傍に置いてあるハンドクリームを塗りながら、メモ帳とボールペンを探し、ダイニングテーブルに座る。
 ハンドクリームの油っぽさが消えるのを待ち、ボールペンを手にする。いつだったか「ペンの持ち方を直しなさい」と真吾に言われたまま、まだおかしな持ち方で字を書いているので、公の場に出ると恥かしい。
 まずは、子供が早く欲しいのか、いつでもいいのか。
 早く欲しいのなら、不妊治療をするつもりはあるのかどうか。
 協力は惜しまないのか、自分は協力しないつもりなのか。
 自分の機能検査は受けないのか。
 少しベージュがかったメモ帳に、ボールペンの黒が滑る。
 順を追って書き出し、読み返した。うん、これでいいと思う。
 少しでも納得いかないところがあれば、とことんまで話し合うべきだと思うし、あまりに意見の相違があるのなら......夫婦関係を解消せざるを得ない。
 私だっていつしか子供は欲しいと思っている。だけど仲違いしながら急いで子供を作ろうとして自分を追い込むなんて、辛い。そこで子供が出来たとしても、昭二との夫婦関係はきっと円満にはならないだろうと思う。
 休日出勤という事もあり、今日は早く帰ってくるだろうと思い、昨日作る筈だった豚肉の味噌漬け焼きを作る手順を頭の中で追った。

 夕闇が迫ってきても、まだ昭二は帰ってこなかった。十一月の日没は早い。もう少し待ってみようと、本棚から文庫本を持ってきて読み始めた。
 それから数十分と経たない間に、昭二から電話が掛かってきた。
「もしもし」
『あ、俺。今日、上司と呑みに行くから遅くなるわ。夕飯いらないし』
 私は読んでいた文庫本のページをくしゃりと握った。
「分かった。気を付けて」
 今日は私が一方的に通話を切った。
 昨日私が家を出て行った事を意にも介していない様子の昭二が、憎らしかった。
 日曜なのだから、私が既に夕飯の用意をしている事ぐらい分かっている筈なのに、こうしてぎりぎりに連絡を入れて来る事が腹立たしかった。
 何より、今日は不妊治療の事で話がしたかったのに、それが出来なくなった事が不満だった。
 平日はまた、午前様の毎日だ。来週まで話はお預けだ。
 一人分の豚肉の味噌漬焼きを作り、残りは冷凍した。
 それにしても、上司と飲みに行くなんて珍しい。彼は「上司」「部下」という関係が苦手で、会社の飲み会から帰ると「行かなきゃ良かった」と私に怒りをぶつける事が常だった。  嫁がプチ家出した事を上司に相談でもするんだろうか。そう考えるとざまあ見ろという気分にもなる。

 私は昭二に振り向いて欲しいのだろうか? 突き放して欲しいのだろうか? 自分の中に答えがあるはずなのに、何となく見当がついているくせに、混乱する頭の中が整理しきれなかった。

 風呂から上がり、テーブルに置いたままだった文庫本の、くしゃっと折れたページを手で少しずつ伸ばし、本棚に仕舞う。
 この怒りの感情が、ストレートに昭二にぶつけられたら楽なのに。彼の前では萎縮してしまう。
 家庭の主導権は昭二が握っていて、私は何も意見出来ないのだ。自分を殺して生活しているのだ。結婚する前は、こんな事無かったのに。きちんと愛せていたはずなのに。

 寝る前に、睡眠剤を飲むか迷い、実験的に飲まずにベッドに入った。
 暫く携帯小説を読んでいたが、一向に眠気は襲ってこず、結局睡眠薬を飲んで再度ベッドに入った。
 昨日、睡眠剤が無くても眠れたのは、やはりあの手の温もりの存在が大きかったのだと痛感した。真吾の事を考えながら、深い眠りに落ちて行った。


「昨日は遅かったの?」
 今日もまた無言で新聞を掴み、ダイニングに座った昭二に声を掛けた。
「遅くても早くても、お前は熟睡してんだから関係ないだろ」
 吐き捨てるように言ったその言葉の意味が良く理解できなかった。彼を不機嫌にする要素は、そこには何もないはずだ。
「話したい事があったんだけど、次の土日にする」
「また不妊治療の事?」
 片側の眉を上げながらこちらを見遣ったその顔が、人を小馬鹿にした様な笑いを含んでいて、胸の中に苛立ちの渦が巻いた。
「そう。方針を考えなきゃって」
「あ、そう」
 新聞に目を落として株価を見ていた。「おぉ、いいな」と声に出している。
 私はウンザリして彼から目を離し、食器を片づけた。
「じゃぁ先に行くから」
「あぁ」
 顔を上げないままで答える彼からは、愛情の一欠けらも感じられなかった。私は昭二の家政婦じゃない。そんな思いが胸につのった。


 そう言えば最近、昭二は新聞で株価の変動を気にするようになった。
 毎日の残業と休日出勤、自宅は借り上げ社宅で殆ど家賃を払っていないような状況で、彼の口座にはどんどんとお金がたまっている。
 株にでも手を出しているんだろうか。そんな予感がする。
 家計の分担は何となく決まっているが、残ったお金に関してはお互い自由にしている。
 それにしても、大きなお金を動かす「株」に手を出すのだとすれば、少しは相談があってもいいのではないかと思う。

 真吾には、私から連絡を取る事は無かった。立場上、やはりいけないような気がしたからだ。
 水曜日に『大丈夫か?』とメールを貰ったが、それが不妊治療に関する話し合いの結果についてだろうと思い『まだ話し合ってない』と返信した。


10

 月が変わっただけなのに、空気が変わるのが昔から不思議でならなかった。
 十二月の空気はどこか浮き足立っている感じがして、若い時は大好きだったこの月が、結婚をしてからこちら、あまり好きではなくなっている。
 掃除機をかける時に換気の為に開けた掃出し窓を、ぴしゃっと閉めた。
 昭二はリビングにあるパソコンに、何やらグラフを表示させて齧りついている。株価か。
「株、やってんの?もしかして」
 彼はずっとモニタから目を外さず、腕組みをしている。
「会社の奴がやってて。面白そうだから少し買ってみた」
 私は頭を擡げて首を振った。相談も無しに......。
 先週書いたメモは、手帳に挟んである。ボールペンとメモを手に、リビングへ戻り、ソファに腰掛けた。
「不妊治療の話が、したいんだけど」
 熱中している昭二に「え?」と訊き直されないように、ゆっくりと、大きな声で言った。
「何だよ、今かよ」
 ぶつくさ文句を言いながら対面に座った。文句を言いたいのはこちらの方だ。

「とりあえずね、昭二は子供がいますぐ欲しいの?絶対欲しいの?それともいつでもいいの?」
 私は昭二をじっと見つめたが、彼は俯いたまま首の後ろを掻き「まぁできれば今すぐにでも欲しいとは思ってるよ」と答える。
「で、不妊治療をしていくつもりは?」
「治療ったって、医者にやれって言われた日にやるんだろ。その日に暇だとは限らないんだから、そんな治療じゃ受けらんないだろ」
 どうだと言わんばかりの顔で私を睨みつけてきたので、私は多少狼狽した。
「早く子供をもうけるためには、暇だ忙しいだ言い訳してたら、どんどんチャンスが先延ばしになるんだよ」
「俺はそんな不妊治療だったらやらない。セックスしたい時にして、子供が欲しい」
「そうしてきて、今までできなかったんでしょ!」
 またしても声を荒らげてしまった。昭二は顔を真っ赤にして反撃してきた。
「お前のどっかに異常でもあるんだろ、それをどうにかしてから言えよ!」
 目の前に真っ青なスクリーンが落ちて来たように、瞬時に血の気が引いた。自分の不妊検査は拒否しておいて、私には不妊検査をさせておいて、異常がない事も伝えたのに、こんな事を平気で言うなんて......。溢れそうになる涙をぐっとこらえた。こんな奴の為に涙を流すぐらいなら、トイレにでも流した方がましだ。
「じゃぁ、協力はしないって事だね。自分の検査もしないんだね」
「そうだよ」
 パソコンから電子音が鳴った。
「あ、ちょっともうこの話終わり」
 そう言ってまたパソコンの前に座り、モニタを凝視し始めた。

 私はこの人との子作りを諦めた方が良いのかも知れない。
 そもそも、急いでいた訳ではない。私は、夫婦の時間をある程度持った後でいいと思っていたんだから。
 もっと愛を育んでからでいいと、そう思っていたんだから。
 今では愛なんて物すら見当たらない。そこにはただの「同居人」「情」そんな言葉しか見当たらないのだ。


「ちょっと出てくる」
 そう言って鞄とコートを掴み、玄関へ向かった。
「昼飯は?」
「適当に食べて」
 吐き捨てるように言った。十二月の浮き足立った空気を纏いながら、マンションの外に出た。やっぱりこの空気は好きになれない。
 スマートフォンを手に取り、連絡先から「堺真吾」を呼び出したが、寒さのためか、あるいは他の理由か震える指先は「キャンセル」を押した。
 代わりに「相沢さん」に電話を掛けた。彼女が私の上司だ。
「あ、休日にすみません、牧田です」
『どうしたの?珍しいね、土曜日に』
「あの、牧田さん、今日ランチとか、どうですか?」
 とても急な申し出だったので、断られるのは承知で言った。断られたらまた一人でふらふらしようと思っていた。
『今日は珍しく旦那も娘も留守だから、ちょうどいい。駅前に集合でどう?』
「あ、じゃぁ今から電車乗りますので、着いたら連絡します」


