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11.
 着信を知らせるけたたましいベル音で目が覚めた。寝てしまっていたらしい。口角からだらしなく垂れる涎を手のひらで拭い、携帯の液晶を見ると、総司からだった。
「総司?」
『あぁ、俺。ごめん。ちょっと飲み会が盛り上がってて帰れそうにないんだ』
 私は少し無言になった。電話の向こうは水を打ったように静まり返っている。
「そう、分かった。じゃぁ先に寝てるね」
『うん、じゃぁ、お休み』
 私は通話終了のボタンを切った。
 盛り上がっている飲み会。総司の声の後ろは、物音一つしなかった。しーんと静まり返っていた。もし飲み会の会場から外に出ているとしても、だ、何かしらの音はするだろう。
 物音一つしなかった。まるで、そう、まるでホテルの一室に入っている様に、だ。
 ファンヒーターを消して、寝室へ向かった。この家に越してきてから、このベッドで一人で眠りにつくのは初めてだった。
 窓からはるか遠くの方に、新幹線の駅が見える。あの辺りにあるホテルの宴会場が会場になっていた。東京方面から来る人たちはホテルに泊まると言っていた。
 まさか、ねぇ。総司に限ってそんな。
 まさか、女の人と一緒にいるなんて、そんな。
 否定しようと思えば思う程、様々な光景が頭に浮かんでは消え、眠りにつけない。結局、朝方眠りにつき、すぐに総司に起こされる羽目になった。


「エリカ、ただいま」
 そう言ってベッドに横になっている私にすり寄ってきた総司の洋服からは、総司の煙草の匂いとは別に、薄らと甘い匂いがした。何かに、似ている。嗅いだ事のある匂い。キンモクセイ?
 まさか、ねぇ。
「お帰りなさい。沢山呑んだの?」
「まぁ、そうだね。ごめんね。タクシーで帰ってきた」
 呑んだ割に、息だって臭くないし、二日酔いの兆しも無い。総司はあまり酒に強くないのだ。呑み過ぎると大抵体調を崩す。
「服、煙草臭いよ。洗った方が良いよ」
「そうだね。着替えてご飯食べて、仕事行くか」
 作業着と下着をタンスから引っ張り出し、その場で着替えた。
 何故だろう。何故「シャワーを浴びる」と言わないのだろう。いつだって必ず日に一回はシャワーを浴びないと気が済まない性分の総司が、シャワーを浴びると言わない。どこかで浴びてきたんだろうか。
「じゃぁこれは洗濯に出すね」
 彼が着ていたシャツとカーディガンと下着を一階へ持って降りた。
 再度、カーディガンの匂いを嗅ぐ。これはどうしたって男の匂いではない。

 丁度義母が起床してきて「急がなくていいから」と言われたけれど、総司が仕事に出かけなければならないので急いで朝食を作った。

「あんた、何時に帰ってきたの」
 朝食を食べながら義母は顔を上げずに総司に訊いた。きっと朝帰りだったことを知っているのだろう。
「朝」
「バカか」
 義母は右隣にいた総司の頭をバシッと叩いた。総司はまるで子供の様に首を竦めた。
「エリカちゃん、ずっと帰りを待ってたんだからね。寒いのに」
 そう言えばファンヒーターの位置を動かしたまま、雑誌とカーディガンを置いたままで二階に上がってしまった事に今更気付いた。義母はそれを見たのだろう。
 朝食を出し終えた私は座敷に行き、ファンヒーターの位置を戻し、雑誌とカーディガンを二階へ持って上がった。何となく総司と顔を付き合わせて朝食をとりたくなくて、総司が出かけてから一人で朝食を食べた。


