6 付箋の効力 仕事がやりにくいなんて思っていたのは私だけだった。 休み明けの月曜日、外回りの準備のために私はいち早く出社し、資料をまとめた。 私の次に出社してきたのは、高橋君だった。 「おはよ」 「おはようございまふ」 まずい、噛んだ。焦りが丸見えではないか。 「今日の営業先、予定表で渡してあったよな?」 ちょっと神経質そうに眉間にシワを寄せ、真面目で固そうに、低い声で言う、通常通りの高橋臨。 「あぁ、はい、うん。資料はここに」 私は全然冷静になれない。冷静になんてなれるものですか。この男、高橋臨は、彼女がいながら私にキスをし、好きだと言ったんですよー。 私は何も言い返せなかったんだから。いきなりだったんだから。テロみたいなもんだ。 それでも仕事は待ってくれない。書類を一纏めにクリアファイルに突っ込み、鞄にしまう。そして高橋君の後ろを追い、彼の運転する社用車に乗り込み、営業先へ向かう。 車中での会話もこれまでとは変わらず、他愛もない話に終始した。彼は何事もなかったかのように私に話し掛け、私はその度に体を固くした。 何故普通でいられるのかが、不思議だ。もしかして、あの出来事は私の妄想だったんじゃないか。そんな風に思えて来る。 ま、妄想な訳が無いんだけど。それは唇が覚えているから。 高橋君は、いい男だと思う。勤務態度は真面目だし、硬派っぽいし、凄いカッコイイし、それでいて時々見せる幼い笑顔が素敵で、正直なところ惚れ始めていた。 好きと言われて、その感情が少しずつ少しずつ空気を送り込む浮き輪みたいに、徐々に膨らみつつある。 でも、これは彼にとっては浮気だ。だって彼女がいるのだもの。 元旦那がしていた事と同じではないか。嫁がいながらにして、嫁以外の女と関係を持つ。 高橋君も案外、彼女に嫉妬して欲しいだけだったりして。 真面目で一本気だと思っていた高橋君に、少し落胆したという気持ちも、無くはない。 2人で話し合える場を持たないと。 そんな風に思った。 金曜の朝、私より早く出社していた高橋君は、PCのモニタと睨めっこをしながら「おはよ」と声だけで挨拶をした。私も「おはよ」と応える。 隣にある私のデスクに目を遣ると、新しい機材の営業資料と共に、薄黄色のポストイットが貼ってある。 『今日、藤の木で待ってる。高橋』 光の早さでそのポストイットを剥がし、ポケットに入れた。顔は真っ赤だ。 「よし、じゃ、行こうか」 私が営業資料を手に持ったのを確認し、高橋君はスタスタとドアに向かって歩き始めた。 まだ資料読んでないのに。ま、車中で読むか。 午前中は外回りだ。社用車で営業先へ向かう。 車中で営業資料を読んで時間を潰したが、読み終えた後は会話も無く、どうにも我慢たまらん雰囲気になった時、「そういえば」と思い出した。 「あ、ガム、買ってきたんだ」 鞄をゴソゴソと漁り、底の方からミントガムを取り出した。 「お口に合うかわかりませんが」 そう言って板ガムを1枚取り出し、包装を解き、高橋君に手渡した。 「あぁ、気ィ遣わせちまって悪ィな」 高橋君は職人の様に骨ばった長い指で、それを受け取っり、口に放り込んだ。 午後は社に戻り、報告書の作成に勤しんだ。 来週からの営業予定も提出しなければならない。 今日は定時に上がれそうもないな。 そう思いながらPCの画面にカタカタと文字を打ち込んで行く。 定時のチャイムが鳴り、今日内勤だった人の殆どは「おつかれー」と帰って行った。 報告書を書き終えたと思われる高橋君も、荷物をまとめて部屋を出ようとするのが視界に入った。 一瞬、足を止めてこちらを見たのが分かった。 私は、それに気付かぬふりをして、難しい顔を浮かべながらPCに向かった。 営業予定の作成に、思いの外手間取って、気付いたら20時近かった。 高橋君はまだ、藤の木で待っているだろうか。 ここからの作業は30分あれば終わるだろう。いや、20分。 私は、藤の木に行ってはいけない気がした。彼との関係に何らかの動きが生じる事は明らかだ。だっていつもなら、ポストイットになんて要件を貼らない。直接言葉で伝えてくるはずだから。 彼自身が、何らかの動きを生じさせようとしているに違いない。 PCを打つ動作が自然に遅くなる。 このまま、残業を続けよう。彼が諦めて藤の木から去るのを待とう。 彼には悪いが、そう思った。 2人で話し合える場を持たなければ、とは思っていたが、いざとなると竦んでしまうのだった。 |