 ショッピングセンターの、例のカフェでランチをした。そこで不妊治療の話をした。
「相沢さんの旦那さんは、協力的でした?」
 パスタを噛みながら相沢さんは何度も頷いた。
「うちは旦那が男の子が欲しいって言っててね。それはそれは協力的だったよ」
 顔を上げた相沢さんは、誇らしげで、とてもうらやましかった。
「一人娘がいるにもかかわらず、自分の検査もしてくれって言ってたし、結局タイミング法でうまくいったんだけど、朝だろうと夜だろうと子供の為ならって協力してくれたしね」
 私と昭二とは全く違う相沢夫妻の状況に、ただただ呆然とするばかりで、言葉が出なかった。
「あんまり協力してくれないの?旦那さん」
 私はフォークにパスタを絡めたまま、なかなか口に運ぶ気力が無かった。
「あんまりと言うか、協力はしてくれない癖に、子供は欲しがってるんです」
 そうか、と相沢さんはオレンジジュースを一口飲み「牧田さんは?」と私を見た。
「牧田さんは早く子供が欲しいの?」
 私は首を傾げながら正直なところを話した。
「私はそう急がなくてもいいと思ってましたし、今でもそうです。もう少し夫婦で仲良くする時間があってもいいかなって。まだ二十五歳ですから」
 そうよねぇ、と相沢さんはまたパスタを口にした。私も一つため息をついてからパスタを口に運んだ。そういえば、最後にデートらしいデートをしたのは、いつの事だろう。全く思い出せなかった。懸命に思い出をさかのぼるのだけれど、長い長い滑り台を逆から上って足を滑らせてしまうみたいに、今に戻って来てしまう。
「もう、夫婦で仲良くするっていう雰囲気でもなくなってるんです。もともと忙しい人で、休日に二人で出かけたりする事も少なかったですけど、今は株にご執心みたいで」
 うーんと唸る様に相沢さんから声がした。数秒ためて、それから相沢さんは口を開いた。
「ねぇ、旦那さんの事を愛してる?」
 ぐっと喉元が苦しくなった。真吾に訊かれた事と同じだ。旦那の事、愛してるか?私が旦那を愛していない空気を醸し出しているのかも知れないと思うと、何だか笑えてくる。
「育む愛もなくなっちゃってます、もう」
 私は場の空気が暗くなり過ぎないように努めて笑顔を見せようとしたが、心は笑うのだけれど、表情は引き攣ってしまう。
「中にはね、子供が出来て愛情が再燃する夫婦もいるのかも知れないけれど、牧田さんの旦那さんの話を聞いてると、そう言う感じじゃないよね。お互いに愛情が無い間に生まれてくる子供は、幸せかなぁ?」
 私は声を詰まらせた。今、私と昭二の間に子供が出来たら、私と昭二は再び愛し合う事が出来るだろうか。子供は幸せだろうか。 「自分の両親が、もし仲違いをしていたらと思うと、真っ直ぐには生きられなかっただろうなって。自分に言えるのはそれぐらいです」
 相沢さんはストローでオレンジジュースをかき混ぜ「冷たい」と身震いして笑った。
「私は牧田さんに、こうしなさい、あぁしなさいって命令できる立場じゃないけど、一つだけ。これから生まれてくるであろう子供の事を思って行動して」
 相沢さんの笑顔は、少しだけ母の笑顔に似ていた。心の中に何か温かい物が宿るのが分かった。
「はい、そうします。旦那との関係も少し、考えてみようと思います」
「そうだね、まだ若いんだから。幾らでも修正はきくんだからね」
 彼女に後押しされる形で、私は少し前に進めた気がした。
「相沢さんに相談してよかったです」
 少し時間をかけて食べたパスタのお皿を、相沢さんのお皿と重ね、お盆を持った。
「私の方が長く生きてるんだから、何かあったら今日みたいに遠慮せず相談してよ」
 母の様に微笑む相沢さんに、私も微笑み返した。午前中は少しどんよりしていた空も、心なしか青い部分が増えていて、相沢さんと別れた駅前で私は、大げさに深呼吸をした。街の雑踏の汚い空気だけれど、身体の中に淀んでいた気持ちの方がよっぽど汚れていると思うと、深呼吸でそれらを吐き出してしまいたかった。


11

 自宅に帰ると、相変わらずパソコンに齧りついている昭二がいた。
「ただいま」
「おかえり」
「お昼食べた」
「パン」
 一度も顔をこちらへ寄こさず、刻々と動くモニタ内のグラフに注視している。
 ジジジーと、ガラステーブルの上に乗せてあった昭二の携帯電話が着信を知らせた。
 ふと目を遣ったが、瞬間にパッと電話が昭二の手の中に入り、彼は「もしもし」「はいはい」と言いながら口元を手で覆い、早足で寝室へと入り、ドアを閉めた。
 何が、という訳ではないが、普段見せない行動を不審に思い、私は足音を消して寝室に近づいた。
「明日?うーん、まぁ仕事って事にして出るよ。うん。勿論夜まで大丈夫だ。嫁がいるから、もう切るよ、うん。じゃあ明日」
 会話が終わりそうなところを見計らって私はキッチンに戻った。素知らぬ顔でみそ汁の具材を切っていた。
「明日、仕事になった」
「あぁ、そう。忙しいね」
 包丁の単調な音が響く。
「遅くなるから、夕飯はいらない」
「そう」
 包丁から目を離さなかったのに、どこか動揺したのだろう、右手が震えて左の人差し指に刃が当たってしまった。
 リビングにある救急箱から絆創膏を取り出し、指に巻いた。
「どうしたの」
「指切った」
「ふーん」
 戻れないところまで、急速に走ってきている気がする。彼の態度を見て、そう思う。


「牧田さん、どうぞ」
 浮かない顔で、婦人科医の前に座った。
「その後どうですか?」
「えぇ、基礎体温は付けてるんですが、その......」
 私は俯いたまま言葉が紡げなくなってしまった。鼻の奥がつんとする。
「何でも言ってください。聞きますよ、きちんと」
 顔を上げると、医師は微笑んでいた。私の顔も少し緩んだ。
「タイミング法に夫は協力するつもりはないそうです。それと、男性側の検査にも。自分のしたい時に性交渉をもって、且つ、早く子供が欲しいって言われました」
 医師は腕組みをしたまま回転椅子を左右に振っている。
「手の打ちようがないね。妊娠とは、女性と男性がいないと成り立たない。精子バンクでも使わない限りね」
「そうですね」
 私の声は消え入りそうだった。医師に届いていたかどうかも定かではない。
「まだ一年ですから、タイミング法を試さなくても妊娠できる確率はまだまだあります。でも早く、一日でも早く子供が欲しいのなら、今の段階ではタイミング法を勧めますね。あなたの身体への負担も軽くて済みますから」
 私が浮かない顔をするのを見て、医師の顔も少し曇り始めた。
「夫がそれを望まないという事は、夫の好き勝手なタイミングで交渉を持つしか、方法はないって事ですよね」
 医師はデスクに片手を置き、ピアノを弾く様に指を動かしている。
「そうだね。それでも妊娠できない訳ではないからね。双方が納得のいく方法を取らないと、精神的なストレスも、不妊の原因にはなり得るから」
 医師はデスクを叩いていたその指先を私の肩に手を伸ばし、トンと叩いた。
「あなたがまず、納得がいく方向に話を持って行ってください。母体あっての赤ちゃんだからね。あなたにストレスが掛かってしまったら、赤ちゃんはなかなか宿らない」
 声に出さず、深く頷いた。声が出なかった。何故だったのだろうと思うけれど、どうやら涙を我慢していたらしい。
 震える声で「ありがとうございました」と礼を言い、出口へ向かうと、私の後姿へ医師が声を掛けた。
「何でも話せる医者だと思って、何でも話しに来ていいから。お母さんと赤ちゃんの味方だからね」
 今度は抑えきれなかった涙が頬を伝った。大きく頷いてドアを出る。待合室にいる人がじっとこちらを見ていたが、込み上げる物が大きすぎて気にしていられなかった。


 平日午前様の昭二は、もう私をセックスに誘う事はなくなっていた。もう子供の事なんて考えなくなったのか、そんな風に思っていた。
 休日は株価と睨めっこをするか、「休日出勤」と称して何処かへ出かけて行った。
 電話の相手は誰なのか、着信があるとあっという間に昭二が携帯を手にしてしまい、その名前を見る事は無かった。まさか、女の人......。そんな風に思わないでもなかった。

 週に一度は真吾からメールが着た。いつも私を心配するような文面で、「心配いらないよ」と答えるばかりだった。全て見透かされているのだろうけれど、彼に会わなければいい話だ。


