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「楓ちゃんさ、今日の夜、暇?」
 大きな図面を前にして、やにわにそんな事を言うので「え、何で?」と訊き返す。
「もし良かったら、飯、行かない?」
 咄嗟に思い浮かぶ無機質な目線が私の首を横に振らせた。
「行けないよ。ばれたら何されるか分かんないし」
 彼は手に持っていたシャーペンで顎を突きながら何か考えている。その様を見ながら私は、誘いを瞬時に断ってしまった事が申し訳ないなと思い、他に言い訳を考えた。しかし私が何か言うより早く、彼が口を開く。
「心配なんだ。こんなに短期間にさ。こういう事があると。奈々美がやった事だとしたら俺、やっぱり奈々美に話さなきゃなんないと思うし。相談しようよ。どうかな」
 暫く小さな会議室には秒針の音だけが響き、結局私は「うん」と首を縦に振った。
「でも、夕方からまた消火器の点検があるから、定時であがれそうもないんだ。だから待ち合わせって事でもいい?」
 彼は、もちろん、と言って、行きつけのお店だという「藤の木」という居酒屋の場所を教えてくれた。

 中野さんは「今日は急いでやろう」と消火器点検の図面を見ながら言う。
「何か用事あるの?」
 私は後ろを追いかけるような格好になりながらそう話し掛けると彼女は頷いた。
「奈々美がね、黒谷君に夕飯ドタキャンされて、機嫌悪いんだ。一緒にご飯食べに行く羽目になったからさ。急がないと」
 彼女の言葉に目が点になった。
「早くしようって、言ったんだけど聞いてます?」
 嫌味たらしい顔で覗き込まれた事にも暫く気づかず、中野さんの言葉を反芻していた。黒谷君がドタキャン?
 点検作業は上の空で、そこまでして心配してくれている黒谷君の事を想うと、胸の奥がズキズキと痛んだ。