 洗濯物を干すにも上着を着ないと寒い。そろそろ土間に干す事にするか、なんて考えながら庭の物干し竿に洗濯物を干していると、匂いを嗅ぎつけたように陽子が外に出てきた。
「こんにちは」
「昨日はどうも」
 私を追い詰めたあのひと言。あれが無かったら私は不安に駆られなかったかも知れない。いや、あれが無かったら知らないままだったかも知れない......?
「大人気だったよ、あなたの旦那さん」
 縁台に腰掛けて私の方を覗き込むようにして言うのが分かったが、私はそちらを向かなかった。
「そうですか。誇らしいです」
 クスッと笑われた。何が可笑しいんだ。
「で、総司は何時ごろ帰ってきたの?」
「朝ですけど」
 私は不快感を隠さない語り口で返した。
「やっぱり。じゃぁあの中の誰かと......かな」
 にんまりと気味の悪い笑みを浮かべる陽子を見てしまった。吐き気がした。
「あなたの旦那は、押されると弱いの。知ってるの」
 義母の言葉が頭の中を反芻する。変に優しい、総司。陽子に言い寄られてセックスし、妊娠させてしまった、総司。目の前にいる女を、刺殺してやりたい気分だ。
 そんな気分が顔に出てしまったのだろう。「怖い顔」と言われ、我に返った。
「少なくとも私は総司に手を出してない。当たり前か。健が一緒だったからね。他の女は知らない。女が集ってたのは事実。それだけは教えておく」
 部屋の中から陽子の義母が窓を叩き、陽子を呼んでいる。私は彼女と目が合い、会釈をした。
 洗濯物を干し終えた手の平は冷たさで真っ赤になっていて、痛いぐらいだ。籠を持ち、陽子には何も言わずに部屋へ戻った。
 明日からは、洗濯物は土間に干そう。そうすれば陽子と顔を合わせずに済む。


 帰宅した総司は、いつも通りの顔で「ただいま」と言って私に抱き付いて来た。少し、一歩だけれど、後ろに避けようとしてしまった。
「母ちゃんは?」
「もう寝たよ」
 そう、と言いながらダイニングの小型テレビをつけ、ニュースを見始めた。私は夕飯のメニューを再度温め直し、総司の前に置いた。いつもの光景だ。
「今日は久しぶりに、一緒にお風呂入ろうか」
 総司は大根の煮物を小さく千切りながらそう言う。中から汁が滲み出てくるのが、対面に座る私からも見える。
 私は声に出さずコクリと頷き、席を立ち、二階へパジャマや下着を取りに行った。


 いつもの様に、タオルを一枚、風呂場に持ち込んだ。
「俺が先に洗ってあげるよ」
 私を椅子に座らせ、肩までの髪を丁寧にシャンプーで洗ってくれた。
 その後、ボディソープを身体に撫でつけ、そのまま愛撫が始まった。
 身体を後ろから抱きしめられ、脚と脚を開かされ、そこを責め立てられると私は痙攣するように動いた。指が挿入され、私の愛液が滲み出る。
 それを合図に彼は胡坐をかいて座り、私を抱くように受け入れ、私は下から突かれた。
 その時、まだシャンプーをしていない彼の髪から、いつもと違う匂いがした。急に現実に引き戻される気がして、私は動きを止めた。
「どうした?」
 総司はもう頂点がすぐそこまで来ている様な苦し気に顰めた顔をしていたが、私は変に冷静になってしまった。
 私が何も言わないのを良い事に、彼は私を突きあげるのを止めなかった。そのまま彼は果てたが、私は全く快楽を感じなかったし、後半は不快でしかなかった。
 身体についたボディソープを洗い流し、自分で自分の秘部に指を突っ込み、洗った。何か、不快だった。
「気分が悪いから、先に上がる」
 彼が何か言ったが聞こえなかった。いや、聞いていなかった。私は身体をさっと拭くと、パジャマの上にカーディガンを羽織って寝室へ向かい、すぐにベッドに潜りこんだ。
 湯上りの総司がベッドに座って煙草をふかし始めたが、私は素知らぬふりをして背中を向けた。
 キンモクセイの香り。冬に片足を、いや、両足を突っ込んでいるこの町で、キンモクセイが咲いているのを見た事が無い。