12

 ショッピングモールのカフェでサンドウィッチを食べていると、窓から真吾が顔をだし、手を振った。前回会った時から少し時間が空いた真吾の髪は、少し伸びていた。
「ちょっと間が開いたなぁ。相変わらず、どんよりしてんなぁ。心配ないなんてうそばっか」
 私を元気づけようとしているのだろう、酷く明るい調子で私の肩を小突いた。私は苦笑した。
「何か色々あり過ぎて、訳分かんなくなってきちゃったよ」
 私が髪をくしゃっとすると、真吾は「旦那さん?」と言うので無言で頷いた。
 私は向かいの席に置いた鞄を自分の隣に移すと、彼は「失礼」と言って向かいに座った。
「株にハマり始めて、家にいるとずっとパソコンにかじりついてるし、休日出勤って嘘ついて出かけて夜中まで帰ってこないし、もうセックスもしなくなったし」
 一息で話、はぁ、とため息が零れた。
「休日出勤は嘘なの?」
 私の顔を覗きこむ様にして真吾が疑問を投げつけた。
「電話してるのを聞いちゃったんだ。休日出勤ってことにするからって。夜まで大丈夫とか」
 真吾は少し顔を顰めて「それって女じゃないの?」と言った。分かっているんだ。何となく分かっていたけど、認めたくなかったんだ。
「だよね......」
 私は肩を落とし、紅茶に口を付けた。薄い口紅が少しカップについたのを、ペーパーナフキンで拭き取った。
「なぁ恵、彼のどこに惹かれて結婚した?」
 話ががらりと変わり、きょとんとした私を見て、真吾はニヤっと笑った。相変らず表情をころころと変える。
「そうだなぁ、隠し事をしない所とか、いつも私の事を心配してくれる所とか、何でも私の事を優先してくれようとする所とか、まぁ要は優しいって事なんだろうけど」
 言った傍から何だか恥ずかしくて赤面してしまった。真吾はカラカラと笑った。
「それで、今の彼にはそれがあるの?」
「ない」
 今度はアハハと声に出して真吾は笑い「早いな」と言った。だって、ないんだから仕方がない。
 私は自分の言った事を脳内で反芻した。隠し事をしない、私を心配してくれる、私を優先してくれる、優しい。
 目の前にいる、真吾そのものだった。
 私は、真吾の代わりを探していたのかも知れない。
「そんな彼とこの先、夫婦続けてかなきゃなんないのか、酷だな」
 彼は手元に視線を落とし、言った。彼の頼んだサンドウィッチが運ばれてきた。
 一口食べ、彼は咀嚼しながら「あのさ」と声を出した。
「恵って浮気された事ある?」
 私は真吾と別れた後、大学に入って昭二と付き合い始めた。そして結婚に至った。もし今回の昭二の不審な行動が浮気だとしたら、今回が初めてだ。
「今まではない。今回がもしそうなら、初めてだよ」
 ふんふん、と声に出しながらサンドウィッチにかみつく。いつだったか「物を口に入れながら喋らないの」と注意した事があったけど、この癖は直っていないらしい。
「俺ね、嫁が浮気してたって言ったでしょ」
 彼女が事故に遭った日、浮気が原因で喧嘩になったと、真吾は言っていた。私はコクリと頷いた。
「浮気されるとね、夫婦なんて続けられないと思った。一度裏切られるともう、信用は取り戻せないんだよ。俺はあの短い時間でそう判断した」
「へ?」
「彼女が生きていたとしても、俺は離婚してた」
 私はただ茫然と、真吾を見ていた。真吾は自分の口から発した言葉の威力なんてお構いなしに、サンドウィッチに齧りついている。
「だって赤ちゃんが......」
「赤ちゃんがいて夫婦があるんじゃない。夫婦があって赤ちゃんがいる。俺は赤ん坊も嫁も、手放す覚悟を瞬時に決めたよ」
 頑なな語り口が、昔のままだった。頑として譲らない、頑固さとはまた違う、自分の考えを通そうとする頑なさ。
「恵の旦那さんが浮気をしていない事を願うけど、万が一の事は考えておいた方が良いと、経験者は語る」
 彼は真顔でそう言ったが、私は下を向いて笑った。確かにそうだ。万が一の事を考えておこう。経験者の言う通り。
「サンドウィッチ食わないの?」
 私は完全に手が止まっている事に気づいて「食べるよ、取らないでよ」と伸びてきた真吾の手をパシっと叩いた。
「そうそう、その顔でね。俺はそれを見に、ここに寄った」
 恥ずかしげも無くそういう事をいうのも、昔のままで、こういう時に私が赤面する事も勿論、昔のままだ。
「今日は仕事だったの?」
「いや、今日は休み。あ、そうだ」
 彼は鞄の中から名刺入れを取り出し、白い一枚の紙を私に手渡した。
「裏に、休みの日が書いてあるから。ご参考までに」
 私でも聞いた事がある不動産屋の名前と、真吾の名前が書いてあった。
「凄いね、本当に頑張ってるんだね」
「嘘言ってどうする」
 むくれた顔で笑って見せた。
「幼馴染が頑張ってる姿を見ると、私も頑張って仕事しなきゃと思うよ」
 ね、と言って彼の笑顔を待つと、逆に彼は眉尻を下げて困ったような顔になった。
「幼馴染、でしかないんだよな、俺達って」
 諦められない、という言葉。私もそうだと言った。だけどお互いにそれを受け入れる事は、少なくとも今は、できない。
「幼馴染でもいいよ。真吾の幼馴染は私しかいないし、私の幼馴染は真吾しかいない。世界でたった一人の幼馴染だよ」
 そう言うと彼の顔色がパッと明るくなった。まるで子供のそれの様に。
「良い事言うなぁ。世界に一人か、恵にとってたった一人か!」
 どんどん大きくなる声に、周囲の注目が集まりだしたので「しーっ!口、縫い付けるよ!」と声を遮った。


13

 昭二は相変らず、休日には株価のチェックと謎の外出が続いた。
 真吾は私の返信を真に受けない事にしたらしく、「大丈夫か?」とは送って来なくなった。代わりに「俺は元気です」とか「今日はかつ丼です」とか、返信に困るようなメールばかり送って寄こし、私は全て「苦笑」で返した。
 いつの間にか、通勤途上の梅の木に小さな白い花が咲いていた。もうそんな季節か。
 基礎体温こそつけているものの、不妊治療をやめ、昭二からのセックスの誘いも無く、少し心が軽くなった。
 こんな風に、季節の花をめでる余裕が出来た。
 目下の懸案事項は、昭二の謎の外出だ。

 真吾の「万が一の時は」という言葉について考えていた。
 昭二が万が一浮気をしていたら、私はどうするだろう。
 一度で済むんだろうか。二度目はないんだろうか? やはりそうやって疑ってしまい始めると、負の連鎖が止まらないだろう。
 もしここ数カ月の怪しい動きが浮気なら、現実を受け入れ、離婚するだろう。
 まだ若い。いくらでもやり直しがきく。相沢さんの言う通りだ。
 それでも、昭二が尻尾を出すまで、私は動きようが無かった。


「明日の親睦会旅行に参加される方は、僕の所にあるプリントを一枚ずつ持ってってください」
 そのメールを読んで、同期の親睦会係の机に行き、プリントを一枚もらった。
 当日の集合場所や直接宿に行く人の為に宿への地図も載せてある。
 仕事にもプライベートにもあまり支障をきたさないように、金曜の夜から土曜の一泊で予定されている。
 予定表を鞄に入れ、庁舎を出た。
 帰りにショッピングセンターに寄り、明日のバレンタイン用に、義理チョコを買った。
 相沢さんにも頼まれていたので、二倍量。かなりの量になる。
 普段使わないカートに籠を入れ、適当なチョコを選んでいく。
 少し値の張るチョコレートの棚をスルーして、なるべく安いチョコを多めに。
 ふと思い返し、値の張るチョコレートの棚へ戻った。
 何年ぶりか分からないけど、真吾にあげたい。そう思い、赤いタータンチェックの包みに包まれ赤いリボンが巻かれているその箱をカートに入れた。

 帰りにカフェで夕飯を食べながら、先日真吾にもらった名刺の裏を見た。
 今日十三日はオレンジ色の丸で囲まれている。休みだ。
 私はパスタを食べ終え、紅茶を飲みながら真吾に電話をした。
『お、珍しい、恵から電話が来るなんて今日は雪が降るかもな』
「単刀直入に訊くけど、今暇?」
『真直ぐだなぁ。暇だけど?』
「これから駅前のディーバまで出て来れる?」
『あぁ、いいけど、何かあった?』
「ううん、そうじゃないの。心配しないで。それじゃ私、今ショッピングセンターだから、これから向かうね」

 ディーバにつくと、既に飲み物を持ってテーブルについている真吾がいたので手を振った。
 私はカフェモカを注文し、アツアツの紙カップを手に席についた。足元にあるカゴに、大量にチョコが入った袋をドサっと置いた。
「何なに、どうした?」
 まだ手つかずらしいコーヒーは、湯気を立てている。まだ来てからそんなに時間は経っていないようだ。
「明日、バレンタインだからさ、これ」
 そう言って私は義理チョコとは分けて自分の鞄に入れておいた赤い包装紙の箱を渡した。
「え、マジで、何年ぶり? ありがとう」
 じーっと包装紙を見た後、私に視線を移し、もう一度「ありがとう」と言った。
「どういたしまして。色々相談に乗って貰ったりしてるからさ。お礼」
「何だ、本命じゃないのか」
 私はクスッと笑い、「一応既婚ですから」と言う。
「俺も本命チョコが貰えるように、恋愛しないとなー。置いて行かれちまうなー」
 窓の外を見ながら彼はそう言った。私は何も言わなかった。
 真吾に一生独身でいて欲しいなんて思っていない。だけど、「諦めきれない」と言った彼の言葉にもう少し、もう少しだけ浸っていたかったのだ。


 翌日チョコを配り終え、勿論仕事も終えると、私は電車を乗り継いで箱根まで行った。
 毎年同じような話題で盛り上がり、同じような人が酔っぱらい、同じようなメンツで宴会会場から引き上げてきて、眠る。
 相沢さんはお酒が飲めない人なので、私は相沢さんと一緒に部屋に引き上げてきた。
 相沢さんと布団を並べて横になった。
「その後、治療は続けてるの?」
「いえ、もうやめたんです」
 掻い摘んでその理由を話した。
「そうなんだ。じゃぁ少し解放された感じ?」
 薄暗い部屋の中で私の方を向く相沢さんの双眸が、街灯の光を反射して白く光っている。
「そうですね、気持ちは軽くなりましたけど、夫婦関係は全然うまくいってないですからね。これからが正念場です」
「そうか。牧田さんの事だから、間違った選択はしないと思ってるよ。オバサンはどこまでも応援してるからね!」
 本当にこの人は母みたいだなと思って、静かに、それでも相手に伝わるように笑った。暗がりの中で、相沢さんにこの笑顔が伝わったかどうかは分からないけれど。


14

 旅行の前日、就寝前に私は部屋の至る所を調べておいた。
 キッチンの食器はいつも通りの場所にあるか。
 洗面所のごみ箱は空になっているか。
 寝室は匂いがしないか。
 何故かってそれは、昭二が女を連れ込む可能性が無きにしも非ずだからだ。

