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16 涼子とヒモ君

 金曜日、涼子と終業が同じ時間だったので、駅まで一緒に帰る事になった。今日は課長は終日出張で、お泊りのお招きも無かったから。
 私は鞄に携帯を入れ、涼子はお尻のポケットに携帯を入れた。
「お先です」
「お先に失礼します」
 在席表のマグネットを「帰宅」にし、居室を後にした。
「あれからヒモ君からの連絡はあったの?」
「ううん。全然。何処で何やってんだか。まぁもう別れたも同然だから、考える必要もないのかなって」
 そう言葉では強がっていたが、横顔は曇っていた。彼女らしくなかった。
「それでいいの?」
 彼女の顔を覗き込みながら訊いた。
 彼女は私から視線をそらすようにして顔をそむけた。
「良いも何も、どうする事も出来ないでしょ、この状況」

 会社のエントランスを抜けると、目の前に川がある。その柵に寄り掛かる一人の男性がいた。横にはフェンダーのベースケースが置いてある。
「大輔――」
「へ?何、ヒモ君?」
 彼には聞こえない様に「ヒモ」という言葉を吐いた。
 彼はベースを背負ってこちらへ歩いてきた。予想していた「ヒモ君」より全然しっかりしていそうに見えた。
 涼子の前に立つと、口を開いた。
「行く場所が、ねぇんだ」
「だから何」
 涼子は酷く冷たい声で言った。彼は涼子の顔をじっと見た。
「帰る場所はお前の所しかねぇんだ」
 涼子は黙っている。何か言いたいのに口に出来ないでいる様子で口元を震わせている。
「店長とは、ちゃんと話して、もう一度雇ってもらうから。ちゃんと働くから。だからお前の横にいさせてくれ。帰りたいんだ」
 涼子はこちらへ向くと、私に「ごめん、先帰って」と言った。その目には何か揺れる物が煌めいていて、もうすぐ零れるんだろうなと予想が出来た。
「じゃぁ、お先に」
 そう言って私は歩き出した。

 彼は「帰る場所」と言った。帰る場所がある恋愛。とても幸せな事だ。
 そこに帰れば好きな人の笑顔が待っている。誰かが自分を待っている。それは恋愛ではなくても、結婚にしたって同じことが言える訳だ。
 私は――帰っても誰もいない。恋をしている相手には、「家庭」という名の帰る場所がある。課長がいくら「ここにいる間は」と言っても、時が去れば必ず、彼はそこに帰る事になるのだ。
 不毛な恋愛、分かっていながらそんな風に思った。


『明日、コーヒー飲みに行ってもいいかー?』
 十月に入った金曜の夜だった。いつもの調子で神谷君から電話が掛かってきた。
「いいよ、いつでも」
 彼は研修の時に私に告白をしてストレートに振られておきながら、全く動じることなくこうしてコーヒーを飲みに来る事が出来るのだ。とても強い。

「どん、どん」
 新しいやり方だなぁと思いつつカギを開ける。
「ぴんぽーんとやってる事変わらないから。ご近所に迷惑だから」
「あらそう?」
 どうせすぐ脱いでしまうスリッパをつっかけてスタスタとリビングへ行き、いつも通りソファに腰掛ける。
「俺ねぇ、ホットとアイス、両方飲みたいなー。先にアイス」
「はぁ?アイスしか用意してないのに。もう」
 とりあえずアイスコーヒーをミルク多め、ガムシロ多めで手早く作り、コースターと一緒にテーブルに置いた。「コースターを使う事」そう言って。
 キッチンにとってかえり、ミルでコーヒー豆を挽いた。コーヒーそのものとは違った、独特の香ばしい匂いが部屋に広がる。この瞬間が好きだ。
 粉をコーヒーメーカーにセットし、タンクに水を入れ、ボタンを押す。
 リビングからは「うまいなあ、みどりさん」と立ち上がって窓の外を見ながら言う声が聞こえる。
 私は自分の分のコーヒーを手に、ソファに座った。
「そういや」神谷君が口を開いた。
「竹内さんは暫くご乱心だった様子だけど、大丈夫なの?」
「うん、彼が会社まで来て、『帰る場所はお前しかいない』的な事を言って涼子を掻っ攫って行った」
 へへぇーと数回頷きながらソファに寄り掛かった。
「帰る場所ねぇ。沢城さんは帰る場所、あるの?」
「ないでしょ、どう見てもここしか」
「俺のとこ、どう?」
 自分の胸を指さして言った。コイツは――どうしてこういう事を、私を目の前にして平気で言えるんだろうか。おちょくってるんだろうか。
 グラスを左右に揺らしながら、氷を動かす。良く冷える様に。
「暫くは課長がいますからー。結構です」
「じゃ、予約ぅー」
 全く効かない。彼には何を言っても効果が無い。暖簾に腕押しというのは、こういう時に使うことわざなのか。馬の耳に念仏?
「あ、ギター弾かしてよ」
 思い出したようにそう言うので、私はギタースタンドからテレキャスターを持ってきて彼に手渡した。
「もう一本のあの穴が開いた奴は?」
「あれは大事なリッケンバッカー」
 おもちゃじゃないんです、と言った。
 彼はチューニングもされてないギターを適当に爪弾いた。音が鳴る度に「おぉ」と反応した。そのうち適当な指でコードを押さえる真似をしてジャカジャカと右手を動かしたが、何のコードにもなっていないそれは、不協和音しか生み出さなかった。
「神谷君ってギター弾いた事、あんの?」
「ないよ」
「じゃ、何でギター弾かせてって言った?」
「沢城さんがいつも大事そうに弾いてたから、俺も触りたかった」
 痴漢かっ!触りたかったって何だ。まぁでも、大事にしている事が伝わって何よりだ。
「神谷君には音楽の才能、ないのだよ」
「何の才能ならあったの?」
 うーん、天井を見ながら暫く考え込んでいた。やっと出てきたのが「野球?」だった。訊かれても――。
「野球やってたの?」
「うん、小学校から大学までずっと」
 有名選手にならずとも、それだけ続けてきたのは凄い事だと思ったので正直にそう言った。
「でしょ、惚れ直した?」
 言わなきゃ良かったと酷く後悔した。彼を、神谷久志を褒めてはいけない。
「野球と言えば、課長も野球やってるらしいよ。未だに」
 神谷君はまるで拗ねる子供の様に膨れっ面をし、「課長の話、すんなよぉ」と言った。
 結構可愛い所があるんだな、と感じたが、それも口に出すとつけあがるので言わない。
「沢城さん、次はホットコーヒーが欲しいです。ミルク多めの砂糖多めで」
 ミルクっつっても牛乳だからね、と断りを入れておいた。空いたグラスを回収しようとテーブルを見ると、今日はきちんとグラスがコースターの上に置かれていた。
 やればできるじゃないか、神谷君!とは言わない。