 指定されたお店は、木彫りの看板が掲げられている渋い居酒屋だった。
 店内に入ると、恰幅の良い男性が「いらっしゃい」と笑顔を向けてくるので会釈をする。
「お一人で?」と訊かれ、私はきょろきょろすると、奥まったテーブル席に黒谷君の姿を見つけた。
「えっと、連れです。奥の」
 私は手の先を奥に向けると「あぁ、岳君のね。どうぞ」と笑顔を向けられる。その会話が聞こえたのか黒谷君が後を振り返って左手をひらりと挙げた。
「お待たせしてごめんね」
 椅子を引きながらそう言うと「いやいや、お疲れ様。ビールでいい?」と確認し、さっきの男性に向けて「生ひとつ」と注文してくれる。
 こうして顔を付き合わせて食事をする事なんて初めてで、入社してから男性と二人で食事をすること自体なかった事で、緊張してなかなか目線が合わせられないままビールを待った。着物を着た女性がつきだしとビールを運んできてくれた。
 とりあえずジョッキを合わせ、酒を呑んだ。
「消火器点検は無事終わった?」
 つきだしのたこわさを食べながら黒谷君が問いかける。
「三階の分がまだ残ってるけどね。殆ど終わったも同然かな」
 瞬時に中野さんの言葉が蘇った。黒谷君がドタキャン。
「ねぇ黒谷君、中野さんに聞いたんだけどさ、今日って添島さんと食事する約束してたって本当?」
 黒谷君は少し片眉をあげただけで殆ど表情を変えず「うん、そうだよ」と頷くので、私はこめかみをぐりぐりと押さえた。
「添島さん、ご立腹だったらしいけど、大丈夫?」
「奈々美は俺の彼女だけど、奥さんじゃないからね。俺の事を拘束する力はないんだよ。俺が誰と食事をしようと関係ない」
 淡々と答えながら、メニューを眺めている。その中から「適当に選ぶね」と言って何品か注文をしてくれる。
「ここだけの話だけど」
 彼は浅く腰掛けていた身体をぐっと深くし、頬杖をついていたずらそうな顔を私に向ける。
「楓ちゃんと二人でご飯、食べたかったんだ」
 大きな手の平に乗った端正な顔から、子供みたいな笑みが零れ落ちる。私の顔が赤くなる事を予期していたのか、赤くなった瞬間にまた彼の顔には笑みが広がる。
「添島さんに殺されるかも、私」
 黒谷君はクスっと笑って「殺されそうになったら、殺しちゃえばいいよ、奈々美なんて」とあっさり残酷な言葉を吐いたのに驚愕しつつ、いつか訊いた事があったよなと思いながら同じフレーズを口にした。
「付き合ってるんだよね、二人?」
「まぁね」
 その「いつか」とは違った返答の仕方だったので私は、あれ、と気が抜けたように呻いてしまった。
「いやぁ、まぁその話はあとにして。とりあえず食べよう。キムチ焼うどんがすげぇ美味いんだよ」
 そう言って小皿に焼うどんを移し、キムチを乗せた。麺にはりつく唐辛子の赤さがいつかの封筒についた小さな血の跡を思い起こさせて、私はなるべく唐辛子がついていない麺の部分を中心に盛り付けた。
「それにしても、例の嫌がらせ、困ったもんだよな」
 狭いテーブルの下で脚を組みながら彼はそう言う。私はひと呼吸あって「そうだね」と言って頷いた。
「でもさ、誰がやったかっていう決定的な証拠が無いから、どうにもできないんだよ」
 彼はお皿に割り箸をとんとん、と打ち付けて「奈々美でしょ」さらりと言うので私は不意打ちを食らったみたいに身体をのけ反らせてしまった。
「え、だって、あ、証拠ないし。まぁ動機は......あるのかもしれないけど」
 俯き気味に口ごもると「だろ」と割り箸でこちらを指すのが視野に入った。
「小さいとはいえ、怪我させてるんだよ? 傷害だよ? やっぱり言った方がいいと思うな。楓ちゃんからは言いづらいだろうから、俺から」
 いや、と私は言葉を遮った。
「黒谷君から言うのは絶対、逆効果だから。うん。言うなら私が言った方が良いと思うんだ」
 そうかな、と小首を傾げながらうどんを啜っている。私もビールに口を付ける。
「私は別に、黒谷君と添島さんの仲を裂こうとしてるとかじゃないのにな。どうして嫉妬されるんだろう」
 疑問に思っている事をそのまま口にすると「ねぇ楓ちゃん」と改まったように呼び掛けられ、顔を上げる。
「仲を裂こうとは、思わない? 俺の事ってどう思ってる?」
 お酒が入って頬が少し赤らんだ黒谷君の瞳は少し潤んでいて、それに倣うように私の頬も上気してしまう。「どうって......」私は視線を逸らした。
「黒谷君はカッコイイし、優しいし、いい人だと思ってるけど、添島さんと付き合ってるって知ってるし。ねぇ」
「じゃぁ俺が奈々美と付き合ってなかったら?」
 間髪入れずになされる質問に、私はついていくのがやっとで、ビールを多めに呑んで気を落ち着かせた。
「うーん、どうだろうね。他の人が黒谷君と付き合うんじゃない? 何かやってたじゃん、入社してすぐから黒谷君の取り合い」
「他の人がいなかったら? 俺が楓ちゃんと付き合いたいって言ったら?」
 ジョッキが手から滑り、テーブルにゴトっと叩きつけられた。天然木のテーブルが衝撃を吸収してくれて、割れずに済んだ。
「そんな、たられば話はさぁ、しても」
「たらればじゃないよ、俺は楓ちゃんと付き合いたいんだよ。好きだから、奈々美の嫌がらせから守りたいんだよ」
 遮られた言葉はコクリと飲み下して、改めて頭を整理した瞬間に、ドクンと心臓が大きく揺れた。酷く落ち着いた声で、もの凄く破壊力のある言葉を、黒谷君は吐いたんじゃないか。私はすぐに返答できず、彼の肩のあたりをただ茫然と見ていた。
 黒谷君は空っぽに近かった私の分と、呑み干した自分の分のビールを注文すると、改めて私に視線を移した。
「だから今日、食事に誘ったんだ。まぁ、居酒屋なんかで申し訳ないけど」
 私は彼の目を見る事がどうしてもできなくて、自分の手元に視線を移した。着物を着た女性が、ビールを運んできた。「でも」と私はぽつり、口を開く。
「添島さんは別れないんじゃない? 黒谷君の事、凄く好きそうだし」
 ジョッキを手に彼は無言で数回頷いたのが視野に入った。何か言おうとしているのが分かり、私は口を噤んでいた。
「何度か別れたいって言ったんだけど、ダメだったんだよ。だから、今回の嫌がらせが奈々美の仕業だって事が分かったら、それを理由に......ってこんな理由じゃ楓ちゃん、俺と付き合ってくれないよね」
 自嘲気味に笑う彼の姿を見て「そんな事無いよ!」と早口で捲し立てた。
「心配してくれるのはありがたいし、こんな私を好きになってくれることも嬉しいし、うん」
 自分で何が言いたいのかよく分からなくなってきて、両頬に手を当てて目を瞑り、首を振る。
「嫌がらせの件は、誰がやってるのか分かったら何とかするし、もっと危険な事が起きたら課長にでも相談するし、できるなら自分で何とかするから、あの、黒谷君は今のままで、えっとありがたいっていうか......」
 歯切れの悪さに苦笑した。彼もテーブルのあちらでカラカラと笑っている。ジョッキに手を伸ばすと、その手の上に、黒谷君の大きな手が添えられ、力が加わった。そこにもう片方の手が覆いかぶさった。相変わらず彼の指先は冷たくて、一瞬ドキっとする。
「課長じゃなくて俺に相談して。俺が楓ちゃんを守ってあげるから」
 潤んだ瞳でじっとこちらを見つめる彼は、ね、と言って私に同意を求める。
「あ、りがとう」
 呟くようにように礼を言った。その後は他愛もない話をしたが、私は彼の目を数度しか見る事ができなかった。好きだと言われた。守りたいと言われた。しかし立ちはだかっているのが添島さんだと思うと、妙な焦燥感に駆られる。

「そろそろ出るか」と言われて私は伝票を持って立ち上がったけれど、すっと伝票を取り上げられて「ここは俺が。二次会は楓ちゃんね」とスタスタ歩いていってしまった。私は首筋辺りを撫でながら苦笑し、彼についていった。