 旅行から帰宅して、こんなにバカな人と結婚したのかと、自分責めずにはいられなかった。
 寝室の匂いが、いつもと全然違うのだ。換気位すべきだったのに。シャンプーなどとは違う、何か香水の様な、人工的な強い香りが鼻を突いた。
 私がいつも寝ているこのベッドで......そう考えると、軽く吐き気を催した。
 食器棚の食器は、何かを探したような形跡があった。少しずつ、色々な物が手前に出されていた。何か飲むか食べるか、したのだろう。と思ったら、カウンターにワインのコルクが置いてあった。
 我が家のワイングラスは、食器棚の一番奥にあるのだ。普段昭二はワインなんて呑まない。記念日か、客が来た時ぐらいだ。
 昨日はバレンタインデー。丁度いい日取りだったわけだ。
 旅行から帰ってすぐにこれらに気づき、気を張っていたのに、次から次へと現実を受け入れようとするとだんだん涙が出てきた。一度でも愛した男に、裏切られたわけだから仕方がない。
 女物の香水の匂いがするベッドシーツやカバーを全て乱暴に剥ぎ取り、洗濯機に入れた。
 新しいカバーをセットし、部屋中に消臭スプレーを吹きまくった。
 今日は少し雨が降っていたが、気にせず洗濯機を回した。一秒でも早く、この匂いから解放されたかった。
 食器洗浄機を開けると、ワイングラスとお皿が数枚、残されていた。目眩がして、カウンターに両腕をつく。
 やるならもう少し賢い方法でやればいいのに。
 こんなやり方では、わざわざ私に見せつけているようにしか思えない。

 浴室にシーツ類をまとめて干し、乾燥ボタンを押した頃、昭二が家に帰ってきた。
 今日は土曜出勤だった様子だ。まぁ、それも本当なのか、分からなくなってくる。
「おぉ、旅行はどうだった?」
「楽しかったよ。そっちは? ワインは美味しかった?」
 ちらっと昭二の顔を見ると、彼は全身を硬直させている。バカみたい。
「昨日同僚が遊びに来たんだよ。それでワインをさ」
 言いながら私の横を通り抜けて行った。私は洗面所でたっぷりの石鹸を使って手を洗いながら大きな声で言った。
「同僚さん、寝て帰ったんだね。香水の匂いが取れないからシーツ洗ったから」
 きっとまた彼は硬直していたのだろう。もう知った事ではない。
 なるべく昭二の方を見ないようにして、夕食の支度を始めた。
 視界に入る彼は落ち着きなく、いつも通りパソコンの前に座っても、脚を何度も組み替えたり、髪を掻いたり、顔を叩いたりしていた。
 あの状況で、バレないと思っている方がおかしい。男とは何と言うバカな生き物だ。

 その晩はお互い一切口をきかずに食事をした。私は私のタイミングで風呂を沸かし、勝手に入り、出た。昭二には何も言わなかった。
 夜、寝る前に真吾に『黒でした』とメールをした。
 数秒で『万が一、キター』と返信が返ってきた。
 この人は少し頭のねじを締め直す必要があるけれど、バカではない事は知っている。

 睡眠薬を飲んだのに、なかなか眠りにつけなかった。
 心にダメージを負うと、薬もなかなか効いてくれない物なのだと知った。
 何故か浮かんでくるのは、真吾の奥さんの顔で、それは何故かと考えると、真吾の家で入った布団から香水の様な香りがしたからだった。
 真吾の奥さんも浮気をしていたと言った。男ばかりがバカな訳じゃない。相手をする女だって十分バカだ。そして浮気をされる私だって。
 スマートフォンに目を遣ると、布団に入ってから一時間は経過していた。
 リビングから昭二の声が漏れ聞こえてきた。もう少しよく聞こえるように、静かに寝室のドアを開けた。
「そうか、嬉しいよ。うん。昨日酒呑んじゃったけど、問題ないよな。うん。分かった。俺の子供かぁ」
 背筋が凍る言葉だった。「俺の子供」
 浮気をしているだけではない、子供まで孕ませているのか......。
 私はドアを静かに閉め、ベッドに倒れ込んだ。
 この後彼は、私にどう言うつもりだろうか。いつまで黙っているのだろう。
 盗み聞いてしまった背徳感と、自分には出来なかった子供が、浮気相手とは出来た事に対する屈辱感で、私の両手は震えていた。
 真吾、真吾、助けて......。


15

 翌日、朝早くに家を出た。昭二と顔を合わせたくなかった。
 最低限、朝食の用意だけはしておいた。

 まだどのお店も開いていないので、とりあえず職場の近くにある図書館に入った。
 適当な文庫本に手を伸ばして席についたが、どうにも落ち着いていられなくて、本を本棚に戻した。
 目についたのは「離婚Q&A」という本だった。
 私は食い入るようにその本を読んだ。
 慰謝料は、婚姻関係を破綻させる原因を作った者に対し請求する事ができるらしい。という事は、昭二にも、相手の女にも請求できるという事だ。
 私と昭二の間と全く同じような判例が載っていて参考になった。
 ただ、相手の女が堕胎したいと言い出したり、夫が「堕胎させるから」という場合もあるようだ。
 まぁ昭二の場合、子供をあれだけ欲しがっていて、しかも電話で喜んでいたところを見ると、堕胎はないだろう。
 慰謝料と財産分与、そうだ、財産分与。彼は株をやっていた。財産分与は可能な筈だ。
 苦しめられた分を金銭で相殺するなんておかしな話だが、それ以外に相手に苦しみを分からせる方法がないのだから仕方がない。

 その本と似たような本を二冊借り、鞄に入れ、開店と同時にディーバに入った。
 ランチセットの海老とアボガドサラダ丼を頼み、日向の席に座った。
 さっき借りてきた本をまた、読み始めた。
 例え亡くなった人とその相手であっても、不貞行為を行った人間には慰謝料を請求できるらしい。
 幼馴染二人して、配偶者に浮気されるなんて。そう思うと少し可笑しかった。そんなに隙だらけの二人なんだろうか。そんな二人がずっと付き合っていたなんて、何だか。
 丁度ランチタイムに入り、俄かに店内が混み始めた頃、メールが届いた。真吾からだった。
『その後大丈夫か?話なら聞くから。今日の夜、仕事終わったら連絡するから、駅の辺りにいてくれる?』
 やれやれ、心配性な幼馴染を持ったな。目尻に浮かぶ涙は無視して『待ってます』とメールを送り返した。
 画面をロックした液晶に映り込んだ自分の顔が、やけにやつれて見えて、すぐにポケットに仕舞った。

 それから少し気晴らしにと、気に入っている店をぶらぶらと回ってみたものの、何の気晴らしにもならず、結局図書館に戻って借りていた本を読みつつ時間を潰した。
 これ程までに読書が趣味で良かったと思った事はない。
 夜はショッピングセンターのカフェに行き、夕飯を食べた。いい加減離婚の本に飽きて、スマートフォンの小説を読みながらペンネを突いた。
 カフェ内はがやがやしていて、もう少し落ち着いたところに行きたいと思い、ディーバに移動しようとした所で真吾から電話が掛かってきた。
「もしもし」
『今どこにいる?』
「今ショッピングセンターを出て、歩いてるよ」
『俺の家、覚えてる?』
「うん」
『来れる?』
 私は足を止めて暫く考えた。私が不貞行為をしなければいい話だ。
「うん、行くよ」
 そう言って電話を切った。


「どうぞ」
 通されるがままリビングに入るといきなり「顔、酷いな。やつれて」と言われた。
 むっとしがた、「むっとしてた方がいいぐらい、やつれてる」と言われ、肩を落とした。
「で、何で黒だって分かったの?」
 二人分の発泡酒をテーブルに置き、前と同じように二人してラグに座った。
 プルタブを引き、金属がペリっと剥がれる音がした。
「まずは食器棚の散らかり様、ワインのコルク、ワイングラス。極めつけは、香水の匂いがついたベッド」
 真吾は額に手を当て「恵の旦那は馬鹿なのか」と言う。
「指摘した時の動揺の仕方からすると間違いないと思う。それに......」
 私は言葉に詰まった。言おうとすると、のどがぎゅっと締まり、代わりに勝手に涙腺が緩もうとするのだ。何故だ。
「何、どうした?それに?」
 口元が歪み、引き攣る。私は俯いて、勝手にぽたぽたと落ちていく涙を眺めていた。自分の双眸から流れ落ちているはずの涙が、人ごとのように思えてくる。
「恵......」
 真吾は私のすぐ隣に来て、私を抱き寄せた。
 声を出したくても、声にならなかった。声を出したくても、嗚咽にしかならなかった。
 暖かな真吾の手のひらが、私の背骨一本一本を確かめるように、ゆっくりと上下した。
 私は真吾の太腿に凭れるようにして身体を倒し、くぐもった声で言った。
「相手の女は、妊娠したみたいなの」
 そう言い終えた時にはまた溢れ出して止まらなくなった涙が、真吾のデニムを濡らしていく。十数年も嗅ぎ慣れた、彼の匂いがした。
「それは、辛いな」
 ぽつりと言って、また私の背中を擦った。
「旦那さんは恵に何か言ってきたの?」
 小さい子供に声を掛けるように、柔らかい調子で訊く真吾が、優しかった。
「何も。これから何か言ってくるのか、隠そうとするのか分からない」
 そうか、と擦る手をトントンと軽く叩く手に替える。
「動きがあったら、怯むなよ。おして参る!だからな」
 私は少し笑おうと顔を歪めたけれど、うまく笑えかなかった。手で涙を拭いながら身体を起こした。
「今日、泊まっていきなよ。俺は明日休みだから全然構わないし、庁舎なら駅からすぐでしょ」
 コクリと頷くと、彼は押入れから先日のハーフパンツとTシャツを持って来た。
「湯船は入れないけど、シャワーなら使えるから」と言って、タオルも手渡してくれた。
 私は言われるがままシャワーを使わせてもらい、部屋着に着替えた。
 入れ替わるように真吾がシャワーを浴び、同じような格好で出てきた。
「もう一杯呑むか」
 そう言って、発泡酒を二本持ち、リビングに戻ってきた。
「相手が認めたら、離婚するの?」
 そう、現実を見なければいけない。泣く事なんていつだって出来る。
「そのつもり。慰謝料ふんだくってね。今日図書館で色々調べた」
 発泡酒をぐっと呑み、真吾を見て笑った。
「凄い行動力だな。じゃぁ相手に認めさせるか、相手が何かを言うのを待つか、だな」
 そうだね、と言ってラグの毛足をいじった。相手の女性を妊娠させているのだ。隠し通す事なんて無理な話だろう。この数日で動きがあるはず、そう考える。
「話変えていいか? 恵に相談がある」
「何?」
 真吾は発泡酒を呑み、一度顔を顰めた後、切り出した。
「バレンタインに、後輩の女の子に告白されたんだ」
「へ?!」
 思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、口を押えた。
「嫁と死別してる事も知ってて、それでも付き合って欲しいって」
 私は視線が定まらなかった。まだ誰の物にもなってほしくなかった。真吾はまだ、私を諦めないでいて欲しかった。
 だけどそれは口にしてはいけない事であって、大人としての対応が求められる。
「う、ん、知ってて告白してくるんじゃ、相当腹を括ってるって事でしょ? いいんじゃない?」
 首を傾げて真吾を見ると、彼の顔は曇っていた。
「その子の事、どう思ってるの?」
「いや、別にどうも思ってない、いい子だと思ってたけど。告白されたらやっぱりちょっとは意識しちゃうでしょうが」
 その割には曇った顔が気になる。
「なら付き合っちゃえばいいんじゃない?」
「そんなもんかな」
「別に結婚するわけじゃないんだからさ」
 さらにその顔を曇らせ、俯いてしまった。
「そんなもんかな、恵の意見って」
「へ?」
「何でもない。そろそろ布団敷くか」

