20 志保



ここ数日、体調が優れない。食欲が無い。
特に食べたい物も無く、仕方がないので飲み物と、ゼリーを食べてお腹を満たす。
今日も昼休みに「食堂にはいかない?」と先輩に誘われたが断った。
少し外の空気が吸いたくなって、外に出てみた。植樹だとしても緑は緑。木の下にいると少し気分がいい。

自分を心配してくれている鈴宮君に、とても酷い事を言ってしまったと後悔している。
実際は誰かに相談すべき事態だと認識している。
だが、明良と私の特殊な結びつきを理解してくれる人は殆どいないであろうと諦めているし、私は今のいびつな関係であっても明良と一緒にいる事を望んでいる。
あの翌日、通し勤務を終えた鈴宮君は、午前中には帰って行ったが、いつもと同じように接してくれた。その後も、だ。
優しいな、と思った。

今まで明良以外の男の人と関わった事が無い訳ではないが、鈴宮君は私の中に入り込もうとしている事が何となく分かる。
今までは大抵、「志保ちゃんには宮川君がいるから」と1歩ならず2歩引いて接してくる男性が多かった。
中学の頃だったか、私には明良と言う彼氏がいる事を知っていて2度も告白をしてくれた男性がいた。
明良に知られてボコボコにされた。それ以来彼が私に近づく事はなかった。
それ以外で、私と明良の関係に、私の心の中に入り込もうとするのは鈴宮君だけだ。
それを今、悪く思わない自分がいる。気に留めてくれている事を嬉しく思う自分がいる。

「志保ちゃーん」
中庭でバレーボールをやる一団の向こうから、鈴宮君がビニール袋を提げて手を振っている。手を振りかえすと、こちらへ走ってきた。
「はぁ、この前の、通しの時のお礼ね」
 息を切らせながらそう言うと、紙パックのいちご牛乳をビニールから取り出し、私に手渡した。
「ありがとう」
 まだ自動販売機で買って間もないのであろう、心地良く冷えていた。
「志保ちゃんはいつもカフェで甘い物飲んでるから、それを選んでみた」
「いちご牛乳、好きだよ」
「それは何よりで」
鈴宮君は芝生に座る私の隣に「失礼」とひと言投げてから腰かけ、紙パックのコーヒーにストローを挿して飲み始めたので、私もいちご牛乳にストローを挿して飲んだ。
甘ったるい匂いが口の中に広がる。

「俺ね、彼女と別れようと思ってるんだ」
鈴宮君の意外なひと言に、私は目をパチクリした。「そんな顔しなくても」と鈴宮君は苦笑いを見せた。
「前に志保ちゃんに言われた言葉、あれは効いた。俺は彼女達を傷つけてるって」
あぁ、私は酷い事を言ったと後悔していたが、結果的には良い方向に進むんだろうか。先を促すように「ん」と頷いた。
「人を好きになるって、俺は今まで経験が無いんだ。好かれる事はあっても、自分が好きになる事って無かった。それが今、『好きだな』って思える人が出来て」
目の前では白いバレーボールがポンポン跳ねている。地面に付くたびに複数の「あぁぁ」という落胆の声が聞こえる。
「良かったじゃん。大事な事に気づく事が出来て。人を好きになるって、結構な覚悟が必要だよね」
9月の風が木を揺らし、木漏れ日が左右に揺れる。いちご牛乳をもうひと口、飲む。
「志保ちゃんみたいに、1人の人を『好きだっ』って思ってるのは凄いなと思うよ」
「好き、ねぇ」

好き、という言葉に何か違和感を覚えた。
私は明良の事が好きで一緒にいる筈だ。だけど明良の事が好きなのかと今一度、良く考えてみると、素直に「好き」と言えない自分がいる。
一緒にいなければいけない「使命」がある、と自分を雁字搦めにしているのではないか。頭の片隅で、冷静な自分がそんな警鐘を鳴らす。
「明良とはね、中一の頃にはもう、セックスしたの」
私のカミングアウトに鈴宮君は面食らった様子だった。
「明良も私も、親を知らないんじゃなくて、親に捨てられた、それに捨てられた記憶も残ってる。2人とも同じような境遇で育って、自分の足りない部分をお互いが補い合って生きてきたの。だから、好きとか何だとか、そういう言葉で表すのが難しい関係なんだ」
重たい話をしてしまって少し後悔した。だけど鈴宮君は「うん、うん」と誠実なしっかりとした目で頷いて聴いてくれた。
「施設の人に迷惑を掛けないように、夜はすぐに寝たふりをして、誰もいなくなってから母を想って泣いてたの。毎晩。その度に明良が抱きしめて背中を擦ってくれてたの。小学生の時ね。そんな頃から、お互いに触れる事に慣れてたし、お互いの思う事が手に取る様に分かるようになってた」
「そこにいて当たり前の存在なんだね」
鈴宮君の瞳が少し淋しげに揺れた。
「じゃぁ乱暴されるのも、相手の気持ちが分かるから、許しちゃうって事か」
「そうだね、その通り」
私は潔く頷いた。
暫く沈黙が流れた。バレーボールは明後日の方向へ飛んでいき、ゲラゲラと笑う声が中庭にこだまする。何がそんなに楽しいのか。

鈴宮君は両手を頭の後ろにやって芝生に寝転んだ。
「俺にはわかんねーなー。いや、そう簡単に分かる訳もないんだけどさ。それでも大切な女の子に傷を負わせる程、暴力を振るうってのぁ、俺には理解できない」
業務開始5分前のチャイムが鳴った。
「変な話聞いてくれてありがと。何か鈴宮君って優しいから、何でも話せちゃうな」
「俺は彼女と別れる、とここに誓う」
よっこらしょ、っと立ち上がり、強くそう言う鈴宮君に、今までに無い強さを見た。
微笑みながら私も立ち上がると、目の前が青くなり頭がグラリと揺れた。
「ちょ、大丈夫?」
冷や汗が湧きあがってくるのが分かった。頭の奥がずきずきする。胃がせり上がって口へ近づく様な気持ちの悪さ。
暫く鈴宮君に寄り掛かっていたが、そのうち目の前が色を取り戻した。
「ごめん、ちょっと最近体調が悪くて」
鈴宮君に付き添われるような形で居室に戻った。体調が悪くなり始めて2週間は経つ。
まさかとは思うけれど――。



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