 前回と同じように、二組の布団が敷かれた。前回と同じように横並びで歯磨きをした。
 真吾の左側の布団に入ると、ふかふかの白い布団は、以前よりも少し香水の匂いが薄れていた。時間の経過をうかがわせる。
 付き合っちゃえばいい、そんな風に言ったけれど、真吾が離れていくのが怖かった。
「ねぇ、私の一生のお願いの、二回あるうちの一回を使わせてもらってもいい?」
 電気を消した暗い部屋の中で私は天井に向かってそう言った。
「良かった。俺はもう残り一回だから、使わずに済みそうだな」
 私が布団から右手を出すと、彼は左手を伸ばして握った。暖かさが、身体に伝わる。穏やかな眠気が私を誘う。
 今日は真吾より私の方が、先に眠りについてしまう、そう思った。


 スマートフォンのアラーム音で目が覚めた。
 真吾もその音で目を瞬かせたが、「いいから、寝てて」と言うと、再び眠りへと入って行った。
 私は昨日来ていた服に着替え、歯磨きだけを済ませた。化粧なんて別にいい。
 部屋を出ようとして気づいた。鍵、閉められないや。
 再び和室に戻り「真吾」と声を掛けると「んー」と大きく伸びをして上半身を起こした。
「起こしてごめん、鍵、閉めてくれるかなぁ?」
「あぁ、別に開けっ放しでも良かったのに」
 首の後ろをぼりぼりと掻きながら玄関まで歩き、眠そうな顔で「応援してんからね」と言ってくれた。
 昨日よりは幾分ハリを取り戻した顔で「ありがとう。よく眠れたし、頑張れそう」と言い、「じゃぁ」とドアを閉めた。鍵が掛かる音がした。


16

 火曜の朝、昭二はいつもの時間に起床しなかった。
 彼の職場はフレックスタイム制をしいているので、きっと私が出かけた後に起床して、出勤しているのだろう。
 私とは顔を合わせたくないのだろう。そりゃそうだ。
 逆に私は、早い所ケリを付けたいと思い始めていた。
 今度の土日が勝負だ。そう思って平日を乗り切った。

 土曜の朝、ベランダで洗濯物を干していると、室内に人が動く気配がした。
 ちらりとそちらを見遣る。格好からするに、まだすぐに出かける雰囲気ではない。
 私は洗濯物をやっつけて室内に入り、朝食の支度をした。私は済ませていたので、昭二の分だけだった。
 ダイニングにお皿をだすと、「ありがとう」と言って食べ始めた。
 私は、特に興味もないニュース番組を、リビングのソファに座りながら見た。どの局を選局しても、同じようなニュースばかりで辟易する。
「ごちそうさま」
 声と、皿を重ねる音が同期した。食洗機に食器を入れる音がする。洗剤のふたを開ける音がする。スタートボタンが押される。足音が近づく。
「話があるんだ」
 私は無言のまま斜め上にある昭二の顔を睨みつけるように見た。それが返事だった。
 昭二は対面に腰掛け、「離婚したい」と端的に言った。
「分かってはいるけど、一応訊くよ。理由は?」
「好きな人が出来たから」
 私は無言で頷いた。続く言葉を待ったのだが、彼は口を開こうとしない。私にはばれていないと思っているのだろう、妊娠の事を。
「相手の女性は?」
「会社の同僚。バレンタインの時にうちに来たのは、彼女だ」
 私の推理は正解だった訳だ。あとは私が難聴だったりしないかどうか。
「で、相手の女性の今の状況は?」
「は?」
 昭二は眉をひそめたが、何かに思い当たったかのように息を呑む音が聞こえた。
「電話で話してるの、聞こえてたよ。隠しておくつもりだったのかも知れないけど、これにて不貞行為は立証された訳だ」
 肩を落とした昭二は「悪い」ぼそっと言った。
「悪いと思ってたら普通はやらないからね。嫁以外の女とセックスしないからね。自分の子孫が残せる女をセレクトしたかったんでしょ」
「違う、それは違う」
 何が違うのかと問いただしたところで、事実は何も変わらない。
 彼は妻以外の女性との間に性交渉を持ち、女性を妊娠させた。
「示談でも裁判でもいいよ。最後の最後ぐらい、誠意を見せてよね。週明け、職場から離婚届持ってくるから」
 私はその場を立ち、物置から掃除機をだし、掃除をした。もうすべて終わるのだ。しばらくしたらここも引き払おう。
 そう思うと、妙にすっきりした気分になってきた。
 今日は一日暇だ。物件を探したり、荷物をまとめたりしよう。そうだ、そうしよう。
 掃除機を仕舞い、リビングに戻ると、ソファに寝転がったまま呆けている昭二がいた。
 ずっとそこで呆けているがいい。生まれてくる赤ん坊の事でも考えているといい。
 私はノートパソコンを立ち上げ、職場の近くに良い物件がないか調べた。
 大きな駅の近くになるので多少は値が張るが、生活していけない程ではない。
 それに、慰謝料をふんだくるんだった。大丈夫。でも、生まれてくる赤ちゃんに罪はない。赤ちゃんが元気に育つぐらいのお金は、残してやってもいい。
 数枚の物件情報をプリントアウトし、「ちょっと出かけてくる」と言ってパソコンを閉じた。


 駅まで歩く間にプリントした物件情報を見ていた。その中の殆どが、見た事のある不動産屋の物件情報だという事に気づく。
 真吾から貰った名刺の裏を見ると、オレンジの丸はついていなかった。
 真吾と、真吾に告白した女性と顔を合わせる事になるんだろうか。複雑な思いでその不動産屋に足を運んだ。

 自動ドアが開くと、「いらっしゃいませ」と一斉に視線を受け、ドキっとした。その中には真吾の視線は無く、ほっとした。男性社員が「こちらへどうぞ」と席を案内してくれた。
「この辺りの物件なんですけど、ちょっと見てみたいんですが」
 男性社員は印刷した紙を順番に眺め、「この物件は不動産屋が違いますが、うちでも取り扱ってますので、一緒に見に行かれますか?」と言った。
「はい、お願いします」
 内覧が出来る物件は三件のみで、あとの二件は外観のみらしい。十分だ。
 不動産屋の名前が書かれた軽自動車に乗り込み、物件を回った。
 外観のみを見た二つの物件は、狭い道を入った所にあったり、階下に飲み屋があったりしたのでやめた。
 内覧した三件のうちの一件は偶然にも、真吾の住むマンションだった。
「ここは築年数も浅いですし、室内も綺麗ですのでお勧めできますね。駅からも近いですし」
 だが私は「仕事場と反対側になっちゃうからちょっと......」と言って断った。
 真吾に告白した女性が、ここの一室に通う事になるかもしれないんだから。そんなのを見るのは御免こうむる。
 結局、駅をはさんで反対側、庁舎のある方の、駅から十分ほど歩いた所にあるマンションに決めた。契約だけを済ませ、これから一部のリフォームをするとの事で、終了したら連絡をくれる事になった。
 担当してくれた男性にお礼を言い、店を出ようとしたところで、自動ドアから入ってきたのは真吾だった。
「恵、な、に、やってんの? ですか?」
 相当狼狽していた。
「何って部屋を契約しに。離婚決まったから」
「ウソ......」
「嘘じゃないよ。それじゃ」
 そう言い残して私は店を出て、電車で帰宅した。


 玄関の鍵を回し、ドアを開けると、そこに見慣れないローヒールのパンプスが一足、揃えておかれていた。
 これは......。


17

 すぐに昭二が飛び出てきて、「彼女が、挨拶に来てるんだ」
 挨拶? 私は親か? どのつら下げて挨拶だよ。軽蔑の感情しか沸いてこなかった。
 リビングに入るなり「この度は申し訳ありませんでした」と涙声で土下座をする黒髪の女性がいたので驚いて声を上げてしまった。
「あの、顔を上げてください。あの、ソファに座ってください」
 相手が妊娠している事を咄嗟に思い出したのだ。
「お茶、入れるからちょっと待っててください」
 そう言って私はスリッパを履き忘れていた事に気づき、玄関にとって返し、それからお茶を淹れた。何故私が狼狽えているんだろう。ここでの優位は私の筈なのに。

「どうぞ」
 コトッとガラステーブルにお茶を置いた。彼女は無言で頭を下げた。
「で、挨拶とは、何」
 昭二の方を向いて言った。彼女はずっと下を向いている。
「二人できちんと謝罪しようと思ってそれで......」
 昭二まで下を向いてしまった。私が二人を叱っているようではないか。まぁそれと殆ど同じ状況ではあるのだが。
「謝られても、どうにもならないから。もう部屋も決めて来たから近いうちここを出ていくから。慰謝料はきちんと払って。謝られても一銭にもならないからね」
 けち臭くて厳しいとは思ったが、きちんと言っておかなければならないと思った。私は彼女の方を見て続けざまに言った。
「お腹の赤ちゃんには何の罪もないから。大事に育ててあげてください。養育の為に必要な分のお金まで分捕るつもりはないから」
 彼女はしくしくと涙を流し始めた。泣きたいのはこっちの方だ。
「弁護士たてるならたてるし、そっちで決めて。離婚が成立するまで一ヶ月ぐらいはかかるだろうから、その辺どうするか早いうちに決めて」
 二人は無言で頷いた。
「あの、せっかくだから、お茶飲んでってくださいね。カフェインレスじゃなくて申し訳ないけど」
 彼女は顔を上げて涙を拭いた。鼻筋の通った美人だった。あの時はただただ不快なにおいでしかなかった香水も、彼女がつけていた事を思うと、そんなに不快に思わなかった。
 夫を取られた、そんなふうにも思わなかった。もう、愛なんてそこには存在していなかったからなんだろう。愛していない、ただの同居人。
 ただ、法律的にはセックスする事の許されない相手とセックスをした昭二はやはり悪い訳で。私はそこにしか拘っていなかった。

 お茶を飲んで、彼女は再度「本当に申し訳ありませんでした」と深々と謝罪をした。
「あの、いいです、後は昭二とケリつけますので、お身体大事になさってください」
 下まで送って行けば、と昭二の背中を押して、彼女と昭二は部屋を出て行った。

 私は寝室へ入り、部屋の鍵を閉めた。電話の子機を手にし、登録してある実家に電話を掛けた。
「あ、お母さん?」
『めずらしいねぇ。どうしたの?』
「お父さん、今日仕事?」
『いるけど、お父さんじゃなきゃだめ?』
「たまにはお父さんでお願いします」
 ふふっと笑って母は父に電話を代わった。
『もしもし、たまにしか出ないお父さんだけど?』
 ぷっと吹き出し、私はベッドにゴロンと寝転んだ。
「あのさ、私離婚するから」
『え、なに? 何それ?』
「そうやってお母さんもショック受けるかも知れないと思って、お父さんに代わって貰ったの」
『はぁ、でも何で?』
 理由まで言うか迷った。今度実家に帰った時でもいいかとも思ったが、いつ言っても同じだ。
「昭二が女を妊娠させた」
『何だよそれは』
「まぁこっちは慰謝料貰ったりして何とかやっていくから。落ち着いたらそっち行くし。お母さんには、これからショッキングな話をしますので落ち着いて聞いてください、って言ってから話すんだよ」
『分かった分かった。んじゃな、身体に気ぃつけて』
「じゃぁね」


 夜、真吾から『詳しい話を聞かせてよ』とメールが着たが、返信はしなかった。


 翌日の昼休み、私は戸籍を取り扱う窓口へ行き、離婚届を受け取った。顔見知りの人間が窓口にいたので少し怯んだが、関係ない。私は前に進むしかないのだから。
 席に戻ると、丁度相沢さんが昼食から戻ってきた。
「相沢さん、私、これを書く事になりました」
 手に持っていた薄っぺらくてつるつるの紙を見せた。
「え、じゃぁ不妊治療の事で仲違い?」
「いや、それもありますけど、旦那が同僚を孕ませちゃって」
 苦笑しながら言う私の顔を、相沢さんは口をぽかんと開いたまま見つめていた。穴が開くかと思った。
「牧田さん、大丈夫なの? 辛かったら休んでもいいんだからね」
 相沢さんらしい、優しい気遣いだった。
「大丈夫です。手続きするにも庁舎にいた方が何かと便利ですし」
 本当に大丈夫だった。離婚を切り出されて、ショックを受けなかったというと嘘になるが、立ち直れない程ではない。現に、もう部屋まで決めてきた。
 それより心配な事は、夫との縁が切れた時。夫という足枷が外された時。私の心は真吾へ向かって行ってしまうのではないかという事だった。真吾は同僚の女の子に告白されたと言っていた。彼が離れていく事が、怖かった。
 不貞行為がなかっただけで、私は「浮気」をしていたんだ。真吾に浮ついた気持ちで接していたんだ。彼に甘えていたんだ。
 そう考えると、昭二に厳しくし過ぎるのは何かおかしいような気もしてきた。


 帰宅し、ダイニングテーブルに座って離婚届を記入した。最後に判をついて、ボールペンと一緒にそこに置いたまま、私は寝室へ向かった。
 客用の布団をクロゼットから取り出し、それを敷くと、私はそこに横になった。
 スマートフォンが暗闇の中で光った。見ると、真吾からのメールだった。
『会う事は出来ない?』
 会いたかった。今すぐにでも。無性に会いたかった。
『出来ない』
 私は返信をし、布団を被った。もうすぐ三月になる。風の香りが変わる。
 私の生活も変わる。私自身は......変われるだろうか。真吾の優しさに甘えてばかりの自分から、脱却できるんだろうか。


18

 翌朝、起きるとダイニングテーブルに、全ての項目が記入され、判が押された離婚届が置いてあった。まだ昭二は眠っている。
 私はそれを丁寧に折りたたんで鞄にしまい、朝食の準備に取り掛かった。
 同じ素材の、少し色の違う紙に記入をした時は、二人一緒に並んで、何やかんやいいながら書いた事を思い出す。
 紙切れ一枚で繋がるんじゃない、心で繋がるんだ、とか昭二が言ったりして。愛していた、確かにあの時私は昭二を愛していた。
 それが今じゃ、紙切れ一枚で千切れる仲になった。結婚とは、こういう物か。

 出勤してすぐに、戸籍課に寄って離婚届を提出した。時間前にも関わらず、同期の女性がそれを受け取ってくれた。
 仕事中にスマートフォンが着信を知らせたので、液晶を見ると、不動産屋からの電話だった。私は「もしもし」と応答し口元を押さえながら非常口から外に出た。
『例の物件なんですが、リフォームが済みましたので、鍵をお渡しする事が出来ますから、ご都合の宜しい時に店にいらしていただけますか?』
「あぁ、分かりました。今日の夕方に伺います」
 今週末にでも引っ越しをしよう。昼休み、引っ越し社の予約を取り、土曜に引っ越す事になった。
 仕事の帰りに不動産屋に寄ると、先日対応してくれた男性がまた席に通してくれた。
 鍵を受け取り、注意事項を何点か聞いている間、辺りを見回した。真吾はいなかった。
 鉢合わせにならないよう、私はさっさと店を出た。
 今週は引っ越しの荷物をまとめる作業をするために、ショッピングセンターには寄らずに真直ぐ家に帰る事にした。
 毎日少しずつ、使わない物から徐々に箱詰めをしていき、普段使わない和室にどんどん段ボールが重なっていった。食器類も、必要最低限は確保した。
 客用布団は土曜の朝、畳んで引っ越し業者に渡そう。

「じゃぁ、お願いします」
 引っ越しのトラックに乗せてくれると言うので、新居まで乗って行く事にした。
 昭二には「また連絡するから」と言って笑顔で手を振った。
 そう遠くない距離の引っ越しで、荷物も少ないため、引っ越し作業はあっという間に終わった。
 一人になった新居で、まだテレビもなく、携帯の音楽プレーヤーで音楽を聴きながら荷解きをした。
 食器を入れる棚もないので、とりあえずキッチンに置き、洋服はハンガーに掛けられるものだけをクローゼットに仕舞い、衣装ケースのまま持ち出した物は、そのままクロゼットの下に仕舞いこんだ。
 そう広くない部屋だけど、一人で暮らすには十分すぎる大きさだ。
 明日、必要なものを買ってこなくては。小さい丸いテーブルを出してきて、冷たいフローリングにお尻を付けて、メモに必要なものを書きだした。大きなものは買えないけれど、電気ストーブ位は買ってこないとな。
 テーブルに置いておいたスマートフォンが光った。真吾からのメールだった。
『引っ越しはいつ?』
 会うのを拒んで、何も伝えていなかった事を思い出す。
『もう引っ越した』
 それ以上の事は送らなかった。


 翌日、ショッピングセンターに買い物に出かけた。電車に乗らずに済むので気楽だった。
 今は便利なサービスがあるもので、買った物をその日のうちに家まで配送してくれるという。
 トイレットペーパーなどのかさばる日用品は、全て配送に任せた。
 家電売り場で、手ごろな大きさのヒーターを見つけた。それは持ち帰る事にした。
 丁度昼ごはんの時間になるところだったので、いつものカフェに寄った。荷物は両手にいっぱいになっていた。
 夕方には配送が来るはずだから、それまでに帰らないと......と段取りを考えながらパンを食べていた。
「恵」
 スマートフォンにメモをしていた手を休め、顔を上げるとそこに立っていたのは真吾だった。
「あぁ、何か久しぶり」
「何か、じゃないよ。全然会ってくれないんだもん。俺このカフェ通るたんびに窓から覗いてて、絶対変質者だと思われてたよ」
 私はクスっと笑った。
 真吾は私の足元にある荷物を見て、「それ全部持って帰るの?」と目を見開いた。
「うん。すぐ必要そうな物だけ買ったつもりなんだけど、他にも配送さんが夕方に来るから、それまでに帰らないとなんだ」
 ホットコーヒーだけを頼んだ真吾は、アツアツのコーヒーに息を吹きかけていた。
「パン、一つ食べる?」
「いや、俺朝ご飯遅かったから、大丈夫」
 私はパンを食べながら「そう」と言って、無言で昼食を進めた。
「俺、今日暇だから、買い物付き合うよ。荷物も多いだろうし」
「え、別にいいよ。一人で何とかするから」
 そう言って紅茶を口に含むと、真吾は膨れっ面をした。
「俺にだって協力させてくれよ。力になりたいんだよ」
 仲間外れにされた子供の様だった。
「じゃぁ、お願いしようかな」
 過度の期待は持たないように、持たせないように、あくまでも私たち二人は、幼馴染である事を忘れないように、と心に刻み込んで。

「とは言え、あとは配達してもらう家具ばっかりだから、これ以上荷物は増えないんだけどね」
 真吾はヒーターを持ってくれた。私は雑貨が入った袋を持ち、小さな食器棚を届けてもらうよう店員さんに頼んだ。明日にはくるそうだ。
「そこまででいいから」
 駅につき、真吾の家と私の家の分岐点に差し掛かったところでそう言い、ヒーターを持とうとすると、彼は手を引いた。
「だから、協力させてくれって言ったでしょうが。家まで持って行くから」
 頑なな態度は崩れない事は良く分かっている。昔からだから。結局そのまま十分歩き、自宅に到着した。
「あのさ、お茶とか出せる感じじゃないし、あがってもらっても」
「おじゃましまーす」
 私が話している最中にはもう、靴を脱ぎ、ヒーターを持ったまま室内へ入って行った。
「ほんっと、何もないね」
 むっとした私に「ごめんごめん」と謝るその顔には笑みが浮かんでいる。
 フローリングから冷気が昇ってくる室内に、とりあえずヒーターを設置し、私は薬缶でお湯を沸かした。ポットは明日、配送されてくる。
「紅茶ぐらいしか出せないけど、いい?」
「あ、お構いなくー」
 ヒーターの前を陣取って手を擦り合わせている。ハエのようだった。
「夕飯は?どうすんの?」
 手を擦り合わせながら真吾が言うので、「うーん」と少し考えた。
「近くにコンビニあるから、とりあえず何か買ってくるかなって感じ」
「じゃぁ、蕎麦にしよう。引っ越し蕎麦。それ食ったら俺、帰るから」
 何で夕飯までここにいる事になってるの......。私は目を覆った。
 私は夕方の配送を待ち、その間に真吾がコンビニまで行って蕎麦を二人前買ってきてくれた。
 寒いのに、冷えた蕎麦を食べてさらに身体が冷え切って行く。
「寒い」
「エアコンつけないの?」
「省エネ」
 そう言って私はクロゼットから厚手のカーディガンを取り出し、羽織った。そのまま席に戻ろうと思ったが、デニムに手のひらを擦り合わせている真吾を見て、もう一枚同じような上着を取り出し、彼の肩から掛けた。
「あ、ありがとう。寒くないのに」
 そう言って上着を持った指先は血の気が引いて真っ白だった。「寒い癖に」
 もう一度薬缶にお湯を沸かし、たっぷりめに紅茶を淹れた。湯気の立つマグカップをテーブルに運ぶと「サンキュー」と言って真吾は両手でカップを持った。
 私がテーブルにつくと、「俺さぁ」と口を開いた。
「告白されたって、言ったでしょ。後輩の女の子に」
 聞きたくないような、聞きたいような、そんな気分で、「はぁ」と微妙な返事をしてしまった。
「断ろうと思ってるんだ」
「え、何で? 奥さんの事も分かってて告白してきてるんだったら、いいんじゃないの?」
 真吾は首を左右に傾げた。
「俺、好きな人いるから」
 一瞬、身体の芯がぐらりと揺らいだが、何とか耐えた。
「何だ、じゃぁそう言って断ればいい」
 ひしゃげた笑顔でそう言うと、真吾は顔を崩さないまま、黙っている。
「何か、変な事言った? 私」
 薄々感づいていた。彼は私に言った。諦められない、と。私も同じことを言った。
「本当は、分かってるんだろ?」
 俯いたままぼそっと、真吾は言った。私は目線を泳がせた。「何が?」
 自分の感情にまっすぐに生きられる人間を私は、羨ましく思う。
「俺は恵の事を諦められない。恵だってそうだって、言ったよな?」
 私はそんな風に生きられない。自分を押し通せない。
「勝手に消えたと思ったら、ふらりと現れて、諦められないだなんて言われたって、困るよ。離婚だってまだ成立してないんだし」
 下を向いていた真吾が顔を上げ、私を見た。
「離婚が成立したら? そしたら俺の方を向いてくれるの? そういう事?」
 少し攻撃的な物言いが癇に障った。
「自分からいなくなっておいて何なの! 私の中ではあの雪の日のまま、二人の時は止まってるの。幼馴染のまま、時が止まってるの」
 今更一緒になんてなれない。なりたいのは山々。だけどなれない。幼馴染は「幼馴染」でしかないんだから。
 真吾は肩にかけていたカーディガンを私の肩に被せた。彼のぬくもりが加わった。
「恵の匂いがした」
 そう言うと自分の黒いダウンジャケットに袖を通し、玄関を出て行った。


19

 三月の終わり、離婚が成立した旨が記された文書が送られてきた。
 と同時に、昭二から連絡があり、家で話したいと言ってきた。
 私は約一か月ぶりに、昭二の家を訪れた。
 インターフォンを鳴らすと出てきたのは彼女で、部屋の中からはあの香水の香りがほのかに香った。
「どうぞ」
 遠慮気味な笑みを浮かべながら彼女に促されるまま靴を脱いだ。もう一緒に暮らし始めたのだろう。彼女の靴が数足、玄関に置かれていた。
 リビングに入ると、ソファに昭二が座っていた。
「久しぶり」
 お互いそう言うと、私は昭二の正面に座った。
「単刀直入に言うと、お金の話なんだ」
 彼女はコーヒーを運んできた。「どうも」と言いそれを手にした。
「それで?」
「俺は株で結構もうけた。もうやらないから、高値で売ったから結構な財産になった」
「はい」
 話の結末が見えなくてイライラした。株でもうけた話なんてどうでもいい。
「財産分与と慰謝料と合わせて五百万円出そうと思う」
 私はコーヒーを持つ手が滑りそうになった。五百万?!
「そんなに?」
「示談で済ませてもらったってのもある。それに、彼女の妊娠で恵にはショックを与えただろうとも思ったし、俺なりの誠意の額で、五百万。手を打ってくれるか?」
 いくらなんでも高すぎるとは思った。それでも彼が「誠意」と言って支払うと言っているのであれば、受け取ろうと思い、一つだけ確認した。
「コレを払って、お腹の赤ちゃんが貧困するって事はないよね?」
 そう言うと、アハハと昭二は笑った。
「だから言ったろ、結構儲けたんだよ。大丈夫。お前の口座番号は知ってるから、振り込む。今、紙に書くから待ってて」
 ソファから席を外し、ダイニングでメモ用紙に何かを書いている。そのメモ用紙はすでに見慣れない物に変わっていた。そういえばコーヒーカップも、見た事がない物だ。
「これで証書になるか分からないけど、きちんと支払うから」
 支払期限と名前、金額が書かれていた。ご丁寧に印鑑まで。
「分かった。これで交渉成立。多分会う事もないだろうから、元気でやってね」
 立ち上がると私は残っていたコーヒーをぐいっと飲み干した。
「あぁ、恵も」
「お身体大切になさってくださいね」
 キッチンに立ちっぱなしだった彼女にそう言うと、無言でお辞儀をされた。
 玄関を出て、静かに扉を閉めた。もう二度と、このドアをくぐる事はないだろうと思い、何となくドアに触れた。私の思い出。さようなら。

 四月の空気はミントを思わせる。少し冷たく、少し青く。
 今月私は二十六回目の誕生日を迎える。
 私は牧田恵から、下田恵に戻った。久しぶりの自分に会った気分だった。
 二十六歳になったら、どんな私になりたいか、考えた。
 昭二に対して何も言えないでいた私。自分を押し殺してきた私。そんな私を脱ぎ捨てたいと思った。


 引っ越し蕎麦を食べた日以降、私は真吾に連絡をしていないし、真吾からも連絡はない。
 このまま関係が解消されるのであれば、それでも良いと思った。幼馴染は幼馴染。死ぬまで幼馴染なのだ。
 ふと、彼の口癖だった「死にゃしない」という言葉が頭をよぎった。
 真吾に会わなくたって、死にゃしない。幼馴染のままだって、死にゃしない。
 それでも思うのだった。真吾の奥さんだった人のように、人間はいつ死ぬかもわからない。
 その時に「やっておけばよかった」「言っておけばよかった」と思っても遅いのだ。
 「死にゃしない」とは言いきれないのだ。
 そのためにも私は、言いたい事を、言いたい時に言える自分に成長したい。
 ついさっきまで、このまま会わなくてもいいと思っていた真吾に、突発的に「会いたい」、そんな気分になった。


20
 一人で誕生日を迎えるのなんて、何年振りだろう。
 学生時代から昭二と付き合っていて、誕生日はいつも祝ってもらっていたから、ずいぶんと長い事「一人の誕生日」からは離れていた事になる。
 仕事の帰りに、近くのコンビニエンスストアで小さなケーキを買った。
 一番小さくても、二つ入りのショートケーキしかなくて、仕方なくそれを買った。
 二つも食べたら胃が凭れそうだ。ビニールに入っている二つの三角を上から眺めながらそんな事を思う。多めに紅茶を飲んで対処する事にしよう。

 夕飯はあるもので済ませた。
 冷凍してあるご飯と、肉野菜炒め、サラダ、味噌汁。
 だいたい一人の食事はこんなメニューになる。まぁ、身体には悪くないだろう。誕生日だからといって特別なメニューにはしなかった。むなしくなるだけだ。
 今日はケーキ二個分の余力を残すため、肉野菜炒めを少な目に作った。
 何となく無音なのが嫌で、スマートフォンでラジオを流しながら夕飯を食べた。でも、テレビを見たいと言う気分でもなかった。むなしくすぎて行く、二十六歳の誕生日は、あと数時間で終わりを告げようとしている。
 夕食を終え、食器を洗う。ここのマンションには食器洗浄機が無い。前の家では重宝した物だが、今は一人暮らし故に、汚れる食器の数はたかが知れている。手洗いで十分。
 四月の終わりといえどもまだ肌寒く、給湯器からはお湯を出し、食器を洗い終えた。
 手を洗い、ハンドクリームを塗る。お湯で食器を洗うと、水分が飛んで肌荒れしやすくなるのだ。
 今日は少し残業をしてきたせいで、もう二十一時を回っていた。シャワーを浴びてからケーキを食べるか、ケーキを食べてからお風呂に入るか、散々迷った挙句、シャワーを優先する事にした。

 シャンプーをする為に一度シャワーを止めた時、「ピンポーン」とインターフォンの音がした。二度、鳴った。残念ながら出る事は出来ない。
 先日両親に新しい住所を教えたからきっと、宅急便で食糧でも送ってくれたんだろう。後で不在票を見てみよう。
 そう考えていると、再び、インターフォンが鳴った。なかなかしつこい宅配業者だと思いつつ、シャワーのノブを捻り、頭を洗った。それからはシャワーの音だけが耳に届いていた。

 シャワーから上がり、髪をタオルドライしながら玄関ドアについている郵便ポストを開けてみたが、不在票は入っていなく、代わりに冷気がこちらに向かって注ぎ込まれた。
 するとまた「ピンポーン」とインターフォンが鳴った。
 玄関のドアの向こうに誰かがいる気配がする。何だか怖くて私はわざわざインターフォンのスピーカーの所まで走って戻り、「どなたですか?」と訊いた。
「風呂、長いんですけど」
 呆れかえったように話す声の主は、ほかでもない、真吾だった。

 玄関を開けると、鼻の頭を真っ赤にして、寒そうにダウンに首を埋めている真吾が立っていた。今日は四月にしてはかなり冷え込んだ一日だった。
 しばし、見つめ合う。どちらかが何か言い出すのを待っている。先に口を開いたのは私だった。
「中、入りなよ」
「うん」
 少し鼻声の彼は、ポケットに手を突っ込んだままスニーカーを脱ぎ、部屋に入る。
「こんな時間にどうしたの?」
 私はタオルで髪を拭きながら彼に訊ねた。
「いや、今日、恵の誕生日だから、仕事終わりにちょっと寄ろうかと思って来たら、何かシャワーの音がして。んで玄関の前で待ってた」
 ダウンを着たままで立っている彼に「座って」と促し、ヒーターを彼に向けた。彼は何も言わずに片手をついてその場に座る。
「今お茶淹れるから、髪の毛乾かすまで待ってて」
 そう言って私は洗面所に戻り、髪を乾かした。温風を使ったおかげで、少し身体が温まった。
 紅茶を淹れながら、ケーキの事を思い出した。丁度いい。二人分あるではないか。
 冷蔵庫からケーキを取り出し、二つのお皿に分けて、フォークを添えた。
 それらをお盆に乗せて、テーブルに出した。
「あ、ケーキだ」
「うん、コンビニで買ったら二つ入りしか売ってなくて。丁度いいから真吾、食べて。ショートケーキ好きだったよね」
 真吾はじっとケーキを見つめている。
 彼と誕生日を迎える時はいつも、コンビニのショートケーキだった。お互いの誕生日には、お互いがお小遣いで買ったケーキを食べる。そんな風にしていた。コンビニのショートケーキが二人のご馳走だった。
「じゃぁ、お誕生日、ありがとう」
 私は自分で言いながら妙だなと思いつつも、フォークを持ち、ケーキを食べ始めた。
 真吾は小さな声で「おめでとう」と言ってケーキを口に運んだ。
 ラジオが聴きたい。そう思う程、室内は静まり返っていた。
 真吾のケーキはあっという間になくなり、私のケーキもそのうち姿を消した。
 二人とも無言で、紅茶を飲んでいる。
 そもそも、誕生日だからといってこの人のは何をしに来たんだろうか。
 何かしてくれる訳でもなく、何か話す訳でもなく、黙って座っているのは何故なんだろうか。
 ちらりと彼を見遣った後、私は沈黙を破った。
「ねぇ、何で今日、ここに来たの?」
「いや、誕生日だし」
 首の後ろに手を遣り、首を傾げている。何なのだ。
「それだけ?」
 私は少し冷えてきた頬に、紅茶のマグカップをあてると、真吾がヒーターを私の方へ向けてくれた。
「恵の誕生日だけど......」
「ん?」
 やけに尻窄みの口調で話す真吾が珍しくて、私は身を乗り出して彼の顔色を伺った。
「俺の話を聞いて欲しくて来た」
「何だそりゃ」
 私は首を傾げてから立ち上がり、パソコンデスクの椅子に掛けてあったカーディガンを羽織ると、ヒーターを彼に向けた。私はそのままパソコンデスクの椅子に座り、脚を組んだ。


21
「一生のお願いは、二回までだって言ったよな」
 そんな事をやにわに言い出すので、思い出すのに時間を要した。「あぁ、うん。言った」
「俺、一回分残ってるんだ」
「そうですね」
 真吾は少し俯いて、それから椅子に座っている私の顔を見上げた。
「ここに、座って」
 自分の正面を指差して言った。
「何、それが一生のお願い?」
「違うよ、これは前座」
 何が何だか分からなくて、私は短くため息を吐きながら、真吾と対面する形で座った。
 彼は私の目をじっと見た。あまり強い視線で見るので、私の瞳はちらちらと揺れてしまっているのが、自分でも感じ取れた。
 と、いきなり真吾は土下座の姿勢を取った。
「一生のお願いだ。俺の幼馴染なんてやめちゃってくれ。俺の、嫁さんになってくれ」
 心臓がぎゅっと握りつぶされる感覚だった。何を言い出すかと思えば......。
「何の冗談?」
「冗談じゃない。一生のお願い。嫌だったら恵の一生のお願いを使って断ってくれ」
 脱ぎ捨ててあったダウンのポケットから小さな箱を取り出し、パカっと開いて見せた。
「指輪の大きさが分からなかったから、ネックレスしか買えなかったんだけど」
 そこには、ダイヤではない、キュービックジルコニアなのかも知れないけれど、光を受けて四方八方に輝く石が三つ連なった、美しいネックレスが掛かっていた。
「俺の給料じゃたかが知れてる。こんなもんしか用意できなかったんだけどね」
 言ったもの勝ちの様に、彼は堂々とし始めた。やっと、彼らしさが見えてきた。そんな風に感じ、ふんわり空気が温かくなるのが分かった。

 私は何と返事をするか迷った。
 一生のお願いを使って断ってもいいと言った。
 私の一生のお願い。残り一回。どうせなら有意義に、ずるく賢く使いたい。
 彼はそのネックレスをテーブルに置き、そしてまた私に視線を移した。私はその強い視線には耐えられないと思い、俯いた。
「返事、無し?」
 二十六歳になったら、言いたい事を、言いたい時に言える自分になりたい、そう思ったんだ、私は。言わなきゃ、そろそろ時間だ。

「私の一生のお願い、二回目、聞いてくれる?」
 首をかしげるようにして訊くと、真吾は崩していた脚を正座に直し、「うん」と頷き、相変わらず穴が開く程私を見ている。
 大きく息を吸い、吐いた。大きく瞬きをした。準備はもうできた。あとは口に出すだけ。
「もう勝手にどこかに行ったりしないで。一生、私の手を離さないで」
 言ってから咄嗟に恥ずかしくなってきて、ドキドキして、カァッと顔が赤くなるのが分かって、手が震えた。言いたい事を言うって、こんなに大変な事なんだ。
「これでお互い、一生のお願いを使い切ったという事で」
 真吾は両腕を広げて私を見た。何がしたいかは分かる。
 私は微笑んで、一つ息を吐き、そして彼の胸に飛び込んで行った。
「まだ離婚したばっかりだから、すぐにお嫁さんにはなれない」
 彼の胸に沿っている私の口から紡がれる音は、くぐもっている。
「すぐじゃなくていい。約束してくれたらいい」
「赤ちゃんはできないかもよ?」
 真吾の大きな掌が、私の背中をゆっくりと上下に擦る。
「いいんだ、恵がいれば十分。ネコでも飼おう」
 私は彼の胸から顔を離し、顔を見て笑った。彼も笑った。
「お母さんが飛び上がって喜びそう」
「うちもだな。二階から飛び降りるぞ、多分」
 ゲラゲラ笑った。あの頃と同じだ。

 真吾の一生のお願いによって私たちは幼馴染と言う関係を解消したが、実際には幼馴染であるという事実を変えられるわけはない。
私達の思い出の中には幼馴染だからこその二人の出来事や思い出が沢山ある。
 あえて「幼馴染」である事、そうでない事にこだわる必要は無い。
 偶然隣の家に住んだ二人が偶然同級生で、偶然惹かれあい、成長し、別れ、偶然同じ街で出会って、惹かれあい、結ばれる。
 そう、全ては偶然の産物であって、必然じゃないんだ。


「真吾、啓太がネックレスどっかにやっちゃったんだけど!」
「さっきパソコンのとこにつかまり立ちしてたぞ」
「うそ」
 まさかと思ってディスクドライブを開けると、中からジルコニアのネックレスが絡まって出て来た。
「誰に似たらこういういたずらっこになるんだかねー」
 私は膨れてきたお腹をさすりながら、啓太の頭にぽんぽんと優しく触れた。

FIN.(あとがきあり)

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